そこに広がるセカイ

ふい

そこに広がるセカイ

 そこには数えるのも億劫になるほど無数の世界が広がっていた。

 近所や学校の美少女と距離を近づけたり離れたりしながら交流を深める世界。

 交通事故に遭った男が別の有機生命体どころか無機物にすら転生してしまう世界。

 現世と死語の挾間の世界に迷い込んで同じ境遇に陥って混乱している人間たちと交流する世界。

 開いた口が塞がらなくなるほど想像もつかない世界の数々が、そこにはあった。


「ミコト、何してるの?」


 いつの間にかおれの部屋に入ってきていた姉の美夜が、朴訥ぼくとつとした声で訊ねてきた。


「今日、クラスの奴らがWeb小説投稿サイトの話をしててな。どんなもんなのかちょっと気になったから閲覧してただけ」


 ノックの音が聞こえなかったことにじんわりと込み上げてくる不満がないわけでもなかったが、意識がサイトのほうに集中していたので、おれの脳がそれを認識しなかっただけかもしれない。

 証拠不十分で批難するのも筋違いなので、今回は大目おおめに見ることにして、おれはパソコンの画面に視線を戻す。と、美夜は机の前に座っていたおれの脇に両手を通して軽々と持ち上げると、自分が椅子に腰を下ろしてその膝の上におれを置いた。まるでぬいぐるみかペットのような扱い。

 高校生女子にしては慎重が高い姉と、同じ年頃の男子にしては成長が伴っていない弟では、こんなことも易々やすやすと可能にしてしまう。おれが男としてのプライドを発揮して逃れようにも、既にこの華奢な身体は触手のごとく長い姉の腕でロックされていて、脱出はかないそうになかった。

 おれは忸怩じくじたる思いを飲み込んで、肩越しに画面を覗く姉の息遣いを間近に感じながらも画面に意識を戻す。

 どうやら件のサイトでは、ちょうどお題に沿った短編を登校して何かの賞が貰えるというコンテストが開催中のようだった。

 仮にも中学時代は文芸部に所属していた身だ。物語を執筆したことは一度もないが、そっち方面にも多少の造詣ぞうけいはある。

 ふむ。

 おれは思い付きでアカウントを作成し、慣れない画面操作で自分の執筆スペースへと移動した。


「何か書くの?」

「まぁ、ちょっとな」


 おれは第一文を書き出すべく、キーボードに指を走らせ始めた。

 出だしの良し悪しなんてわからない。

 起承転結もよくわからない。

 それでも小説のていをなしているのかもよく分からない駄文を羅列させ続けた。


「そこの漢字変換、間違ってる」


 顔の横、数センチ辺りから聞こえてきた指摘に反応すると、確かにそこには誤字があった。

 手早く修正して、おれは続きを書き始める。


「そこの文法おかしい」


 次なる指摘に目を向けると、接続詞の謝った一文がそこにはあった。

 速やかに修正して、執筆の続きに気持ちを戻す。

 が、その後も度々、おれの耳元から指摘が飛び出してきた。

 

「そこは倒置法のほうがいい」

「ちょっと短い範囲に一人称を詰め込みすぎ」

「さっきの一文と矛盾してる」


 その度に集中力と手を止めさせられることを余儀なくされ、おれはたまらず叫んだ。


「あーもうおまえちょっと黙ってろ気が散る!」

「『おまえ』じゃなくて『おねえちゃん』。ミコト、そこ意味が重複してる。間違った日本語が誤ってる」

「おまえの日本語使いもまぁまぁおかしーんだけどな! あーもう頼むから黙っててくれ! アイデアが飛ぶ! 誤字とか文法のチェックとかは後でやるから!」


 そんなやりとりをしている内に、次に打とうと思っていた一文が記憶から飛んでしまっていた。ほら言わんこっちゃねー! あと座り心地が不安定で集中できん!

 しかしおれの心からの叫びが功を奏したか、それ以降、美夜はむっつりと押し黙って口を閉ざしてくれた。

 その隙にと、おれは執筆を再開する。

 記憶の海の奥底に沈んだフレーズを引き上げる。

 新たなアイデアを創造する。

 …………できた。

 最後の一文を書き終えて、おれは深い深い息を吐いた。

 まさに時を忘れるほどの長い間、水中にでも潜っていたかのような感覚だった。……いや死んでるな、それ。

 すぐさま推敲、と行きたいところだったが、初稿として書き上げた作品は一度寝かせるといいと、中学時代の文芸部で聞いたことがある。

 おれは脳を休ませるためと、気分転換のために他の作品を覗き彷徨さまよってみることにした。


「なんかもう、これホントすげーよな。おれ、たった三千文字足らずの分量を書いただけですげーエネルギー使った気がするんだけど、こいつらこんなに書いてんのかよ。……うわ、よくこんなこと思い付くな、どっから出てくんだそんなネタ。……ん? なんかこの世界観っつーかセンスっつーのか、不思議な感じがするな。こういう完成おれにはねーわ。……あー、なるほど、これをこう表現してんのか。どういうアタマしてたらそんな表現できるんだよ……」


 覗くべきじゃなかったかもしれない。

 そう後悔しそうになるほど、自分にはないモノをたくさん持っている人間が山ほどいるのだということを、ただただ痛感させられた。

 おれなんてこの作者たちの足元にも及ばないだろう。とても肩を並べられるなんて思えない。たった三千文字にも満たない話を生み出すだけですげー疲れたし。

 それと同時に、畏敬の念が芽生えそうになっているのも事実だった。

 人間の頭の中にはこれだけの世界アイデアが広がっている。

 これだけの世界アイデアを生み出す泉が存在する。

 そのことにある種の神秘すら感じ、そしてその世界を作り上げてしまう人間がこれだけひしめめいているこの画面の中が神話の世界のように感じられた。

 ……そーか、こいつらは神だったのか。


「はー、なんかもうホントすげ……ん?」


 と、そこでようやく、おれは座り心地が安定していることに気がついた。

 首を巡らせると、姉の姿は背後のベッドの上。

 いつの間にかおれを持ち上げて椅子に戻し、そちらへと移動していたらしい。そんなことにも気づかないほど、おれは思考の海に潜り込んでいたのか……。

 普段から朴訥としてあまり年頃らしくない振る舞いや言動の目立つ姉だが、ベッドに寝転がってスマホを弄る姿は年相応の少女のようでもある。……父親が声を掛けてもスマホに夢中で生返事しかしない年頃の女子高生。

 とにかく、こいつが大人しいのは良いことなので、気分転換も十分だろうと、おれは推敲作業に入った。

 美夜が指摘した部分も含め、気になったところを修正していく。

 よし、これで大丈夫と、三回ほど見直しを終えたところで、おれは手指が震えるのを感じながらも何とか投稿ボタンを押した。



 心臓は早鐘のように高鳴っていた。

 読んでくれる人間はいるだろうか。

 ――やがて、お知らせ画面がコメントの新着を告げる。

 まだ投稿してたった数分だっていうのに、もう!

 おれは未だ鳴り止まない心臓の音を感じながらも、恐る恐るコメントを開いた。


『まだ誤字がある。死語→死後。慎重→身長。登校→投稿。完成→感性』


「…………ん?」


 ほとんど必要最低限のことしか口にしない淡々としたその言葉遣いには覚えしかなかった。

 おれは振り返って、弟のベッドの上に横になっている姉の手元を覗き見る。

 角度が悪くも何とか見えたその画面には、おれがたった今しがた投稿した短編小説が表示されていた。


「っておまえかよっ!」


 ホント心臓に悪いわ……。

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