小説なんか絶対に書かない
尾八原ジュージ
小説なんか絶対に書かない
その封筒が投函され続けていたのに気づいたのは、俺が三ヶ月の海外出張から帰ってきた日だった。マンションの管理人が好意で郵便をとっておいてくれ、「はい、小野寺さんの」と段ボール箱にまとめてくれた中にそれらは入っていたのだ。
三ヶ月ぶりの部屋は、なんだか他人の部屋のような匂いがして少し落ち着かなかった。スーツケースを置くと、俺はまず郵便物を確認することにした。とはいえ大したものはない。昨今、カード明細だの請求書だのは皆Web上で確認するようにしているし、見るべきものといえば親戚から届いた結婚の挨拶状くらいだった。しかしそれらの中にあった十二通の白い封筒は、心当たりがないだけにかえって俺の気を引いた。
封筒自体はこれと言って特徴のないもので、表にはひどい金釘文字で俺の住所と名前が書かれている。裏返すと「ぺりかん文藝」という名前と電話番号が古めかしい書体で記されていた。見た目からして、どうやら判子を押しているようだ。
とりあえず俺は、一番消印の古い封筒を開けてみた。中には何枚かまとめて折られたコピー用紙と、それとは別に折られた紙が一通入っていた。まとまっている紙には、縦書きで何かがつらつらと書いてある。読んでみると、それは小説のような、エッセイのようなものだった。日常の何ということもない事柄がずらずらと書き連ねてあるばかりで、しかも文章が上手いわけでもないからさっぱり面白くない。
変なものが届いているな、と別になっていたペラ紙を開くと、これだけは横書きで、一番上に「小野寺祐司様」と俺の名前が書かれていた。やっぱり俺に用事があるようだ。
「いつも当サークルの作品をお読みいただき、まことにありがとうございます」から始まるその書面を読んでみると、どうやら俺は何かしら文芸サークルのようなものに参加していることになっているらしい。まったく心当たりはないからきっと何かの手違いだろう。しかし、今時紙に印刷したものを郵送してくるとは、何ともアナログなサークルである。
とにかく、こんなものを送りつけられ続けても困る。会費を請求される可能性だってある。
俺は封筒に書かれた番号に電話をかけてみた。十回以上もコールした後で、『はい、ぺりかん文藝です』とやたらと平坦な男の声が応えた。どこかで聞いたことがある声のような気がしたが、思い出せなかった。
「すみません、そちらの会報が間違って届いているんですが……というか私がですね、覚えがないのに登録されているようなんですけども」
『読者の方ですか』
「いやそうではなくて、たぶん間違ってですね」
『封筒、開けました?』
「ええ、まぁ」
『中身、読みました?』
「少しだけ」
『でしたら読者でしょう、あなた』
押し問答が続いた、というかこちらが一方的に押しているだけで、向こうはのらりくらりと逃げ続けた。三十分ほど続けて、俺は諦めて電話を切った。ぐったりと疲れていた。しかしながら会費もかからず、特に義務も発生しないようだということはわかったので、まるで収穫がないわけではなかった。
俺は放っておこうと決めた。遠方から帰ったばかりということもあり、もはや何をするのも億劫だった。未開封のものも含めて、俺は「ぺりかん文藝」をまとめて捨てた。
それからも白い封筒は毎週木曜日に届き、俺は開けもせずにそれを破棄した。誰が見ているわけでもないが、自分は読者ではないのだということを、行動によって示したかった。
出張に行っていたせいで有給休暇を消化し損ねた俺は、年度末にも関わらず三日間の休暇をとらなければならなくなった。仕事がなくなるわけではないからありがた迷惑である。月、火曜日にぎっしり作業を詰め込んで、なんとか休む準備ができた。
水曜日、俺は地下鉄に乗って九段下へ行くと、古本屋街を特に用もなくぶらぶらと歩いた。読書家というほど本を読むわけではないが、古い紙の匂いとこの通りの雰囲気は好きだ。俺は店先のワゴンで物色した有名作家の推理小説を購入し、中華料理屋で昼食をとって帰った。
翌日の木曜日、例によって届いた封筒を俺は無視できなかった。いつも白いはずの封筒が、その日は真っ赤だったのだ。相変わらずの金釘文字で宛名が書かれ、「ぺりかん文藝」のスタンプが押されていた。
この急な変化には何か意味があるのだろうか。俺は自分の部屋のソファに座り、鋏を使って封筒を開けた。やはり数枚の縦書きの紙と、一枚の横書きの紙とが入っていた。俺はまず、横書きの方を手に取った。
「小野寺祐司様 この度はご執筆ありがとうございます」
寄稿に対する礼がつらつらと書かれており、執筆陣にまで加わった貴公は強い絆で結ばれた仲間とまであるが、もちろん執筆などした覚えはない。何が目的なのかわからないが、おそらく俺の名前と住所を騙る何者かがいるのだ。
この中にそいつの書いた物があるということだろうか。気になった俺は縦書きの方を探した。一番上の紙に、さっそく俺の名前が印刷されていた。
「休暇を消化せねばならなかったのでそのようにした。水曜日、私は地下鉄新宿線に乗って九段下駅で降り、古本屋街を冷やかした。読書家というほどでもないが、古い紙の匂いはいいものだ。……」
俺は手に持った紙を、いつの間にか握りつぶしていた。購入した本のタイトルも、中華料理屋で昼食をとったことも、それどころかふと考えたことまで、何もかも俺の記憶にあるものだった。
俺は赤い封筒を見ながら電話をかけた。今度はたった一回のコールで相手が出た。
『はい、ぺりかん文藝です』
「そこに登録されている小野寺祐司のことなんですが」
と話し始めて、俺の口が止まった。この状況を何と説明すればいいのかわからなかった。ストーカーがいるから何とかしてくれ、とでも言うべきか? 文藝サークルの主催者に?
『小野寺祐司さんは、あなたではありませんでしたか?』
以前のように平坦で、そしてどこか聞き覚えのある声がそう返してきた。
「そうです。しかしそちらに寄稿した覚えは……」
『小野寺祐司さんには、小説をご執筆いただきました』
「ですから、それは私ではないと言っているんです」
『小野寺祐司さんには、小説をご執筆いただきました。あなた、本当に小野寺さんですか?』
いつの間にか俺は全身に冷や汗をかいていた。俺は小野寺祐司だ。間違いなくそのはずだ。このマンションは俺の名前で借りている。会社に行けば皆が俺を小野寺さんと呼ぶし、小野寺祐司と印刷された名刺も持っている。自分の名義のクレジットカードで買い物もした。だが。
電話の向こうから聞こえる声は、俺の声だ。
『小野寺祐司さんには小説をご執筆いただきました』
当文藝サークルの一員です、と言われた瞬間、ひどい耳鳴りが俺を襲った。
窓の外を救急車のけたたましいサイレンが通りすぎた。我に返った俺は、電源の落ちたスマートフォンを握りしめていた。
慌てて見返した赤い封筒には、電話番号の代わりに見覚えのない外国語のような模様が印字され、どこに電話をかけていたのかわからなくなっていた。通話履歴も残っていない。
俺は赤い封筒に中身を戻し、マンションを出ると、最寄り駅のゴミ箱にそいつを突っ込んだ。
それからも毎週赤い封筒は届いている。俺は見ないふりをして、チラシと一緒に捨てることにしている。俺は執筆などした覚えがないのだから、この封筒は俺に届いたものではない。たとえ宛先がこのマンションのこの部屋の、小野寺祐司になっていたとしても、それは俺ではない何者かなのだから、俺が受け取るべきものではない。
俺はこの先も絶対に小説など執筆しない。もしもあなたが、俺の署名がある小説を見かけたとしても、それは俺が書いたものではない。
断じて。
小説なんか絶対に書かない 尾八原ジュージ @zi-yon
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