第14話 寿司
わたくしは三段の君と向い合せでコーヒーを飲んでいます。
彼の隣には折原さんがいます。
表面的には三人で楽しくおしゃべりしていますが、わたくしは全然楽しくありません。三段の君と折原さんが話す将棋の技術的なことは、わたくしにはちんぷんかんぷんです。彼は折原さんとむずかしい将棋の話をするとき、活き活きとしています。知らない棋士の名前がたくさん出てきます。わたくしは話についていけません。
ほとんど話せないままコーヒーを飲み終わり、三段の君が「帰ろうか」と言いました。つまらなかったなぁと思いながら、わたくしは腰を上げましたが、折原さんが手で制しました。
「佐藤先輩、少しお話があるので、二人でもう一杯ずつコーヒーを飲みませんか」
「うん。いいよ」
三段の君は女二人をちょっと見た後、三杯分のコーヒー代をテーブルに置きました。
「先に帰るよ」
彼は喫茶店を出ました。
わたくしと折原さんはお店に残り、コーヒーのおかわりを注文しました。別にもうコーヒーなんて飲みたくなかったけれど、折原さんが話があるというのだから、仕方ありません。
二杯目のコーヒーが運ばれてきてから、折原さんは口を開きました。
「私、テニスサークルの彼とは別れました」
「そう。どうして?」
「志木さんを好きになったからです。先輩には悪いと思うけれど、私、男の人を好きになったら、行動せずにはいられないんです」
「それで、志木さんと少しつきあって、またすぐに別れるの?」
「そんなつもりはありません。でもまた別の恋をしたら、そういうことになるかもしれません」
折原さんはわたくしの目をまっすぐに見つめて、悪びれるようすもありません。
「わたくしも志木さんを好きなのだけど」
「経済学部の栗原先生は?」
折原さんはわたくしを見つめています。パソコンや文庫本に向かっていなければ、彼女はきちんと人の目を見て話すのです。
「知っているのね」
「先輩と栗原先生が二人でいるのを見た人はたくさんいますよ」
「そうか。まぁ何度かお食事をしたから、見られていてもおかしくはないわね」
「不倫ですね」
「まさか。一緒にごはんを食べただけよ」
「文学部の学生と経済学部の教授が食事をするのは不自然です」
「そう見えるでしょうね。栗原先生とはちょっとした縁があって、親しくなったのよ」
「先輩は栗原先生のことをどう思っているのですか」
この子、ずばずば来るわね。
「嫌いではないわ」
「好きなんですか」
「まぁまぁ好きよ」
「志木さんと栗原先生、どっちが好きなんですか」
折原さんに激したようすはありません。淡々と攻めてきます。
「わからないわ」
「二股ですね」
「どちらとも清い関係よ。ただの知り合い」
「もし私が志木さんと恋人になったら」折原さんの目に力が籠りました。「引いてくださいね」
わたくしには折原さんほどの積極性はありません。執着もない。この子には勝てそうにありません。
もう彼女と三段の君のことを話したくなかった。
「新しい小説の執筆は順調?」
わたくしは話を変えました。
「ええ。私、文章を書くのが好きなんです。前にも言いましたけれど、『源氏物語』に匹敵する現代恋愛小説を書くのが夢です」
「ずいぶんと『源氏』に執着しているのね」
「執着ではないですね。愛着があるんです」
「執着と愛着とどう違うのかしら」
「ずいぶんと違うと思いますよ。『源氏物語』には我が子に対するような愛着があるんです」
わたくしも「枕草子」には愛着があります。
「不思議なことを言うのね。まるであなたが『源氏物語』を書いたみたい」
ふふっ、と折原さんは微笑みました。なんだかミステリアスです。小悪魔め。これは現代では誉め言葉らしいですね。憎らしい。
「帰りましょう。伝えたいことは伝えました」
わたくしも彼女も二杯目のコーヒーには口をつけませんでした。
夜になって、栗原教授と会いました。
「というようなことがあったんですよ!」
わたくしは折原さんとの一件を教授に言わずにはいられませんでした。お寿司屋さんの個室で、仔細残らず伝えました。
「ふぅーん」
教授はこはだを手づかみにし、醤油を少しつけて口に放り込みました。ムシャムシャと噛んで、ゴクンと飲み込みました。
「わたくしにはわからない将棋の話ばかりしてるんですよ。ひどくないですか」
今度はいくらをつかんで、醤油をつけずに食べていました。いくらには醤油味がたっぷり染み込んでいるので、それでいいのでしょう。
「将棋ねぇ」
「折原さんったら、触り魔なんですよ。彼の腕とか肩とかにタッチしまくって!」
わたくしはまだ何も食べずに、教授に愚痴をこぼしまくっています。彼は中トロに醤油をさっとつけて口にしました。少し噛んで、トロを舌の上で溶かしているようです。
「触り魔かぁ」
教授の口調が変。
わたくしは、栗原教授がいつもとようすが違うのに気がつきました。自分の愚痴を言うのに夢中で、今までわからなかったのです。
彼はやや猫背になって、上目使いにわたくしを睨んでいました。
今日の教授、怖い。
「そんなやつら、どうだっていいじゃないか、真美子」
「わたくしは清美です」
「あくまで清美だと言い張るのか、真美子」
「真美子ではありません」
「じゃあ、清美でもいいよ」
彼は醤油をつけずに手づかみであなごを食べ、人差し指に残った米粒を舐め取りました。
「何かあったんですか」
わたくしは今日初めて自分の話をやめ、聞く姿勢になりました。
「妻と子に逃げられた」ぶっきらぼうに、彼は言いました。
「昨夜帰ったら、置き手紙があった。『実家に帰ります。連絡しないてください。来ないでください。娘は私が育てます』だとさ」
わたくしの顔は蒼ざめていたに違いありません。
「なんで急に」
「続きがある。『女学生と浮気するなんてサイテー』」
「女学生って」
「きみだよ」
わたくしは口を噤みました。
教授は何という名かわからない白身魚の握りを口に突っ込みました。
「う、浮気じゃないですよね。お食事をしているだけ」
「僕には下心があるから、浮気同然だ」
彼は手酌でおちょこに酒を注ぎ、くいっと飲み干しました。
「僕ときみのデートは学生の間で少し噂になっているらしい。妻に知られても不思議じゃない」
「ご家族に知られても、破局にはならないはずだったのでは」
「僕の見込みが甘かった」
「ごめんなさい。わたくし、悪いことをしました」
「謝らないでくれ、清美くん」
栗原教授は姿勢を正しました。
「僕はね、妻を追うつもりはないよ。前に言ったけど、あいつの実家は裕福なんだ。妻も娘も食うには困らない」
「追ってあげてください」
「追わないよ。僕はきみに本気だからね」
「契約違反です。恋愛抜きでと申し上げたはずです」
「真美子を置いてさくらの会を抜けたのは間違いだった。あれはひどい失敗だったとずっと思いながら今までの人生を送っていた。僕は真美子を本気で愛していたんだ。あそこに行けば、いつでも会えると高を括っていた。しかしさくらの会は消滅し、あの子はどこかへ行ってしまった。探したよ。まったく行方知れずだった。仕方なく、今の妻と結婚した。有力者の義父を持って、僕はすんなりと教授に昇進したよ。平凡な研究をして、つまらない講義をして、家族に尽くした。真美子のことは忘れようと努力し続けた。そんなとき、きみを見つけた、真美子」
「真美子じゃありません」
「真美子でも清美でもどっちでもいい!」
教授はわたくしの肩をつかみました。
「三段の君とやらは、触り魔にあげて、僕を選んでくれ」
教授の瞳に、狂気が。
「痛いです」
わたくしは教授の手首をつかみました。彼ははっとしたように自分の手を見つめ、わたくしの肩を離しました。
「すまん。今夜はどうかしてる」
教授は席を立ちました。
「悪いけれど、先に帰るよ。支払いは済ませておく。ここの寿司は美味しいよ。食べて帰ってくれ」
彼は肩を落として帰りました。
わたくしは大トロを食べましたが、味がしませんでした。
嘘つき。一人で食べたって、美味しくないわよ。
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