第13話 原野
「というわけで、散々だったんですよ」
わたくしは栗原教授が運転するトヨタプリウスの助手席で、ぷんすかと愚痴を言っていました。むろん三段の君と折原さんのことです。
「そうか。恋のライバルが現れたんだな」
わたくしたちは首都高速道路に乗り、かつてさくら自給自足の会があった場所を目指していました。
「まだ一年生なのに、今は四人目の男の人とつきあっているんですよ。三段の君とつきあったりしたら、五人目です。そして、彼はすぐに捨てられるに違いありません」
「ビッチだな」
「正真正銘のビッチです」
「きみがふられると、僕にとっては都合がいいんだが」
「先生、わたくしとは恋愛ではないつきあいをする約束です」
「確かにそう約束はしたが、僕はきみが好きだ。もしきみが僕を好きになったら、その契約は変更しようよ」
そんなふうに言われると、悪い気はしません。
「強引なのはだめですよ。奥様にチクります」
「はいはい」
車は与野インターで首都高を降りて、新大宮バイパスに入りました。
「高速を使うと、二時間もかからないな。この調子だと、一時間ぐらいで到着するよ」
途中で国道から市道へと移りました。市街地から、緑の多い田園地帯へと風景が変わっていきました。
「もうまもなくだ」
ナビに導かれて、狭い道をくねくねと曲がり、目的地に到着しました。
そこは荒川沿いに広がる原野でした。
意外なほど東京に近い場所にありました。さくらの会に所属していたときは、世俗と断絶したものすごい田舎にいると思っていたものですが、そんなことはありませんでした。近くにはバス停すらありました。新しい養護老人ホームが建っていました。
「自給自足の会というから、もっとずっと遠くだと思っていました」
「僕はここから大学に通っていたんだよ。バスと高崎線で東京に行ける」
とはいえ、一帯は樹木がまばらに生えている草原でした。つる植物が草の上をうねっていました。荒川のそばには並木が生えていました。
「あれは」
「桜だよ。だからさくらの会。単純だね」
ああ、そうです。記憶が鮮明によみがえってきました。
春には川沿いに桜が綺麗に咲いたものです。
「春はさぞ見事なことでしょうね」
「ああ。綺麗だったよ。今でも綺麗に咲いているんだろうね」
原野の中には細いサイクリングロードが走っていました。わたくしたちはその道を歩いていきました。ときどきすいすいと走るロードバイクとすれ違います。
「この原野が二十年前は田んぼと畑だったんだよ。鶏は放し飼いにしていたし、牛も二頭飼っていた。朝早くから乳しぼりをしたよ」
知っています。なつかしくて泣きそうです。
やがてつる草に覆われて半壊しているプレハブの建物が見えてきました。
これは、宿舎の廃墟。わたくしはここに住んでいたのです。
「なんできみ泣いているの」
「え?」
わたくしはいつの間にか本当に涙を流していました。涙を拭いました。
「夏草や兵どもが夢の跡」
わけのわからないごまかし方をしました。
「いや、古戦場じゃないから。ただの耕作放棄地だよ」
「ここは先生の土地なのですよね」
「ああ、登記簿謄本に僕の名前が書いてあるよ」
「どこからどこまでが先生の土地なのですか」
「さぁ、よくわからないな。とにかくここら辺一体が僕の土地だよ。サイクリングロードだけは国有地だけど」
「先生はたいへんな大地主です」
「前にも言ったけど、買い手もつかない土地だよ。市街化調整区域だから、あの宿舎跡にしか建物は建てられないし、何の価値もない」
「でも農地にはできるのでしょう」
「農地にならできる。人手とやる気と資本さえあれば」
「資本も必要なのですか」
「この原野を農地に戻すには、それなりの投資が必要だよ。家庭菜園ぐらいなら別だけど」
「そうですか。お父様も資本を投下して、さくらの会を作られたのですか」
「いや、父は昔の人が開墾するみたいにして、少しずつ農地を広げていったんだよ。手間のかかる仕事だったはずだ。草創期の頃のことは僕もよくは知らない」
わたくしたちはサイクリングロードをずっと歩いていきました。原野の中には水路もありました。
「この辺りは田んぼだったはずだ」
もう畦道も見当たりません。完全に草に没しています。
秋風が草を揺らしています。
「なぁきみ、本当は清川真美子なんじゃないのか」と栗原教授がわたくしをじっと見て言いました。
「その方の年齢はいくつですか」
「四十歳ぐらいになるはずだ」
「だったら、わたくしが清川真美子さんのわけがないじゃないですか」
「その姿、声、話し方、雰囲気、同一人物だよ」
「違いますよ。先生は思い出をわたくしに重ねているだけです」
わたくしたちは原野に立ち尽くしていました。
「帰るか」
わたくしは頷きました。
プリウスに乗って帰路につきました。途中、教授がネットで調べた評価の高いうどん屋さんに入りました。この辺りの名物らしい肉汁うどんというのを食べました。腰のあるうどんを豚肉と葱がたっぷり入った汁につけて食べるものでした。美味しい。
「連れて行ってくださって、どうもありがとうございました」
プリウスを降りたとき、わたくしはお礼を言いました。
「いや、僕もなつかしくて楽しかったよ。きみと行ったから、特別になつかしく思えたのかもしれない」
教授は優しく微笑みました。
二十年前の青年栗原聡様の面影が十分に残っておりました。
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