第15話 紫式部
わたくしほど心が醜い人間はいません。
不老不死の特異体質ですから、人間ではないのかもしれませんが。
わたくしは美貌を使って、多くの人をだまして生き永らえてきました。可哀想な孤独な女を演じて、男性の庇護のもとに暮らしてきたことが多いです。ああ、孤独な女は嘘でも演技でもありませんね。事実です。
水商売をして生活費を工面し、一人暮らしをすることもありました。
ときには身分証を偽造してもらうこともありました。
清川真美子だったときはしあわせでした。
さくら自給自足の会の主催者栗原誠様はわたくしに同情して、さして詮索もせずに宿舎に住まわしてくれました。会員は弱者だったり、脛に傷持つ方だったりしましたから、お互いに助け合って生きていて、農作業さえがんばっていれば、気兼ねせずに過ごせました。
その上、恋人までできたのですから、よい日々でした。
その恋人がお父様の栗原誠様と対立して、さくらの会は崩壊してしまったわけですが。
栗原聡様。
まだあんなにもわたくしのことが好きだったとは。
わたくしは講義に出席しました。
三段の君の隣に折原さんが座っていました。
わたくしは離れて座りました。
三段の君が怪訝そうにこちらを見ましたが、わたくしは目を合わせませんでした。
講義の後で、彼がわたくしをお茶に誘いました。
「悪いのですが、今日は気分がすぐれません。お二人で行ってきてください」
折原さんまで不思議そうにわたくしを見ました。
「体調が悪いのかい」
「ええ、少し」
「お大事にね」
三段の君はお優しいです。
折原さんは妖艶な笑みを見せて、いいのですか、志木さんをもらってしまいますよ、と表情で伝えてきました。
好きなようにしてください。
わたくしは本屋さんに行って、農業に関する本を何冊か見ました。いろいろな本がありましたが、あまり本格的なものはやめておいて、取りあえず家庭菜園の本を買いました。家に帰って、読み耽りました。
その後も三段の君からのお茶の誘いを断り続けました。
折原さんは何だか拍子抜けしたような顔でわたくしを見ていました。
季節は晩秋。十一月でした。
ある日、三段の君が強い口調で言いました。
「きみに話したいことがある。一緒に来てくれ」
彼は思いつめた顔をしていました。
「いいですよ」とわたくしは答えました。
三段の君の後ろをついて行きました。折原さんも続きました。
「悪いけど、今日は佐藤さんと二人で話したい」と彼が言いました。
折原さんは一瞬恨めしそうな表情を見せましたが、すぐに無表情になりました。
わたくしと三段の君の二人だけで喫茶店に行きました。
香りのいいコーヒーがわたくしたちの前に置かれます。わたくしは一口飲みました。三段の君はコーヒーを置いたまま、わたくしを見ています。
「どうして最近は、誘っても来てくれないんだ」
「折原さんがいるからですよ。将棋の話ばかりして。わたくしは全然面白くありません」
「もう折原さんを誘うのはやめるよ」
「可哀想ではありませんか。あの人はあなたのことを好きなようですよ」
三段の君はわたくしのことをじっと見つめました。
「おれは、きみが、好きだ」絞り出すように言いました。
「もう少し早くそのことばを聞きたかったです」
わたくしの声は冷えていました。
彼は顔を歪ませました。
「他に好きな人ができました」
彼はうつむいて、しばらく黙り込んでいましたが、顔をあげて、懸命に話を続けました。
「おれはしがない奨励会員だが、必ずプロ棋士になる。社会的地位を得て、陽のあたる存在になる。おれとつきあってくれ」
残念ですが、わたくしは陽のあたる方とはつきあえないのです。不老不死の日陰者ですから。
「ごめんなさい」
わたくしは喫茶店を出ました。もう三段の君とこの美味しいコーヒーのお店に来ることはないでしょう。
店の前で、折原さんが立っていました。
「中に入って、志木さんを慰めてきたら」
「ふったのですか」
「ふったわ」
「どうして」
「あの方に興味がなくなったのよ」
「私がいたからですか」
「関係ないわ」
わたくしは立ち去ろうとしました。
折原さんがわたくしの腕を握って引き止めました。
「佐藤先輩と話がしたいです」
「志木さんは放っておいていいの」
「先輩と話があるんです」
「いいけど。どこに行く?」
「二人で静かに話せるところがいいですね」
「この喫茶店は静かでいいけれど、ここというわけにはいかないわね。まだ中に志木さんがいる」
「空いているファミレスとかでどうですか」
「いいけど。そんなお店知っているの?」
「この時間なら、空いていると思います」
時刻は午後四時でした。
折原さんはすたすたと歩き始めました。
彼女が案内してくれたファミレスは確かに空いていました。わたくしたちの他に二組しかお客さんがいませんでした。
「少しお腹が空いています。パフェとか食べていいですか」
「好きなものを食べればいいわ。割り勘にするから。わたくしもパフェをいただくわ」
二人ともチョコレートパフェを注文しました。
ウェイトレスさんがチョコパフェを持ってくるまで、黙って少し待ちました。
パフェは高級なものではなかったけれど、十分に美味しかったです。
「先日、出版社から電話がかかってきました」
「あれ、志木さんの話じゃないの?」
「今は彼のことはどうでもいいです」
折原さんはチョコクリームをスプーンですくって口に入れました。
「先輩が応募を勧めてくれた新人賞の話ですよ」
わたくしは俄然興味を惹かれました。
「『愛の火だるま』の件ね」
「そう。あの駄作の件です」
「駄作じゃないわ。傑作よ」
「選考委員の方々も、駄作ではないと思ったらしくて、全員一致で新人賞に選ばれました。今後、編集の方と打ち合わせして、推敲をし、文芸雑誌に載ります。本にもしてもらえるそうです」
「やったじゃない。おめでとう」
わたくしは心から、折原さんを祝福しました。
「わたくしの目が節穴じゃないことが証明されたわ」
「ありがとうございます。新人賞を取れたのは素直にうれしいです。佐藤先輩のおかげです」
「あなたの力なら当然よ」
「いずれ小説家になるつもりでしたが、『愛の火だるま』程度でなれるとは思いませんでした。もっと習作を書いて、実力をつけて、『源氏物語』に匹敵するものを書けるようになってからデビューするつもりだったんです。まぁいいです。『愛の火だるま』程度のものなら、いくらでも書けますから。プロの作家をやりながら、高みを目指すことにします」
「あなた本当に『源氏』が好きねぇ」
折原さんはチョコパフェをぐるぐるに掻き混ぜました。ぐるぐるぐるぐる混ぜました。
「これは秘密の話だし、言っても信じてもらえないでしょうけど、私には前世の記憶があるんです」
彼女はパフェをぐるぐると掻き混ぜます。
え? 前世?
「私は紫式部でした」
「えーっ、あなた、紫式部様なの? あの日本史上最高の恋愛作家の? 本当に?」
「先輩、声が大きい」
「あ、ごめん」
「私は紫式部ではありません。前世が、です」
「もう千年以上前の方よ。前世の記憶があるなら、その間に他の人だったこともあるのかしら」
「私の主観では、紫式部の次が私です。時間のことはよくわかりません。とにかく、紫式部だったときのことはよく憶えているんです」
「はぁ。ふぅーん、紫式部様だったんだ、すっごーい。紫式部様にしては、『愛の火だるま』は駄作ね」
「先輩、信じるんですか?」
「信じるわ。わたくし、清少納言だから」
折原さんのパフェを掻き混ぜる手が止まりました。
「先輩の前世がですか?」
不老不死と言えば面倒だから、そういうことにしておきましょう。
「そうよ」
「信じません。紫式部と清少納言が現代で出会うなんて出来過ぎです」
「本当ね。すごい奇蹟だわ」
「証拠はありますか」
「証拠かぁ。ないわね」
「私は小説書きとしてそれなりの実力を示しました。前世が紫式部というだけで、脳は別物ですから、『源氏物語』ほどのものは今は書けませんが、いずれ必ず執筆して、私が紫式部の生まれ変わりだということを証明してみせます。私が満足できるものが書けたら、あとがきに『私は紫式部の生まれ変わりです』と書くのが本当の夢なんです」
「あなた、頭がおかしいと思われるわよ」
「先輩は信じてくれたじゃないですか」
「わたくしも清少納言だから、超自然的なことを信じられるのよ」
「先輩の嘘がひどい。そんな人だとは思いませんでした」
「『枕草子』の全文を現代語ではなく、原文でそらんじられるわよ。それをやったら、信じる?」
「し、信じます」
信じられても困るか。冗談にしておいた方が身のためですね。
「やらないけど」
「やっぱり嘘だ」
「まぁ、嘘ということでいいわ。ちょっと前世の話をしましょうよ。紫式部様はやっぱり清少納言が嫌いだったの?」
「嫉妬していました。『枕草子』の人気に」
「傑作でしょう?」
「人気の割にはたいした作品ではありません」
「辛辣ね」
折原さんはぐちゃぐちゃになったチョコパフェを食べました。わたくしも溶けかけたパフェをスプーンですくいました。
「わたくしは『源氏物語』が好きよ」
折原さんは頬を紅くしました。
「これからは学内で紫式部様とお呼びしてもいいかしら」
「絶対にやめてください」
紫式部様をからかうのは面白いですね。たまにやってやりましょう。
「ところで、志木さんのことですけど」
あ、やっぱりその話もするのね。
「私、志木さんが好きです。もう先輩に遠慮しなくていいんですよね」
え? 今まで遠慮してたの? あれで?
「好きにしていいわよ、紫式部様」
「やめてって言ってるでしょ、えせ清少納言」
「えせじゃないわよ」
むふぅーっ、と折原さんは唸りました。
「志木さんに興味がなくなったのは、経済学部の教授が好きだからですか」
「さぁてね。どうでしょう」
何もかもをこの才女に話す必要はありません。
そのとおりなんですけど。
志木さんよりは栗原聡様の方が好ましい。愛してはいません。いずれ別れる方を本気で好きになっていては身が持ちません。
「楽しいおしゃべりができたから、奢ってあげるわ」
わたくしは伝票を持ちました。
「ありがとうございます。新人賞の賞金が入ったら、もっといいものをごちそうしてあげますよ」
「楽しみにしてるわね」
現代の紫式部。これからどんな作品を書いていくのでしょう。
人生の愉しみが増えました。
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