第10話 女二人日帰り温泉

 折原茜さんは週に二・三回、文芸愛好会の部室に来ます。わたくしはもう少し多くて、三・四回といったところです。

 折原さんは部室で小説を書いたり、本を読んだりしています。話しかけると答えるけれど、目はパソコンや文庫本に向いていて、今一つ親しみが感じられません。「愛の火だるま」はすばらしい小説でした。わたくしは創作の才能があるこの方ともっと親しくなりたいと思っていました。

 折原さんをどこかへ遊びに誘おう。東京から電車に乗って、日帰りの旅行にでも行きたい。ガイドブックを調べたら、これがいい、と思えるものがありました。

「折原さん、奥多摩の方に美肌の湯があるの。日帰り温泉施設なんだけど、行ってみない?」

「はぁ。行ってもいいですけど」

 食いつきはあまりよくはありませんが、否定もされませんでした。

「わたくしも行ったことはないのだけれど、お肌がつるつるになるらしいわ。行きましょうよ」

「いいですよ」

 わたくしは折原さんと日程調整をし、日帰り温泉に行く約束をしました。

 土日は混んでいるかもしれないから、比較的空いていると思われる平日に決行です。講義の一つや二つ休んだってかまいません。

 わたくしたちは大学の最寄り駅で待ち合わせをして、日帰り旅行を始めました。立川駅で五日市線に乗り換えます。

 ラッシュアワーを過ぎた平日の電車は空いていました。わたくしは折原さんとお話をしたかったのだけど、部室にいるときと同じように彼女は電車の中で文庫本を読んでいました。わたくしはめげずに話しかけました。

「折原さんは旅行に行ったりするのかしら」

「彼とドライブに行ったりしますよ」

「楽しい?」

「最初は楽しかったけれど、最近はあまり。共通の話題が少なくて、会話が弾みません」

「あらら。それは残念ですね。彼はどんなお話をなさるのかしら」

「車の話やサークルの友達の女性関係の話とか。私は車種のことなんてわからないし、知らない人の恋バナを延々と聞かされても面白くありません」

「あなたはどんな話をしたいの」

「別に何でもいいんですけど、私の趣味としては文学と囲碁・将棋ですね」

「あら、折原さんは将棋をなさるの」

「高校のときは文芸部と将棋部を掛け持ちしていました」

「そうなんだ。わたくし、奨励会三段の知り合いがいるのよ」

「えっ、なんていう方ですか」

「志木孝之さんという名前だけど、知ってる?」

 わたくしは三段の君の名前を言いました。折原さんは文庫本を閉じ、目を見開いて、わたくしににじり寄りました。すごい食いつきでした。わたくしはしまった、と思いました。

「志木さんて、注目の人じゃないですか。三段リーグで好調の人。お会いしたい~っ」

 わたくしから話題にして、こんなに興味津々なのに、話を変えるわけにはいきません。

「同じ大学の三年生なのよ」

「それは知りませんでした。紹介してください」

 折原さんは文芸愛好会の会員三人とつきあい、全員ふって、今の彼氏とつきあっている人です。三段の君を彼氏にしようとするかもしれません。それは嫌です。

「志木さんは今、ひどく疲れていて、誰とも会いたくないみたい」

「佐藤先輩とは会っているんですか」

「先日、少しだけお茶したけど、すぐにお帰りになったわ」

「プロになれるかどうかという瀬戸際ですものね。うわぁ、会いたいです。お話したいです。あの、先輩と志木さんはつきあっているんですか」

 急にぐいぐい来るようになりましたね。

「つきあっては、いません」

「好きなんですか?」

 遠慮ないなぁ。

「好きなタイプではあるかな」

「私も絶対タイプですよぉ~」

 おい、お前は彼氏持ちだろ。会ってもいない男に乗り換える気満々ってどうなのよ。

「今季のリーグ戦が終わったら、紹介してくださいね」

 男に関しては、こんなに積極的だったとは。折原さん、恐ろしい子です。

 電車が終着駅に到着し、わたくしたちはバスに乗り換えました。バスが山道を登っていきます。日帰り温泉施設のあるバス停でわたくしたちは降りました。バスの乗客のほとんどが一緒に降車しました。皆、温泉が目当てのようです。

 わたくしたちは脱衣所で服を脱ぎました。折原さんの豊満な胸がちらりと目に入ります。明らかにわたくしのよりもボリュームがあります。

 タオルで前を隠して、温泉の扉を開けました。

 平日にもかかわらず、そこそこお客さんがいましたが、混み合っているというほどではありません。平日に来たのは正解だったようです。

 内湯と露天風呂があります。まずは、内湯から。

 浸かってしばらく経つと、お肌の手触りが変わってきました。手のひらで皮膚を触ると、つるつるです。美肌の湯という評判どおりです。

 つるつるの湯、いとをかし。

 折原さんも気持ちよさそうに表情を緩めていました。

「平日の昼間から温泉なんて、天国ですね」なんて言います。喜んでもらえているようで、誘ったかいがありました。

 わたくしたちは内湯から露天風呂に移りました。風が気持ちよいです。木の柵の上に森の緑を見ることができます。

 素敵です。

 わたくしと折原さんとは並んで湯に浸かり、ときどき湯から上がって、ほてった身体を風で冷ましました。

 こんこんと湧き出る温泉。

「創作をする人には、アイデアが天から降ってくるという方と、地から湧き出てくるという方がいるようだけど、折原さんはどちらのタイプなのかしら」

「私の場合は」少し考えていました。「湧き出てくる感じですね。湧き水があったら掘って、水脈から汲み上げる感じですね。地上に出てくる水を文章にする。なんとなくそんな感じです」

「汲めども尽きぬ水脈があるんでしょうね」

「さぁ。どんな規模の水脈かはわかりませんが、書いていて詰まるということはあんまりありませんね。今のところ」

「すごい才能ね。『愛の火だるま』もさらさらと書けたのかしら」

「ええ。でも、勉強はしていますよ。たくさん本を読んでいる方だと思うし」

 わたくしたちはひとしきり好きな作家は誰かという話をしました。何人か共通の名前がありました。この話をしている限り、話題が尽きるということはなさそうです。

 湯から上がり、休憩所で昼食を食べることにしました。二人とも冷たい蕎麦と生ビールと枝豆を頼みました。

 わたくしたちはキーンと冷えたビールを飲みました。

「皆が働いたり勉強したりしているときに温泉に入って、生ビール。背徳的ですね」

「そうね」

 すっかり満足して、帰路につきました。帰りの電車で「必ず志木さんと会わせてくださいね」と折原さんから言われたのが、興醒めでした。

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