第9話 秋は夕暮れ
夕日がビルに沈んで行こうとしていました。雲が橙に染まっていました。
秋は夕暮れ。
夕日の差して山の端いと近うなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあわれなり。
まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入りはてて、風の音、虫のねなど、はたいふべきにあらず。
東京でも美しい夕焼けを見ることはできます。今まさにわたくしが見ている夕日が美しい。都会の風景は移りゆきますが、太陽と月と雲は変わりません。
星は見えにくくなりました。そのかわり夜になると街が輝きます。
わたくしは栗原教授と待ち合わせている天ぷら屋さんへと足を向けました。
わたくしがのれんをくぐると、教授はすでにお店のカウンターに座っていて、軽く手を挙げて、こっちだと招いてくれました。
生ビールで乾杯し、わたくしたちは出来立て熱々の天ぷらを食べました。鱚、獅子唐、車海老、玉ねぎ、うに。美味しい天ぷらを食べ、わたくしたちはビールから日本酒の冷に飲み物を切り替えました。
「先生、こんなところを見られて、ご家族に知られたりしたら、困るんじゃないですか」
「多少は困るかもしれないが、たぶん破局はしないよ。妻は僕が給料を持ち帰れば、それでいいんだ。自分はテニスだの詩吟だのと趣味三昧だからね。僕もせいぜい人生を楽しませてもらうさ」
「大学教授ってお給料がいいんですね」
「いや、そんなにたいしたことはないよ。妻の実家が資産家で、少しは余裕があるんだ」
「よいご身分でいらっしゃること」
教授は蓮根天をカリッと食べ、おちょこを傾けました。
「きみの方こそ、三年生の男子と仲よくしているそうじゃないか」
「ご存じでしたか」
「僕にも多少の情報網はある。ときどきコーヒーを飲む清い仲なんだろう?」
「彼は棋士になるために全力を尽くしているんですよ」
「棋士って将棋の?」
「奨励会三段です」
「それはたいしたものだ」
「三段ってすごいんですか?」
「単純に比較はできないが、大学教授より賢いかもね」
「三段の君はやっぱりすごいのですね」
「三段の君?」
「わたくしが心の中でそう呼んでいるのです」
教授がむすっとしました。嫉妬でしょうか。
「今は十一勝三敗だそうです」
「本当にすごいよ。プロ棋士になれるかもしれないな」
「将棋のプロ棋士と大学教授って、どっちが上なんですか」
「棋士にも大学教授にも有名な人と無名な人がいる。一概には言えない。僕は無名だけどね」
「先生もがんばって有名になってください」
わたくしは岩牡蠣の天ぷらを食べました。じゅわっと潮の香が溢れます。
「さくらの会を飛び出したときの夢はかなえられそうにないよ」
「さくらの会って、先生が前におっしゃっていた自給自足の会のことですか」
「ああ、きみは真美子さんじゃなかったんだったな。さくらの会を知らないのか。つい混乱してしまう」
「わたくしは清美です」
「僕は理想的な資本主義を提唱したいと思っていたんだ」
「できないのですか」
「できないね。研究すればするほど絶望するばかりだ」
「絶望ですか」
「二十年前、格差や環境破壊のない社会を実現できないかと考えて、勉強していた。今はもっと格差は広がって、環境破壊は単に森がなくなるとか海が汚れるとかいうレベルを超えて、気候変動を起こしている。どうやらそれは止めようがないと思うようになった」
「海外では年若い女の子が強く地球温暖化阻止を訴えているようですが」
「彼女は二酸化炭素の排出量を減らすだけではだめで、無くすために行動しなければならないと言っている。アメリカの大統領すら敵視している。僕にはそんな意気地はない」
「先生ももっとがんばってくださいませ」
「きみはライフスタイルを劇的に変更できるかい。たとえば一切電車や自動車に乗らなかったり、肉を食べるのをやめたりとか」
「できません」
「僕もできない。贅沢な暮らしをして、著作では地球環境正常化のために企業活動を変更しなければならないなんて書けないよ」
「わたくしたちは自給自足の生活に戻るべきなのでしょうか」
「自給自足というのはものすごく非効率なんだ。さくらの会ですら食糧を自給自足していただけで、衣服も電力も水も購入していた。木綿を栽培して、衣服を作るなんてことはしていなかった。そこまでは無理なんだよ。世界は分業で成り立っている。グローバルな分業だよ」
かき揚げとごはん、味噌汁、お新香が出てきました。わたくしは快楽主義者なので、美味しいものをやめるのは無理です。千年も生きているので、人類が滅びるときは一緒に死のうと思うばかりです。もしかしたら、不老不死のわたくしだけは生き残ったりするのでしょうか。すべての人が死に絶えた地球で一人だけ生きているのはかなり嫌です。
わたくしは酒豪で、栗原教授もかなりの呑んべぇなので、天ぷら屋さんを出た後、いつものバーに行って痛飲しました。
「見れば見るほどきみは真美子さんにそっくりだ」
「じろじろ見ないでくださいまし」
酔っ払ったわたくしたちはくだらない話をするばかりでした。
わたくしは平和な暮らしを続けていましたが、三段の君はたいへんな状況にありました。九月中旬の対局で二連勝して、十三勝三敗。二位タイになったのです。プロ棋士に手が届くところまできました。九月下旬に行われる最終の二戦では、四段昇進を競合している奨励会員との直接対局もあるそうです。連勝すれば、まず間違いなく四段になれるとのことでした。
三段の君は将棋に集中するため、もう講義には出ていませんでした。少し時間をつくってくださって、わたくしとお茶をしてくれました。彼の頬はこけて、目には隈ができていました。
「かつてないいい順位につけている。チャンスなんだけど、今は尋常な精神状態ではいられないよ。うまく眠れなくて、苦しい」
「がんばって、四段の君になってください」
「え?」
「わたくしはあなたを心の中では三段の君とお呼びしているのです」
「そうか。きっと四段になるよ」
コーヒーを持つ手がカタカタと震えていました。
「将棋が大好きだった。でも今は苦痛でしかない。ゲームをしているという感覚はまったくない。戦争だよ。歩は文字どおり歩兵で、香車は槍兵だ。王将は僕自身だよ。詰まされたら死にそうだ」
コーヒーを飲み終えて、「もう行かないと」と言って彼は帰りました。二十分ほど会っていただけでした。
わたくしは書店に行って将棋雑誌を手に取りました。三段リーグのことも書いてあって、彼の名前も印字されていました。わたくしは雑誌を買って家に帰りました。
家には年老いたわたくしの養父と家政婦さんが一人います。お父様はお金持ちで、家は豪邸といってよい佇まいです。
わたくしは自分の部屋でだらしなくベッドに横たわり、将棋雑誌を読みました。プロ棋士になれる可能性のある人は四人いて、実力は拮抗し、誰がなってもおかしくはないと書いてありました。今大活躍中の若き天才棋士ほどの飛び抜けた人はおらず、それだけにデッドヒートであるとのことです。
将棋の技術的なことはわたくしにはとんとわかりません。三段の君の勝利を祈るばかりでした。
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