第8話 いと足らぬこと多かり

 九月になりました。

 三段の君は激闘をしているようでした。三十人の中で二人しかプロになれぬ三段リーグ戦は年に二回、四月から九月と十月から三月にかけて行われます。三段の君は八月まで十一勝三敗で四位なのだそうです。

「すごいではありませんか」

「四位では意味がないんだ。二位以内にならないと」

 三段の君の表情は凄愴でした。普通の大学生が女の子とコーヒーを飲んでいるときの顔ではありません。

「九月には四戦ある。全勝すればプロになれると思う」

「全勝してください」

「きみは簡単に言うなぁ」

「これでも応援しているのですよ」

「高校二年生のときに三段になった。今は大学三年。できれば今年のうちにプロになりたいんだ。四年になれば、あくまでもプロ棋士を目指すか、就職するか、進路を決めなければならないからね」

 ちなみにわたくしは二年生で、折原茜さんは一年生です。

「就職するかもしれないんですか」

「もちろん選択肢に入っているよ。将棋連盟の奨励会には年齢制限があって、二十六歳になるまでに四段に昇進できなければ、退会しなければならないんだ。つまりこれまでの努力がすべてパーになるわけ。就職は新卒が有利だからね。まともな人生設計をするなら、大学四年のときに就職活動をしないとね」

「あなたも普通のことを考えているのですね。将棋のことしか考えていないのかと」

「きみは何気に失礼なことを言うね」

「すいません」

「普通の大学生でいた方がよかったんじゃないかとよく考えるよ。コンパに行ったり、テニスしたり、たまには旅行に行ったり、彼女をつくったりしたかった」

「彼女をつくればよいではありませんか」

「デートする時間がない。恋愛にうつつを抜かしていたら、おれのような凡人はプロにはなれない」

「そうですか」

「そもそもモテないしね」と言って笑いました。その笑顔をもっと女の子に見せればモテるだろうと思いましたが、わたしは黙っていました。三段の君と会っていると、わたくしは少し意地悪になる傾向があるようです。

 コーヒーを一杯飲み終わると三段の君と別れました。

 文芸愛好会の部屋に行きました。折原さんはノートパソコンに向かい、男性の部員二人が談笑していました。話題は深夜アニメやゲームのことでした。わたくしにはさっぱりわからない内容ですが、二人とも楽しそうです。三段の君の張りつめた表情とは隔絶しています。わたくしはもちろん三段の君の方が好みです。

 意外にも、折原さんは彼らの話題についていけるようで、キーボードを打ちながら、ときどき会話に参加しています。声優さんの名前を挙げて、誰それがいいとか上手いとか話しています。

「折原さんはアニメにも通じているのですか」

「話題のアニメは見ていますよ。ゲームも少しはやります。リアルな青春恋愛小説を書くためには、現代風俗を知っておく必要がありますからね」

 アニメやゲームも小説を書くためという明確な目的意識はさすがと言うしかありません。

「『源氏物語』が好きとおっしゃっていたけれど、『紫式部日記』は読んでいるのかしら」

「はい。よい著作だと思います」

「では『枕草子』も読んでいますか」

「読んでいますが、『枕草子』は嫌いです」

 きっぱりと枕を否定されてわたくしは傷つきました。

「どうして『枕草子』は嫌いなのかしら。名作だと思いますが」

「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」

「それは『紫式部日記』の中で紫式部が清少納言を批判した文章ですね」

 わたくしは内心でむっとしていましたが、怒りを悟られぬように気をつけて言いました。

「これに尽きます」

「紫式部は清少納言に会ったこともないのに、悪口を書き過ぎだとは思いませんか」

「定子様の周辺の女房の消息は紫式部にも伝わっていました。それに『枕草子』を読み込めば、作者の人柄はわかります。意地悪なところのある人です」

「あなたはずいぶんと紫式部贔屓なのね。清少納言は意地悪なのではなく、率直な物言いをする人なのですよ」

「先輩こそ清少納言贔屓ですね。身辺雑記しか書かなかった人なのに」

「随筆という分野を確立した人ですよ」

「随筆はあの人の発明ではありません。清少納言以前にもありました」

「ずいぶんとあの時代について詳しいようですね」

「先輩こそ」

 当たり前です。わたくしはあの時代に生きていたのですから。記憶が薄れたとはいえ、文献でしか知らない現代人より遥かにあの頃のことを知っています。

 どうやら紫式部と清少納言の話をすると、折原さんとはけんかになってしまうようです。わたくしは折原さんと仲よくしたいので、この話題をやめました。男性二人は古典について論争するわたくしたちを不思議そうに眺めていました。

「恋愛小説を書くには、恋愛のことをよく知っていた方がよいのでしょうね」

「もちろんです」

「折原さんには恋人はいらっしゃるの」

「います」

「それはうらやましいわ」

「おれたちは折原にふられまくっているけどな」と男性の一人が言いました。

 折原さんはキーボードに指を走らせ続けていました。

「そうなのですか」

「折原は入学してまだ半年にしかならないのに、文芸愛好会の会員三人とつきあい、三人ともふって、今はテニスサークルの男とつきあっているよ」

「はぁ?」

 わたくしは知りませんでした。なんて手の早い。

「一時はサークル崩壊の危機を迎えていたんだぜ」

「私、愛好会を辞めた方がいいんでしょうか」と折原さんが言いました。

「もういいから。男子会員四人で話し合って、折原さんとは友達でいようと決めたんだ。楽しくやろうぜ」

「はい」

 折原さんはうつむいてキーボードに指を走らせながら答えました。めったに人と目を合わせないで会話する彼女が、会員三人とつきあっていたとは驚きです。この美才女、裏では何をやっているかわかったものではありません。

 わたくしは会員たちとひとしきり会話を楽しんでから、会室を出ました。

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