第7話 折原茜
文学と歴史。
日本の歴史を追うことは、わたくしのライフワークのようなものです。
明治維新の頃は、日本がどのようになるのか、わくわくして世の動きに注目していました。
王政復古の大号令が発せられたときには、わたくしは平安の世のような帝と貴族の時代が再来するのかと勘違いしました。
ところが到来したのは民衆の時代でした。
福沢諭吉様が「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり」で始まる「学問のすすめ」を書き記されました。「(中略)賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」と続いていきます。
平安の世は貴族は生まれながらに貴族でした。源氏の方々が革命を起こして武士の時代になりましたが、基本的には身分固定の社会で、武士はうまれながらに武士でした。明治になり、下賤の生まれでも、優秀な方は立身出世できるようになりました。
下賤の生まれという考え自体が、すぐに古いものになっていきました。
太平洋戦争敗戦後は、人を生まれで差別してはいけないという教育が徹底されるようになりました。
格差はありますが、差別はいけないのです。
格差は高度資本主義社会のもとで広がっています。
二十年前、さくらの会の主催者様は格差はよくないものだとおっしゃっていました。
今、格差は二十年前よりもっとずっと大きくなっています。
わたくしには格差と差別の違いがよくわかりません。
格差とは実質的な差別ではないのですか。
今度栗原教授に聞いてみましょう。
わたくしは恋愛にばかり現を抜かしているわけではありません。同性の友達とおしゃべりするのも大好きです。
わたくしは文芸愛好会というサークルに入っています。そこには七人の男女が所属していますが、折原茜さんという後輩の女の子がひと際熱心に小説を書いています。部室にノートパソコンを持ち込んで、キーボードを叩きながら会話にも普通に参加できるという脳を二つ持っているかのような異能の持ち主です。サラサラ艶々の黒髪で赤縁眼鏡をかけた美才女です。
「折原さん、どんな小説を書いているのか、差し支えなければ教えてくれませんか」
「恋愛小説ですよ。ありふれた三角関係の物語です」
わたくしには彼女がありふれた物語を書いているようには見えませんでした。指先が常にキーボードの上を踊っていて、途切れることなく楽しそうに書き続けている。瞳はキラキラと輝いて、並みの書き手とは思えません。
「タイトルは?」
「愛の火だるま」
わたくしはぷっ、と吹き出しました。人差し指で眼鏡の位置を整えながら、真面目な顔で妙なタイトルを言った折原さんが可笑しかったのです。
「とても面白そうね」
「つまらないです。私が書きたいと思っている理想の物語の十分の一の面白さもありません」
「あなたの理想の物語ってどんなものなのかしら?」
「具体的に言うと、『源氏物語』のような作品です」と彼女が即答したので、わたくしはひどく驚きました。現代女性で「源氏物語」を理想に掲げる人はとても珍しいと思います。
「私は『源氏物語』に匹敵する現代恋愛小説を書きたいんです」
「それはすごい野望ね。実はわたくしも『源氏物語』は日本史上最高の恋愛小説だと思っているの」
「そうでしょう。あれ以上の物語はありません」
まるで折原さんが自分で「源氏物語」を書いたかのように、どやっと笑って言いました。
わたくしと話している間も、彼女の手はキーボードの上を滑っています。
「『愛の火だるま』を読ませていただきたいわ」
「書き終わってからでいいですか」
「もちろんよ」
よい約束ができました。折原さんの小説を読むのが楽しみです。きっと面白い小説に違いありません。
一か月、わたくしは栗原教授と鰻を食べたり、三段の君の将棋の話を聞いたり、サークルにときどき顔を出したりしながら過ごしました。
会室でわたくしと折原さんの二人だけしかいないとき、彼女は切り出しました。
「小説を書き上げました」
「あっ、『愛の火だるま』ね」
「はい」
「読ませていただけるかしら」
「約束ですから」
彼女は自作小説をプリントアウトした紙の束をわたくしに差し出しました。わたくしは早速読み始めました。書き出しでぐいっと捕まれて、二・三枚で物語の中に引き込まれ、くすっと笑ったり、切ない想いに悶えたり、これはすごいものを読んでいると感心したりしながら、二時間ばかりで一気に読んでしまいました。予想以上の名作でした。結末を読んでわたくしは泣いてしまいました。千年も生きているわたくしが切なくて泣いてしまうなんてめったにないことです。
「傑作だわ」
「失敗作です」
「これは世に出すべきものよ。どこかの新人賞に応募したらどうかしら」
「こんな習作を世に出すなど、考えられません」
「十分すぎるほど商業作品のレベルだと思うけれど」
「『源氏物語』と比べてどうですか」
「いや、それは『源氏』には及ばないけれど。でもこれは中編だし、比べなくてもいいんじゃないかしら。プロの作家になってから『源氏』に匹敵する大長編恋愛小説を書いたらいいんじゃない?」
「そうでしょうか」
「そうよ。『愛の火だるま』できっとデビューできると思う」
「では試しに応募してみましょうか。駄作ですけど」
折原さんとわたくしはネットで現在募集している新人賞を調べました。メジャーな出版社の新人文学賞がちょうどよいタイミングの締め切りで見つかりました。ネット応募可だったので、その場で応募してしまいました。結果が公表されるのは半年後ぐらいです。
「ああ、これで折原さんの作家デビューは確定ね」
「莫迦な。こんな程度で」
「ペンネームを考えておいた方がいいわよ」
「そんな暇があったら新作の構想を練ります」
わたくしたちは部室を出ました。わたくしは折原さんの新人賞受賞を確信しておりました。折原茜さんは紫式部様の再来かもしれません。
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