ヒルベルト、君の名は春

ritsuca

第1話

「ヒルベルト、君の名は春」

 背表紙に刻まれた書名を声に出す。人気のない図書室の片隅、カウンターからも遠く、声を出したことを咎められる気配はない。

 もう一度、読み上げる。先ほどよりも、もう少し小さな声で。

 空気が揺れて、埃は相変わらず宙を舞っている。特に何が変わるでもない、昼休み前の古ぼけた図書室。

 3時間目の授業をサボって、ここにいる。なぜならば、所属する同好会の部誌の〆切が今日と知らされたのが、今朝だったもので。1、2時間目は内職する余裕がありそうと思って、出席した。実際には、やろうと思うや否や先生と目が合って、よからぬ気配を察知するのかにこにことこの上なくいい笑顔を向けられるもので全くもって進めることができなかった。なんたる不覚。

 休み時間のうちに図書室に本返してくるわー、と教室を出て、そのまま3時間目の授業をサボって今に至る。もうあと10分もしないうちに3時間目は終わってしまうが、残念ながら今朝〆切を聞いた時点でネタのメモすらなかった原稿は、1文字も進んでいない。

 壁沿いをぐるりと囲む本棚、と、部屋の中央に大机がどこどこと並ぶ。陽射し0ではないが、消防法に抵触しない範囲で極力窓を減らしたという噂の図書室は晴れた夏の昼間でも明かりがなければそれなりに暗い。

 そんな中、大机の位置は入り口から妙に見えやすくなっていて、であるからには授業開始直後しばらくはその場所を避けておいた方が見つからなくてよかろう、と浅知恵を働かせ――そもそも教室を出る時点で図書室に行くと宣言していたので、小細工しようがしまいが全く何も隠せていなかったにも関わらず――一角だけ、壁沿いだけでなく本棚の林立している空間に隠れ潜んだのが運の尽き。ベストセラーもロングセラーもなし、古典的と言われそうな作品の隙間に「これは何?」と言いたくなる書名ばかりが並んでいるのを追い始めてしまい、それからそのまま、本棚の森をふらふらと彷徨い続けている。

 そろそろ3時間目が終わる頃合いだ、というのは、腹時計と、校庭から聞こえてくるざわめきの具合でなんとなく把握した。控えめに言って、非常にヤバい。3時間目は得意科目なのでなんとかなるだろう、とサボってしまったが、午後の科目はそうもいかない。幸い今日は5時間目までしかないので同好会の活動時間もとれるから今日を〆切にして原稿を集めてしまおう、という話の流れだったのに忘れたの? と訊ねられたものの、話の流れをひとかけらでも覚えていれば〆切を忘れるような仕儀にはならなかったのではないか。

 そんなところにこのタイトルである。

「ヒルベルト、君の名は春」

 強い。何が強いのかももはやわからないが、何かが強い、……ような気がする。そんな強さだ。なぜベルンハルトやジークフリートではなかったのだろう? なぜ春? なぜの尽きないこのタイトルほどの強さを、かつて見たことがなかった。

 古びた茶の革表紙に刻まれた文字列、ううん、と背の上に指をかける。そっとそっと棚から引き出して――


「……と、こんなあたりで、枚数どうかな」

「ギリ5枚ってところね。まぁ、ちょうどじゃない」

「よかったあああああ……じゃぁ、今回の原稿、これでお願いします……」

「はいはい。それにしても、毎回毎回こんな綱渡りで書いてるからか、地味に人気なのよ、あんたの」

「みんな〆切や提出日を忘れて焦る経験があるからじゃない……」

 そうかもね、と笑うのは、向かいに座る同士、もとい、同じ同好会に所属する、隣の隣のそのまた隣のクラスの友人だ。たぶん同学年だったと思っているのだが、私服校の良いところなのか悪いところなのか、学年を判別することのできる目印も身に着けていないし同じ階はたまたま2学年の教室が同居しているし、普段は面倒で他のクラスの教室の前まで行かないので、結局友人が何年生なのか、そもそも男なのか女なのかも知らない。

 中性的な風貌、名前、そして耳に心地よい低さの声で女性らしい語尾をつけた話し方をする友人は、書き上げたばかりの原稿用紙をぱらぱらとめくって、うんうんと頷いている。どうやら今回の原稿もお気に召したらしい。

(正直なところ、私は君が楽しんでくれればなんでもいいんだよね)

 偉大なる文豪各氏を見習って愛用している万年筆のキャップをきゅっと締めて、うーんと伸びをする。印刷折込なんでもござれの複合機を置いた隙間に無理やり設置した、同好会に与えられた狭い部室の細長い会議机で書き始めたのは、5時間目が終わってさほど経たない頃。さていまは何時かしらと時計を見る。二度見した。急遽同好会活動があったから、で言い訳できる時間帯からはみ出しかけている。

 家族の顔が咄嗟に思い浮かんで、血の気が引いた。慌てて鞄を漁る。案の定、スマホの通知ランプが点滅している。画面をオンにしてロック画面に表示される通知メッセージにまとめられた件数に、わー、と半笑いしかない。お店のアカウントの広告であってほしい。そうであってくれ。祈りながらスワイプしてロックを解除。アプリを開いて、あー、と天を仰ぐ。どうしたの? と視線が向けられた気配に、画面に視線を戻して通話アプリを開きながら答える。

「帰り遅くなる連絡するの忘れてたわー……」

「あーあ。とりあえず電話しなよ。で、大丈夫そうだったらラーメンでもどう?」

「行きたいねぇ……もしもし――」

 ふふ、と笑いながら原稿用紙をしまい、帰り支度を始める友人を見ながら、電話口と言葉を交わす。

 ちらりと横目に見た窓の外、淡い紺色の空には細く笑う月が浮かんでいた。

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ヒルベルト、君の名は春 ritsuca @zx1683

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