第32話 いつもそばに (4)


「優一、兄が」

「美佐子、どうした」

「兄が亡くなった」

「えーっ」

「あなたの家の病院、慈恵医大。お願いすぐに来て」


美佐子は、突然の出来事に混乱していた。朝、普通に出かけた兄が、仕事先で突然倒れた。駆けつけてみると、もう息を引き取っていた。

そばで母親が鳴いているばかりだった。父が医師に問い詰めると心臓発作だと言っていた。


「分かったすぐに行く」


人事異動で優一の部署に来た美奈は、優一の態度に一抹の不安を覚えながらも正式にプロポーズされ、優一の両親からの了解も取れている以上、口を出す事はしなかった。周りの目もある。同僚には、まだ何も言っていない。

美奈が我が家に来てから六ヶ月。自分の優柔不断なままに時間が過ぎていた時であった。


優一が病院に着くと、美佐子の両親がいた。美佐子は優一の顔を見るなり、周りを気づかうこともなく胸に顔を埋めて泣いた。


「優一、どうしよう。私どうすれば」

答えを持たないままに美佐子の体を抱きしめながら


「美佐子、とにかく落ち着いて。今は目の前の事にしっかりとしないとお兄さんも心配する」

まるで美佐子の兄が生きているような言葉に少しの間、優一の腕の中にいた美佐子は


「そうね。しっかりしなきゃ」

美佐子は兄一人だった。ゆえに、兄の死は色々な意味で大きかった。


 優一は、担当医に自分の素姓を言うとすぐに院長のところに行った。院長は、優一の顔を知っていることもあり、世辞を言い始めたが、それを止めさせ、美佐子の兄の対応に十分な事をするように依頼すると美佐子のところに戻ってきた。


「美佐子、院長には、十分な対応をとるように言った」

と言って美佐子の目を見た。


「優一」

そう言うとその後の言葉は言わず、ただ優一の目を見つめていた。美佐子は、自分自身がどうすればよいか分からなかった。


植村建設専務である兄の突然の死は、美佐子に大きな転機を迎えさせた。本来ならば、父親が健勝なうちに、兄が次期社長になり、父が会長職に退いた後、引退する。

そして美佐子も何も問題なく優一の妻として迎えられるという、流れにあったはずだった。


しかし、次期社長の突然の死は、後継者を決められないという状況に陥った植村建設に戦慄が走った。社長と専務の表に見えない確執の争いとなったのだ。この渦中に美佐子は巻き込まれた。


 状況不利を悟った父である社長が、美佐子を持ち上げたのだ。最初は、猛反対した美佐子だが、父親が母親の説得に成功し、美佐子は仕方なく一従業員から副社長の座に就いた。社長が支えるという状況で。


「本当か、それは」

執務室で優一の父、葉月コンツェルン社長は、美佐子が植村建設の人事で副社長に就任したのを知った。従業員六〇〇名の中堅建設会社の副社長に二六歳の美佐子がなったのであった。


父親の優は、事の流れを知りながら、美佐子の会社の人事には何も言う立場ではなく、母の親友、三井財閥のかおるに頼もうにも財閥傘下の一会社の人事に口を出すことはできず、見守るだけであった。


「三井財閥傘下の会社の次期社長を優一の妻に迎えるわけにはいかない」


執務室で妻のカリンに一言だけ言うと妻の瞳を見た。カリンは、事の次第を優一から聞いた時点で、何かできないかと夫に相談したが、流石に口を出すことはできないと言った。


 カリンは、美奈の件はあるにしろ美佐子の事が気がかりだったがゆえに、なんとかしたかったが、これが結局美佐子と別れさせる理由になると思うと心の中で消化しようと努めた。


副社長の一件で中々会うことのできなかった美佐子は、一カ月ぶりに優一と会った。美佐子の顔を見ながら“少しやつれたかな”と思いながら声をかけると


「優一、どうすればいいかわからない。ごめんなさい。でも父と母の事を思うと断れなかった」

涙目になりながら言う美佐子を何も言わず抱きしめると


「優一、今日が最後」

そう言って、自分から洋服を脱ぎ始めた。


 優一だけしか知らない体が、思い切り燃えた。ただ優一の名前だけを呼んでいた。


「優一、もっと・・」

それだけ言うと自分の大切な所に口づけをしてくれている優一の頭を思い切り掴んだ。抑えるように。体の喜びとは別に涙が止まらなかった。


「別れたくない。優一のお嫁さんになりたい」


今までの思いを思い切り出すように言いながら優一の愛撫を受けた。そして優一が入ってきた後も優一の体を思い切り、自分の細い腕で触りながら、涙だけが流れた。


「美佐子」

思い切り自分の中に思いを出しながら自分の名前を呼ぶ優一が、体を自分の上に載せてくると思い切り抱きしめた。


「優一」

これが最後だと思うと美佐子は思い切り優一の唇に自分の唇を合わせた。


「優一、今日は明日の朝までこうしていたい。いいでしょう」

甘えた声を出しながら言う美佐子になにも言えず頷くと


「嬉しい」

そう言って優一の首に自分の腕を巻きつけた。


「優一のお嫁さんになりたかった」

優一の首に手を回しながら唇を合わせてくる美佐子に優一も思い切り体を抱きしめた。


「別れたくない」

自分の言葉に意味がないことを分かっていながら感情だけを口にしている美佐子を見ると優一は、たまらなかった。


「美佐子」

そう言って抱きしめながら、また美佐子の形の良い胸に唇を持って行った。


今度は普通に感情を出しながら、体に走る喜びに“もう七年も”そう思いながら美佐子は優一の愛撫を受けた。


“他の人を受け入れることができるのだろうか”そんな思いを抱きながらも自分の体に走る刺激を今度は気持よく受け取っていた。


結局、美佐子と別れたのは、翌日の一〇時を過ぎていた。


優一は美佐子の目を見ると、もう昨日の美佐子の目ではなかった。しっかりと優一の目を見ながら


「優一、さよなら」


周りの目も気にせずに優一の左の頬にキスをすると、ゆっくりと自分から離れるように駅の方に歩いて行った。


自分のもとを去っていく美佐子の後ろ姿を見ながら“結局自分は何もできなかった。三咲の時もそうだった。今度も理由はどうあれ、美佐子が自ら身を引いた”


どうしようもない心の重さに自分自身の体が重くのしかかってきた。


美佐子がタクシーを拾って走り去った後も優一は、その場を離れなかった。“どうしようもない男だ。俺は”その自戒だけが残っている。


 周りの人間が“何をしているんだろう”という顔をして見ていく。そんなことはどうでもよかった。ゆっくりと足を動かし始めると目の前にあるタクシーに乗った。


自分の家の少し前で停めさすと表門まで歩いた。セキュリティが見ているのだろう、優一が表門の前に近付くと重く大きな門が内側に自動的に開いた。


 玄関まで歩き、何も言わず二階に上がると窓を開けた。花音の部屋のような素晴らしい景色は見えないが、南側に広がる家並みが目に入った。


「優一、帰ったのなら声をかけなさい。連絡もしないで一晩開けるなんて。子供ではないから良いですが、連絡ぐらい入れなさい」


少し厳しく言う母親の声を背中に聞くと振り返りながら


「お母さん」

と言葉だけ言って膝が落ちた。後は記憶がなかった。


「優一、優一」

「どうしたんだ。三咲。急に」

「何言っているの、約束したでしょう。海に行くって」

「えっ」


急に海水浴場の場面になった。三咲が素敵な水着を着ながらどんどん海の方へ走っていく。自分も行くがいつのまにか三咲が見えなくなった。“どこに行ったんだろう”と思っていると急に渋谷になった。


なぜか自分だけ水着のままでいる。美佐子が近付いてくる。“まずい”と思いながら上半身が裸の自分が“なんでこうなってるんだ”と思いながら、いつの間にか目が開いた。


真っ暗な部屋の中に誰かがいる。しっかりと目を開けて体を起こすと壁に人間の顔をしていない何者かが五つ並んでいた。気持悪いままに左腕を“さっ”左に振ると窓の方へ二つ程行った。

出て行ったかどうかわからない。あと三つ残っている。“いいか”と思いながらいつのまにかまた、意識を失った。


頭の中に鉛が入っているように重かった。頭がふらふらしているのが分かった。ゆっくりと目を開けようとするが開かない。なんとか開けようとしたが駄目だった。また少し意識がなくなった。

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