第31話 いつもそばに (3)
「葉月君、どういうこと」
優一の母親が去った後に二人で応接に残された美奈は、優一に聞いた。
「お母さんが、“美奈と結婚してもいい”と決めた言葉だよ」
優一が微笑みながら言うと
「えーっ。でもまだ、ほんの少しの時間だよ。ほとんどお話もしていないし、お父様はお見えにならないし」
「我が家は、代々、家は嫁いできた女性が守り、男は外で仕事をするという決まりになっている。その女性は“葉月家の女”と呼ばれている」
そう言った後、葉月家の事について説明した。
もちろん自分の妻となった女性(ひと)が、何をしなければいけないのかも。ただ、会社の事や親せき筋の話などは美奈にあまりインパクトありすぎると思い話さなかったが。
「えーっ、そんなに大変なの。私、自信ない」
「大丈夫だよ。僕のお母さんだって、初めは何も知らなかったらしい。むしろ結婚した後に知ったらしいよ。美奈は結婚する前に知ったからお母さんよりまだいいかも」
「えーっ。信じられない」
爽やかな瞳をもち、人の心を穏やかにさせてくれる優一の母を想像しながら美奈は驚いた。
結局、一時間ほどいただけで、優一は、美奈を送って行った。車の中で美奈は、来た時と同じように黙って窓の外を見ていた。
葉月家の応接間にいた時は、何となくそのまま受け取ったが、外に出て車の中に入ると自分自身を取り戻してきた。
“普通の家の子だと思っていた。迎えに来た時から違和感を感じてはいたが、実際に家に行って驚いた。
自分が嫁ぐ先があんなに大きな家。まだ知らないこともありそう”心の整理ができないままに窓の外を見ていると
「美奈、どうしたの」
優一の心配そうな声で言うと
「ううん、なんでもない。ちょっと想像と違っていたから」
言葉に少し不安を感じたが、慣れてくれるだろう思うと美奈の言葉を流した。
美奈の家の玄関に着くとお付きの者が後部座席に周り、頭を下げながらドアを開いた。通って行く人が何だろうという顔をしている。
美奈が後から降りた後、優一は美奈に
「返事聞いていない」
「えっ」
「だって両親を紹介したら返事くれるって」
「ふふっ、返事はもう、優一のお母様がしたでしょう」
もう一度少し微笑むと
「これからも宜しく」
そう言って玄関に入って行った。後ろ姿を見ながら優一は
「美奈、渋谷行かない」
振り返りながら微笑むと
「うん、いいよ。でもちょっと待っていて。この格好で渋谷行くのは。着替えてくる」
そう言って家の中に入って行った。
優一は、OKされたのか、どうか釈然としなかったが、何となくNOではないような気がすると心が和んだ。
その後、優一は改めて美奈の両親に挨拶に行った。娘から聞いていたとはいえ、相手側の家の事に一抹の不安を抱えながら、娘が認めた男と会うことに抵抗の有った美奈の両親は、初め良い返事をしなかった。
改めて優一の父と母が、挨拶に行くことでなんとか二人の間を認めさせることはできた。だが、婚約の日取りなどは、“美佐子の事がはっきりするまではできない”という母親の言葉に優一も父親も従った。もちろんこの事は美奈の両親は知ることはなかったが。
三咲が、優一のそばを離れてからすでに半年が過ぎていた。美奈は、予定通り優一の部署に転部になった。いわゆるキャリアローテーションである。
最初、優一も美奈も意識しないように気をつけていたが、仕事の先輩としての優一が美奈と二人きりで仕事の説明や打合せを会議室で行っている時などは、どうしても二人の間が出てしまった。
「優一、もっと優しく説明して。ここのとこ」
「美奈、会社では、葉月さん」
その言葉聞いた美奈は、
「葉月さん、会社では石原さんでしょ」
そう言って二人で声を出さないようにして笑った。だが、そんな姿勢は、おのずと周りに分かるもので、
「葉月、ちょっと」
「なんだ、平岡」
優一に二人だけで昼を食べようと表に出ると
「葉月、お前個人の事に干渉するつもりはないが」
言葉を一度切ると
「石原さんとどうなっているんだ。誰が見てもお前たち」
「えっ」
「えっ、じゃない。葉月、お前、三咲という子を守ると言っていなかったか」
その言葉に忘れていた心の痛み、自分のだらしなさが甦った。
視線を親友と呼べる平岡に向けると
「平岡、今日の夜いいか」
「またか」
平岡は、そう言って優一に目をやった。
「三咲は、去って行った。すべて俺が悪い。優柔不断なままに時間が解決してくれると思っていた俺を、時は許してくれなかった。美佐子との間が三咲の耳に入った。三咲は、ただ“自分を一生守ってくれる”という言葉に俺は何も返せなかった。そしてだらしない俺の元を去った」
どこを見るともなく、琥珀色の液体を喉に流し込むとグラスに残るロックアイスにジャックを注いだ。
「そうか」
無為な言葉を言う必要もないと分かっている平岡は、それだけ言うと自分もグラスに入っていた琥珀色の液体を一気に喉に流し込んだ。
「美佐子さんと一緒になるのか」
「いや」
カウンタの先にある棚に並べられているボトルの陳列を見ながら
「石原さんと結婚する。もうプロポーズもして両方の両親の了解も得た」
「なにーっ」
平岡はさすがに驚いて優一の顔を直視した。考えが全く見えなかった。
「どういうことだ。前にあそこまで深酒をして俺と話したことは全部なしか。お前自身のことだから何も言うことはないが、俺にお前の頭は理解できない」
平岡の優一を突き放すような言葉に何も言えなかった。
“これもまた自分が悪い”そう思うと会社に入って知った大切な友人の言葉に自分の言葉を失っていた。
少しの間、何も言わないままに飲んでいると平岡が
「石原さんの事、ご両親も認めたということを言っていたな」
「ああ」
「会社には、言わないのか」
「まだ言わない。はっきりしなければいけないことがある」
「そうだな。それをしないうちは、いう訳にはいかないな。石原さんのためにも」
言葉を一度切ると
「石原さん、美佐子さんのこと知っているのか」
「名前は知らないが、“うすうす”感じている。女性という動物は鼻が利くらしい」
平岡は、さすがに我慢できなくなって声を立てて笑うと
「葉月、鼻が利かないのは、お前だけだ」
そう言って、また笑った。そして
「まあ、いい。自分の責任は自分で付けろ。葉月と石原さんの婚約に乾杯」
「いや、まだ婚約したわけではない」
「まあ、同じようなものだろう」
そう言って、グラスを目線まで上げた。優一もグラスを上げると二人で一気に飲み干した。
「葉月、とにかく石原さんとのことはなるべく分からないようにしろ。少し様子がおかしいと気付くやつも出て来ている」
「わかった」
翌日、昼の時間が終わって自席に戻り、メールを確認すると右後ろに座る美奈からメールが届いていた。
“優一、今日会えない”
“いいよ。でもセキュリティチームが見ることもあるから、葉月さん”
“・・・・・・”
分からない返信にほほ笑みながら右後ろを向くと美奈がほほ笑んでいた。
会社を出て、虎ノ門方向に歩いて行くと美奈がのんびり歩いていた。まだ、会社からは二〇〇メートルも離れていない。誰が見ているか分からないので、優一は
「石原さん」
と言って、いかにも偶然に会ったように声をかけると横に並んだ優一に
「あっ、葉月さん」
と言ってそれ以上は何も言わずにほほ笑んだ。
二人で歩きながら虎ノ門の地下鉄入口方向に二人で歩いて行くと
「葉月、目立ちすぎ」
“えっ”と思って後ろを振り向くと平岡が歩いていた。
「平岡」
と言うと
「まったく、葉月は」
と言って笑うと
「じゃあな」
と言って早足で虎ノ門の地下鉄の方に歩いて行った。平岡の後ろ姿を見ながら二人で微笑むと
「葉月君、平岡さん、素敵な人ね」
「ああ」
と言うと前を歩いている平岡が“こけるふり”をして更に早足になった。
また二人で微笑むと回りを見回して特に知り合いがいないことを確かめると優一は、美奈の瞳を見て“行こう”と伝えた。
「そうなんだ。平岡さんとはそんなに仲がよかったんだ。私、少し怖い感じがしていていたから良かった」
「あいつは、悪い奴じゃない。ちょっと気まじめだが」
「でも、確かに気をつけないとね。もう少し」
少し言葉を置くと
「優一、うちの両親が、“そろそろ婚約してもいいんじゃないか“と言っている。適当にごまかしているけど、私もそろそろそうしたい。そうすれば会社の人たちに分かっても問題ないし」
そう言って優一の目を見ると“早くはっきりして”と暗に身を整理しろという目をしていた。
実際、美奈は、プロポーズを受け、ご両親からも許しを得ても、優一に体を許すことはなかった。美奈は、優一が自分自身だけを見ていることが分かるまでは、許すことをしたくなかった。
唇を合わせ、胸を触られていると許したくなる気持ちに何度かなったが、自分で自制した。すでに二六も超えている自分自身に“なぜそこまで”という思いはあったが、一つの“気持ちのお守り”のようなものでもあった。
許せば手の平からこぼれる砂のように優一が自分から去っていくような気がしたからだ。
二人の間に静けさが漂っていると美奈がいきなり
「優一、今度ドライブ連れてって」
「いいけど、どこに行きたいの」
「それは優一が決めて」
“もう、美奈はいつも頼みながら僕に決めさせる。ある意味三咲より始末悪い”変な事を頭に浮かべながら考え込んだふりをしていると
「優一、何考えているの」
「えっ」
「“えっ”じゃない。今、変なこと考えていたでしょ」
「いや」
「正直に言いなさい」
“じーっ”と優一の顔を見ると左の頬を美奈の右手の人差指で“ツンツン”と突いた。
“あーっ、これって”お父さんがお母さんに何度か、左頬をつねられているのを見ている優一は、つい含み笑をすると
「優一、もう、何考えているの」
そう言って、顔を近づけて“じーっ”と見た。瞬間、優一は、自分の顔を近づけて唇を合わすと
「こらっ」
と言って、美奈も自分から唇を近付けた。
優一は、美奈とは、会社では、仕事以外、一切話すのを止めた。平岡からの忠告も有って二人で相談して決めた。
だが、二人だけになるとその分だけ美奈は思い切り優一と話したがった。二人だけで。それでドライブに誘ってほしかっただけなのだが、優一はそんなこと事とは思わずにいた。
「分かった。じゃあ今度の土曜日・・・いや日曜日箱根方面へドライブに行こう」
一瞬の優一の躊躇が気になったが、あえて聞くのを止めて
「じゃあ、土曜日は渋谷でデートする」
とほほ笑みながら聞くと
「いや、ちょっと用事が」
視線を流すと
「そう、まだ別れていないのね」
寂しそうな顔をして窓の外を見つめる美奈に何も言えず、自分も外を見ていた。
美奈は、婚約とかはしていないが結婚の約束をした以上、もう自分から離れることはないと思っていたが、優一の優柔不断に心が寂しくなる時があった。
“美佐子は、自分と結婚することが当たり前と思っている。すでに七年も付き合い、母親の手習いも一緒にしている以上、そう思うのが自然だ”そう考えながら美佐子に言う糸口を掴めない自分自身を情けなく思っていた。
だが、運命の神様は、自分と関係ない方向に事の流れをもって行った。
次の土曜日、優一は美佐子と有った。毎週土曜日は美佐子と有っている。美奈の事が有るまでは、母親のカリンが美佐子を家に呼ぶように言っていたこともあった。もちろん渋谷や青山で会うこともある。今日は表参道で会った後、渋谷に来ていた。
「優一、最近、お母様から習いの誘いがない。どうしたのかな」
優一も母親から“美佐子を連れてくるように”と言われなくなっていた。
「うーん、分からない。確かに最近、“美佐子さんを連れてきて”とは、言われていないけど」
心の中は、はっきりと意味が分かっていたが、美佐子にはそれをいう訳にもいかず、知らないふりをするしかなかった。
ただ、“いつかは、そしてなるべく早く”言わなければいけないと分かっていながらすでに半年もそのままにしていた。
「美佐子は、お母さんと習い事したいの」
「ううん、初めは“なぜ”と思ったけど、前に多摩川でお弁当食べた時に優一が話してくれた事を思い出すと、“これも仕方ないのかな”と思って一緒にすることにしたの。でも最近と言っても半年位になるけど優一を通して誘いが無くなったから気になって。最初は何か都合があるのかなと思っていたのだけ・・・」
少し寂しそうな顔をしながら言う美佐子に
「そうか、分かった。今度お母さんに聞いてみる」
渋谷のセンター街を、話をしながら何となく歩いていると
「優一、お腹すいた」
「うん、僕も。どこ行こうか」
「ねえ、私の知り合いから聞いたんだけど、この道をもう少し行ったところにアメリカンスタイルのステーキ専門店あるの。行ってみない」
「うん、いいよ」
少し、歩いて右に曲がると階段を上がったところに広々とした店内をもつステーキハウスが会った。店員が
「何名様ですか」
と聞いたので、優一は人差指と中指を立てると、店員は、入口に置いてあったメニューを持って
「どうぞ、こちらへ」
と言って先に歩いて行った。
父に連れられてUSのフィラデルフィアに行った時の事を思い出すとテーブルにつきながら
「なんか、USのステーキハウスっぽいね」
美佐子は“USと言われても”という顔をすると
「とりあえず、食事を決めよう」
と言って、美佐子の目の前にあるメニューに目線を送った。
「結構、ボリュームあるね」
「うん」
「じゃあ、大きなステーキを頼んで二人で分けようか。他にサラダとか頼めばいいし」
美佐子は優一の言葉に嬉しそうに頷きながら
「うん」と言って微笑んだ。
美佐子とは、朝から会うときは、夕方には別れる。ただ月に一度だけ夜遅くまで会うことも有った。
今日は、朝一〇時には、表参道で会っていたので、優一は夕方には別れると思っていたが、
「優一、今日、遅くまで一緒にいたい」
すがるような目に、判断できないでいると
「お願い」
もう一度言った。明日のこともあるので断りたかったが、美佐子の目に“何かあるのかな”と思うと
「分かった」
そう言って微笑んだ。頭の中では、“明日の事はなんとかなるだろう”と思っていると
「優一、明日何かあるの」
“えーっ、美佐子も”理解できない顔をしていると
「優一はすぐに顔に出るね」
みんなから同じことを言われながら自分はそう思っていない優一は
「えっ」
といつもの言葉を返すと
「もう、それはなしでしょ」
そう言って自分の左の頬をつねった。
“まいったな”そんなことを思いながら微笑んでいると
「どうしたの、つねられながら微笑んでいる」
「いやっ。あっ、いい・・たっ。もうやめはら・・」
笑いながら美佐子は手を離すと
「優一、少し歩こう」
そう言って、公園通りの方へ向きを変えた。
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