第11話 戸惑い (7)
翌日、優一は、ギリシャ語の講義を受けるため、渋谷から一緒に歩いてきた三咲と別れると三号館に向かった。
教室自体は大きいが、受ける人数が少ないので、みんな前のほうに座っている。よく見ると昨日会った植村美佐子がいた。
「隣に座ってもいいですか」
声の聞こえた方を向くと葉月優一が立っていた。
「どうぞ」
興味無さそうに、また広げている本を見ていると小声で
「お父様は、どのような仕事を」
「プライベートなことを聞きますね」
と言ってちょっときつい視線を投げると
「実は、僕も父に言われて大学は、専攻以外も勉強をしています」
「知っています。三咲から聞いているわ。ヘブライ語やヒンズー語もでしょ」
“三咲口軽いな”と思っていると
「三咲は、あなたのことを話すとき、本当にうれしそうな顔をしているわ。大事にしてあげて下さい。葉月優一さん」
まるで何かを分かっているような口ぶりで言う美佐子にいきなり
「今日、講義終わったら少し話せますか」
“えっ”という顔をして“じーっ”と見ると
「いいですよ」
と言って相手の顔をしっかりと見た。やがて教授が入ってくると、二人ともそれまでの会話がなかったかのように前を見た。
“あいつ”に指定された大学から少し離れた表参道との交差点に近いお店に行くと“ちょっと・・ここ学生が入るお店なの”という雰囲気が入り口にあった。少し重めのドアを開けるとボーイが入り口で待っていた。まるで分かっているかのように
「こちらへ」
と言われた美佐子は
「あの」
と声をかけると
「お連れの方が待っておられます。どうぞこちらへ」
先に歩き始めたので、“どういうことだろう”と思って付いていくと、少し奥まったテーブルに“あいつ”がいた。
ボーイは、深々とお辞儀をして
「お連れの方が参りました」
と言うと優一の反対側の椅子を引いた。美佐子が座るのを待って
「すみません。わざわざ来て頂いて。ここなら同じ大学の人は来ないかなと思って」
と言うと“じーっ”と優一の目を見つめると
「確かに私たちの様な一般人には入れないところですから」
“この人どういうつもりなんだろう。この前も突っ込んでくるし。僕はこの人に何もしていないのに”そう思いながら
「何を飲まれます」
「紅茶を」
と言うと優一はそばにいたボーイに目配せした。お辞儀をしてボーイがテーブルを離れるとそれを見ていた美佐子が
「慣れているんですね。こういうところ」
“うっ”と思うと
「ええ、いや父にたまに連れてこられるので」
「そうなんですか。こういうところにお父様と来られるのですか」
“あっまずい”と思うとちょっと困ったような顔をしながら
「すみません。植村さんともう少し話をしたくて」
“何を言い出すんだ。この男は”と思いながら見つめていると
「僕も父から“語学は重要だ。大学の間にしっかりと身につけるように”と言われています。植村さんも父上からそのように言われていると言っていたので少し気になって」
優一は、美佐子に明らかに心が惹かれるものがあるのを感じながら言うと
「父上は、葉月優さんですか」
直球をいきなり投げつけられた優は、少し黙った後、
「知っていたのですか」
「三咲にはどこまで」
「何も教えていません」
「なぜ。三咲はあなたのこと一生懸命思っている。自分でも分からないと言っているけど、はっきりあなたのこと好きです。あなたは彼女に対してどうなのですか」
あらぬ方向に話が走ってしまっている。“まずいな”と思いながら黙っているとボーイが紅茶を持ってきた。ポットからとても心地よいにおいが漂っている。美佐子はボーイが持ってきた紅茶のセットを見ると
「私たち学生の身分では、とてもオーダー出来ません。そもそもこのようなお店には入れないですから」
そう思いながら鼻に薫る紅茶の匂いには感心していた。
ポットから入れる紅茶の匂いが優一のところにも届くと“お母さんの入れる紅茶は最高だけど、ここのもなかなかだな”と思っていると
「葉月さん、私の質問に答えて頂いていません」
そう言って、少しきつめの目をした。
“きれいだな”そう思いながら自分の心が揺れているが分からない優一は、
「安西さんは、友達と思っています」
「キスをしている相手でも」
“えーっ、なんで知っているの。展開がまずい”と思いながら黙っていると
「葉月さん、私の父は三井の傘下にある会社の社長です。あなたのお母様の友達、三井の総帥、かおる様の会社の傘下にあります。これでよろしいですか」
あまりのストレートな言い方に圧倒されながら頭の中で“植村”という言葉を検索した。“三井の叔母様、あおいのお母さんの傘下にある会社”そう思いながら思い出せない優一は、ただ会話の中で自分の立場が押されているのが分かった。
「葉月さん、もうよろしいですか」
そう言うと
「三咲のこと大切にしてあげて下さい。あの子は、あんなに可愛いのに、まだ一度も恋をしたことがありません。高校時代からとても、もてましたが全く相手にしませんでした。初めて好きになった相手があなたです。キスもあなたが初めてだと思います」
それだけ言うと席を立って
「紅茶とてもおいしかったです」
そう言って、お辞儀をするとテーブルを離れた。
優一は美佐子の後ろ姿見ながら明らかに自分の心にある何かを感じた。
「カリン、ただいま」
「あなた、おかえりなさい」
若い頃から秘書として自分に付いている北川が、かばんを手渡すと靴を脱いで玄関を上がった。
優は、妻のカリンのさわやかな顔で言われると目元がほころんだ。もう四〇を超えていても妻の笑顔は惹かれるものがある。
“自分にとってかけがえのない宝物。命に代えても守らなければならない人”その気持ちが、妻の笑顔見るといつも感じた。自分たちの部屋に行こうとすると二階から
「お父さん、お母さん」
そう言って、二階から息子が下りてきた。
“なんだ”という顔をすると
「聞きたいことがあるのでが」
「今でないとだめなのか」
“これから妻と楽しい時間を過ごす。邪魔をするな”という目をすると
「いえ」
と言って下を向いた。その様子を見ていたカリンは、
「あなた、優一が、お話があると言っているのです。食事の後にでもお聞きになったら」
妻の言葉には、“No”と言う単語を持ち合わせていない優は、
「仕方ない。呼ぶから待っていなさい」
そう言って自分たちの部屋に行った。
「なんだ優一、お前から声をかけるとは。それもお母さんも一緒とはどういうことだ。結婚したい女性でも出来たのか」
「あなた」
と言って夫の優をたしなめると
「お母様の友達、かおる叔母様の傘下に“植村”という社長がいる会社がありますか」
いきなり何を言い出すかと思った優は、
「それがどうかしたか」
「あなた、優一が聞いているのです。何か理由があるのでしょう」
「だから理由を聞いている」
両親の会話に“まずいな”と思いながら“実は”と言って理由を話した。
「なるほど、分かった」
そう言って優は頭の中で検索すると
「三井の傘下に“植村建設”という会社がある。多分そこだろう。しっかりした中堅の会社だ」
「かおるに聞いてみましょうか」
「いえ、ここまでわかれば十分です」
「そう、ところでどちらのお嬢様が心にあるの」
いきなり直球を投げられた優一が返事に困っていると
「両方連れてきなさい。お父さんが見てあげよう」
一瞬にして左の頬に久々の妻の指が触った。
「いたーっ。分かった」
「分かっていません」
夫の“女癖の悪さ”に気を使いながらも息子にその血が継がれなかったことを安心しながら少し笑い顔で夫の優の頬を軽くつねる姿を見ると
「あっ、もう部屋に帰ります。ありがとうございました」
リビングを出ると“うちの両親はなんであんなに中がいいんだろう”そう思いながら自分の部屋に戻った。
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