第5話 戸惑い (1)
自分の唸り声に頭の中に意識が戻り始めるとパジャマが汗で、びっしょり濡れていた。とても寒い。やばいと思いながら昨日のことが、きっかけかなと思い出した。
昨日、なぜか朝から体がだるかった。“どうせ大した事ないだろう”と自転車でそう遠くない世田谷の総合運動場の中にあるプールで、二〇〇〇メートルほど泳ぐと体が十分に温まり、プールに来たときの体の冷えなど忘れて少し薄着で自転車に乗って帰って来た。
距離にして約五キロ。いつもなら丁度いい運動にしか思っていなかったが、夕方から寒気が始めまった。
それが、原因だろうと思いながら、たぶんに体が寒い。仕方なくベッドから起きようとすると結構体が厳しい。
下着とパジャマを洋服ダンスから取り出し、着替えるとブルブル震えながら二階にあるトイレに行った。
急いでベッドに帰ってくると厚手の毛布と上掛けを首元までしっかりと、」また一瞬にして眠りについた。
「優一、どお、お熱は」
“うんっ、お母さん”。遠くの方で聞こえる。体が自分の言う事を利かない。ベッドで横になっていると階下から上がってくる足音がしている。
ドアの開ける音がして、いきなりおでこを触られると
「まあ、汗でびっしょり。それに凄い熱じゃない。これではとても学校へは行けませんね。お医者様に来てもらいます。直ぐに新しい下着とパジャマに着替えなさい。トイレに行っている間に毛布を替えます」
矢継ぎ早に話す母になにも言えないまま母親の前で着替えると、そのままふらふらしながらトイレに行った。
“夜中よりまだいいな”と思いながら済まして部屋に戻ると新しい毛布と上掛けがベッドにかけられていた。
「食欲はありますか」
パジャマと下着を抱えながら聞く母親に
「ぜんぜんない」
「そう、それではお医者様が来るまで寝ていなさい」
そう言って階下に降りて行った。
“今日は仕方ないか”そう思いながら、また眠りの虜になった。
“優一遅いな。どうしたんだろう。土曜日約束したのに”そう思いながら渋谷東口を出て宮益坂の信号の前で待っていると、通りすがりの男性のほとんどが自分に視線を向けてくるのが分る。
“早く来てくれないかな”そう思いながら時計を見るともう直ぐ八時五〇分を過ぎようとしていた。
“そろそろ自分も学校に行かないと講義に間に合わない”と思いながら、“あと五分”そう思ってスマホを取り出すと“あっ、優一の携帯の電話番号聞いてなかった。メールも知らない”。少し下を向きながら、仕方なくスマホをバッグに戻して歩き始めた。
“あの時の事、気にしているのかな。あんなことしたから私のこと嫌いになったのかな”
思えば思うほど不安になってくる、自分の気持ちを何とか胸にしまいこみながら、大学の正門の前に着くと元気なく講義のある二号館へ向った。
“今日なら朝から一緒に居れたのに”そう思いながら階段を歩いていると
「おはよう」
声を掛けてきたのは、高校時代から友人の美佐子だった。
「美佐子」
三咲は、元気ないままに振り返ると
「あらら、どうしたの。まるで顔が」
そう言いながら見ている顔が本当に元気ないことに気が付くと、なにも言わず三咲の側によって
「講義一緒だよね。行こう」
そう言って三咲の手を取った。
「三咲」
美佐子が右ひじで三咲の左腕を突くと
「どうしたの。もう講義終わっちゃたよ。全く反応しないだから」
「えっ。いや分ってる」
自分の頭の中で何となく始まった講義は、いつの間にか頭の中から消え、“あいつ”のこと、“土曜の事”が頭の中で創造を勝手に巡らし、教授が立ち去った後も特に立つ気にもならなかった三咲は、美佐子の声で現実に意識を戻した。
「三咲、お昼は。少し時間有るけど食べる」
「うん」
頭だけうなだれながら言うと
「もう、分った。今日の学校の帰り聞いてあげるから、講義終わるまではしっかりしなさい」
美佐子の一生懸命に自分に言ってくれている顔を見ると三咲は、笑顔を作って
「美佐子ありがとう」
と言って階段式の教室の椅子を立った。
「優一、赤ちゃん出来ちゃった」
「えっ」
「“えっ”じゃない。ほら、お腹触って」
自分の体がまるでスローモーションのように腕が動かない。三咲のお腹に手がとどかない。いきなり“ふわっ”と後ろに引き戻されるようになると、今度は急に穴の中に落ちて行った。
何か、追いかけてくる。必死に走ると上から白い紐が降りて来ている。それにつかまるといつの間にか上にあがってきた。
下を向くと言葉に現せないものが、自分もしがみついている白い紐にぶら下がってついて来る。
優一は、耐え切れずにいるといきなり自分だけがその穴から飛び出てきた。と言うより穴が消えた。
ベッドの左上に何かが立っている。真白な衣をまとい、つり竿のような棒を前に出して前を向いている。
優一は、はっきりと目を開けて見てもそれは左上にいる。解らないままにまた眠りに付いた。
「お母様、お兄様は、まだお熱が下がらないのですか」
学校から帰ってきた花音は、自分の部屋で学生服から部屋着に着替えると階下のキッチンへ行った。食事の手伝いをするためである。
葉月家は、家は大きいが、普段は優とカリン、二人の子どもと優の両親の六人家族にお手伝いが一人いるだけである。作る食事量はそんなに多くはない。
セキュリティは近くに住んでいるが、同じ敷地内にいる訳ではなかった。それだけに特にお手伝いだけに食事を作らせる必要も無く、朝食と夕食はカリン一人でしていたが、花音が高等部へ入学してからは、学校から帰って時間ある時は手伝っていた。
「そうなの。心配だけど、主治医は、“泳いだ後、薄着だったのが原因だろう。二日も寝ていれば元気になります”と言ってくださっていたわ」
「そうなのですか」
普段は、母親のカリンの前で他愛無い口げんかなどをしていても、花音にとっては大切な兄である。
さすがに二日目も熱が下がらない事に心配した花音は、
「ちょっとお兄様の部屋に行って様子を見てきます」
そう言って二階に上がり自分の部屋の左にある兄の部屋をノックすると
「お兄様、入ります」
そう言ってドアを開けた。
部屋の中は、少し兄の臭いで溢れていたが、元々は中のいい兄妹だから、気にならずに入ると、汗を一杯かいた兄の優一が、ベッドの上で思いっきり毛布と上掛けを首までかけて寝ていた。
優一と毛布の間には、毛布にタオルがかけてある。それを見た花音は“お母様の優しさね”そう思うと“にこっ”として
「お兄様、具合はどう」
そう言って兄の顔を覗き込むと結構寝顔の可愛さに気が付いた。
頭の中で“まあ、可愛い”と思いながら、ベッドに兄の机の前にある椅子を持って来て座っていると
「三咲」
“えっ。今確かに三咲って”
花音は、“女っけ”のない兄が、女性の名前を口にした事に驚いた。兄の顔を良く見ると額に粒のような汗が溜まっている。頭の側に置いてあるタオルで額の汗を拭くと目をつむったまま
「お母さん、すみません」
と言った。
「花音です」
そう言って“ちょっと”と思ったが、まあ仕方ないかなと思っていると、やはり目を開けないまま
「花音か、ありがとう」
苦しくはなさそうだが、疲れたように目を開けない兄の優一に心配そうに目をやる。
目を開けそうにない兄の顔を見ながら、椅子から立ち上がり、兄の部屋を出た。
「お母様、まだ熱は下がっていないようです。額に粒のような汗が出ていたので側にあったタオルで拭いて差し上げました」
「花音ありがとう」
娘の顔を見て“にこっ”とすると母親の顔を見ながら花音は、
「ところでお母様。お兄様、女性の名前を呼んでいました」
「えっ」
キッチンで危く包丁を滑らそうになったカリンは、
「女性の名前。どんな」
娘の目を“じっ”と見ながら聞くと
「三咲って言っていた」
「三咲。そう」
そう言って少し考えると、また手を動かし始めた。
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