不死の少年作家

武州人也

第1話

 僕が人里離れた森の中の小屋で暮らすようになってから、もうどのくらいになるだろう。正確な年数は、もはや分からない。


 掃除をしていると、ふと、棚の中の紙束に目がいった。今はもう読まれることのない小説が、棚で埃をかぶっている。


***


 「不死人間計画」

 ヒトラー政権下のドイツで、不老不死の人間を作り出すために行われた実験だ。ベルリンの地下に作られた実験施設には、被験者として十二歳と十三歳の男女合計六人が集められ、「不死の薬」なるものを注射された後、経過観察と情報秘匿のために地下施設で暮らすこととなった。

 被験者となった六人は、いずれも戦争で親を失った子どもたちだ。実験が失敗して死亡したり、障害が残ったりしても後腐れがないからだろう。かく言う僕自身も、徴兵された父が戦死し、爆撃で母と弟を失った身だ。占領地から連れてきた者たちでなく自国民の子どもを被験者に選んだのは、他国人に不死という超越的な能力を与えることを嫌がったからだと思う。


 施設での暮らしは退屈そのものであった。あまりにも娯楽がないので、僕は暇を潰すために小説を書こうと思った。支給された紙と筆記具を使って執筆を始めた僕は、一か月ほどかけて、ちょっとした短編小説を完成させた。小説を書くなんて営みを今までしたことのなかった僕にとって、それはマラソンを走るが如くに苦しく、難しいことであった。それでも乗りかかった舟を降りることは、僕の性分が許さなかったのだ。

 そうした産みの苦しみを経てできあがったものを見た僕は「これを誰かに見てもらいたい」という欲求にかられた。ただ書くだけではつまらない、せっかくだから誰かに読んでもらいたい……そう思って処女作を見せた相手が、他でもない、パウルという少年であった。


 パウルは僕より一つ下の十二歳の少年であった。彼は男子らしからぬ中性的な容貌をしていたため、他の子どもからはからかわれることが多かった。そんな彼を僕は何かと庇っていて、他の子たちと何度か闘争を繰り広げていた。

 小柄でひ弱、それでいて少女めいた容姿の美少年の彼は、僕の庇護欲を大いにくすぐる存在であった。彼は僕にだけ心を開くようになり、そのことが僕にとってどれほど気持ちの良いことであったかは言うに及ばない。

 正直言って、僕の処女作は今思うと見るに堪えないものであったけれど、パウルはとても面白いと言って喜んでくれた。彼の可愛らしい笑顔は、今でもはっきりと覚えている。

 これにすっかり気をよくした僕は、「オデュッセイア」の続きだとか、ゲーテの「若きウェルテルの物語」でウェルテルが死ななかったら、だとか、そうした空想を次々と筆に乗せて小説にしていった。パウルはその全てを喜んでくれたので、僕はますますやる気になって執筆した。僕の稚拙な作品たちは、ただパウルのためだけに書き綴られた。


 そんなある日、いつものように鉛筆を走らせていた僕のところに、突然パウルが走ってきた。


「大変だ、ハンスとソフィーが……」

「どうした?」

「し、死んだ」


 ハンスとソフィー、どちらも僕と同い年の男子と女子だ。パウルの知るところによれば、定期健診の際、突然血を吐いて倒れ、そのまま事切れたのだという。

 パウルの表情は切迫していた。突然被験者の仲間が死んだのだから、動揺も当然のことであろう。二人の死を聞いた僕の方も、驚きを隠しきれなかった。

 あの二人はいつもパウルに意地悪をしていたから、二人を憐れむ気持ちは僕の中に湧いてこなかった。それよりも寧ろ、自分やパウルもそうした突然死を迎えてしまうのでは……という懸念の方こそ、僕の心を大いに動揺させた。


「僕たちも、あんな風に死んじゃうのかな……」

「馬鹿、変なこと考えるなよパウル」


 僕はパウルの肩を掴み、荒っぽく言い放った。その時、僕はパウルの体が小刻みに震えていることに気づいた。改めて目を合わせると、パウルはまるで捕食者に狙われる小動物のように怯えた目をしていた。

 僕がこれだけ怖がっているのだから、きっとパウルだって恐れているに違いない。そのことを慮ってやるべきだった……僕はパウルに強く当たったことを悔やんだ。


「……ごめん。怖いよな……」

「いいんだルーカス。もう、この話はやめにしよう」


 パウルは無言で僕にしなだれかかってきた。僕は彼をなだめるように、この少年の頭をやさしく撫でさすった。ボブカットの金髪はさらりとしていて、いつまでも撫でていたくなる手触りであった。


 二人の急死によって、残された子どもたちがそわそわし始めた。子どもたちだけではない。面倒を見ている大人たちにも動揺が広がっているように見えた。「不死人間計画」に対する疑念が、黒雲となって施設内を覆っていた。戦況もより悪化していたようで、食事の量も質も目に見えて悪くなっていったが、僕とパウルを含めて子どもたちは文句を言わなかった。言わなかった、というより、言えなかったという方が正しい。国を思って耐え忍ばずに、どうしてドイツ国民といえよう、という気風が、子どもたちの中にあったのだ。


 ハンスとソフィーの死から一か月後のこと。この頃になると、僕は小説を書けなくなっていた。気持ちが落ち着かず、鉛筆を握っても筆が走らない。そんな状態がずっと続いていた。

 突然、僕は施設職員に呼び出しを受けた。その呼び出しに応じて部屋を出ようとすると、ちょうど僕の部屋の扉の前に立っていたパウルとぶつかってしまった。


「……逃げよう、ルーカス」


 言うが早いか、パウルは僕の手をひっ掴んで走り出した。僕は何が何だか分からないまま、手を引かれ走った。

 僕の耳に、突然、銃声が聞こえた。外からではない。施設の中からだ。恐らく職員によって銃の引き金が引かれたからだ。僕はこの時初めて、パウルの突然の行動の意図を把握した。


 ――大人たちが、僕たちを殺そうとしている!


 そのことを察知したパウルが、僕とともに逃げようとしているのだ。僕は死の恐怖に急き立てられるまま、必死に走った。

 ようやく、僕たち二人は出入り口に続く階段にさしかかった。施設は地下にあり、階段を上がった先に出入り口がある。そこを目指せば、施設から脱出できる。

 階段を中間まで上がった時、再び銃声が聞こえた。今度は音の発生源が近い。明らかに僕たちを狙ったものだ。ちらと振り向くと、思った通り、施設職員の男が拳銃を構えていた。

 殺される――僕の恐怖は最高潮に達していた。足早に階段を駆け上がり、もう少しでパウルが扉を開けるというその時、再び銃声が聞こえた。


「うっ……」


 パウルの右手の甲から血が流れていた、銃弾は運悪く、彼の右手に命中したのだ。彼は右手を左手で押さえて苦しがっている。


「パウル!」


 僕はパウルと入れ替わるように前に立つと、扉を開け、パウルの左腕を引いて外に出た。そして扉を乱暴に閉めると、急いでその場を後にした。

 

「大丈夫か」


 僕は自分のハンカチを取り出し、パウルの傷口を縛った。白いハンカチは、血を吸ってすぐに赤く染まってしまった。パウルの顔を覗き込むと、歯をぎりぎり噛み締めて、秀麗な顔に苦悶の表情を浮かべていた。


 外に出た僕たちは、その時、自国が戦争に負けたことを知った。


 考えてみれば、僕たちは存在そのものが国家機密なのだ。敗戦となれば当然、連合国によって白日の下に晒される前に処分されるだろう。まるで役人が記録文書を焼き捨てるかのように。

 僕たちは逃げ続けた。人目を憚りながら逃げに逃げ、名前があるかさえ分からない土地に辿り着いた。深い森の中に打ち捨てられた小屋を見つけた僕たちは、そこに居を構えることにした。


 逃げている道中、満足に食事を得られない中で、僕たちはあることに気づいた。飲み食いをしなくても平気な体に変わっていたのだ。そういえば、施設で暮らしていた頃、食事の量をあからさまに減らされたにも関わらず、空腹感が全くなかった。もしかしたら「不死人間」の実験成果の一つなのかも知れない。


 小屋に住むようになった僕たちには前にも増して退屈な生活が待っていた。僕は逃走中に手に入れた鉛筆と紙で再び小説を書き始めたのだが、久々の執筆で感覚が戻らず、なかなか完成しなかった。パウルは如何にも待ち遠しいといった風に、目をきらきらさせながらしきりに横から執筆を覗いてきた。

 そうして、苦悩しつつようやく小説を完成させた僕は、それをパウルに見せようと彼の部屋に入った。


 パウルは、仰向けのまま口から血を溢れさせて死んでいた。


 嗚咽が、小屋中に響き渡った。ハンスとソフィーが死んだ時とは違って、僕は純粋に、パウルの死を悲しんで涙を流した。一生分の涙を使い果たすかのように、僕は涙を溢れさせた。


 外で穴を掘りながら、僕は考えた。「不死人間計画」は、やはり失敗だったのではないか。確かに僕は未だに声変わりをしていないし、飲み食いの必要もない。けれどもハンスとソフィー、そしてパウルの不可解な急死を考えると、実験は失敗だったと考えざるを得ない。となれば、僕もいずれああして死ぬのだろう。

 以前と違って、僕は死を怖がらなかった。自分が死ぬかも知れない未来よりも、パウルという無二のが去ってしまった現実の方が、よほど僕の心を苛んだ。僕は暗い洞窟の中に、一人放り出されたような気分であった。

 パウルの遺体を抱きかかえ、掘った穴に入れた。体温を失ったパウルの体は、彼の死という現実を否応なしに僕へと突きつけた。僕は無言で、パウルの入った穴に土をかぶせた。透き通るような白い肌と金の糸のような髪が、黒い土の下に隠れていった。


 それ以来、読者パウルがいなくなったことで、僕は小説を書くこともしなくなった。無慈悲な時の流れに取り残された小屋の中で、僕は何をするでもなく、パウルとの思い出に浸っている。

 いつ僕がかは分からない。できれば早く、その時が来てほしい……そう思いながら、僕は生を貪り続ける。

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