第2話
早馬荘には全部で8つの部屋があった。担当者の話によれば5つの部屋に住人がおり、曜子は記念すべき6つめの部屋を埋めたということになる。何が記念なのかは良く分からないが。挨拶は必要かと尋ねた曜子に、
「要らんと思いますよ」
と、気の良い男はあっさり言った。契約書にサインをしに行った日だった。
「人付き合いもあんまない物件やし……家賃もまあ、へんな話、半年分とか纏めて払う人もおるし」
「うちもそうしてええですか」
担当者はたしかに善良な男だった。思えば曜子の人生にこういった人間が参加してきたのは彼が初めてだった。彼は曜子を「変わった顧客」として扱いはしたが、「かわいそう」という目では見なかった。それが心地良かった。家賃は毎月27日に不動産屋に足を運び、手渡しで支払うことになった。大家の意向らしい。
半年が過ぎた。暑い日も、寒い日も、年末も年始も曜子はアルバイトをして過ごした。バイト先は家を出るまでは近所のコンビニ、出てからは市内のスナックだった。可愛くない、頭も良くない曜子だったが、若さだけはあった。未成年だから酒は飲めないということになってはいたが、飲んだ。市内でも名の知れた暴力団幹部の愛人だという曜子の雇い主は、気のいい女性だった。化粧の仕方も酒の飲み方も彼女を見て学んだ。客とセックスをすることもあるが、仕事で初体験をしたわけではなかった。高校生の時には恋人だっていたのだ。
年が明けてしばらく経った、アルバイトが休みの日だった。近所のコンビニでウーロン茶と肉まんを買って帰ってきた曜子の目の前に、見知らぬ老人が佇んでいた。男だった。曜子は僅かに眉をひそめ、しかし小さく会釈をして自分の部屋に戻ろうとした。
「あんた」
と、背中に声が投げかけられた。振り返ると、白髪のその男がこちらを見上げていた。綺麗な髪をした男だった。銀色だ。オオカミみたい。冬の陽光に反射して、射るような目も快晴の夜空に輝く月のように煌めいて見えた。
「喪服持っとるか?」
「はい?」
男は202号室の
「葬式をしたらなあかん」
話が良く見えない。立花と黒松は血縁者なのだろうか。口ぶりから察するに、そういうわけでもなさそうだが。
「昨日死んだ。明日通夜で明後日葬式なんや。あんた、来てくれへんか」
同じアパートのよしみで、などと言う。挨拶ひとつ交わしていないというのに。
だが、曜子はこっくりと首を縦に振った。
「明日は無理やけど、お葬式だけなら」
「おおきに、助かるわ」
何が助かるのかまったくもって意味不明だったが、曜子は部屋に戻り、置きっ放しにしていた携帯電話でバイト先に連絡をした。知人の葬式で、と説明すると、雇い主は少し驚いた様子で突然の欠勤を了承してくれた。彼女もまた、曜子の人生に於ける異物と言えた。
ところで曜子の部屋には一着の喪服が置かれている。吊り下げる場所もないので買った時のままの状態で衣裳ケースにしまってあるのだが、これは、高校を卒業して数日後にこっそり買ったものだった。母からの卒業祝いはすべてこの服に化けた。なぜだか無性に喪服が欲しかったのだ。曜子は結婚式にも葬式にも出たことがない。妹、弟は親戚の結婚式に連れて行かれていたことがあったが、曜子はない。なぜだかは知らない。とにかく喪服が欲しかった。曜子の持ち物をくまなくチェックする母親がこの喪服に気付かなかったのは、奇跡でもなんでもなく、曜子自身が必死で隠し通したからだ。
その出番が突然に訪れた。衣裳ケースから取り出した服にそっとアイロンを当て、翌日の出勤と、翌々日の葬式のことを考えた。
葬儀当日、立花は曜子に受付を頼んだ。
「俺とあんたしかおらんのや」
と、礼服姿の老人は言った。黒尽くめが良く似合う、綺麗な人だなと思った。
「受付て、何したらええんですか」
「これに名前と住所書いてもろて、あと香典受け取って」
「香典」
「封筒にカネ入れてくれるさけ」
「はあ」
綺麗だが、変な人だ。だっておととい初めて口を聞いた子どもに、葬式の受付を――金銭の絡む仕事を任せるなんて。
「頼むで、櫟さん」
「あ」
「ん?」
「曜子です」
「うん?」
「苗字嫌いなんで」
「頼むで、曜子さん」
葬儀は滞りなく進行し、終わった。坊主を呼ぶ金はない、と立花は言い放ち、無宗教のお別れ会という形式だった。足を運ぶ人間はそれなりにいた。
火葬場に行くという立花の後を曜子は追った。訝しい顔ひとつせず、
「助かるわ」
と、老人は言った。
「年甲斐もないじじいやったさけ」
曜子は肩をすくめて少し笑った。喪服は持っていたが、上着はぺらぺらのパーカーしかなくて、この場にそぐわないような気がしていたのだ。立花は年季の入ったレザージャケットを羽織っていた。
骨になった黒松老人を骨壷に納め、火葬場を出た。曜子が集めた香典の中から立花は一万円札を数枚掴み出し、「おおきに、ありがとな」と言って寄越した。曜子は大人しく金を受け取った。今日は確かに良く働いた。
「また、頼むかもしれへん」
「え?」
「年寄りばっかやろ、あのアパート」
なぜ、と思ったが、言わずにいた。なぜ、いつまでも送る側でいられると思っているのだろう。なぜ、自分が先に逝くとは思わないのだろう?
寒風で銀髪が揺れていた。立花は目を細めて煙草をくわえる。なかなか火が点かない。ライターを持たない曜子は彼の役には立てないのだが、それでもなんとなく隣に立っていた。火葬場は埋立地の中にあった。冷たい風が潮の匂いを運んできた。
隣の焼き場では大勢の人が泣いていた。黒松老人の体を見送る立花と曜子は至って平然としていた。曜子は生命を失った肉体と顔を付き合わせたことがなかった。生きていた姿を知らない彼の死に顔を見ることにうまく言い表すことのできない感情を覚えながら、曜子は黒松老人をじっと見ていた。そうして彼は骨になった。立花は、待合時間に買った烏龍茶で遺灰を少しだけ口に含んで、飲んだ。
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