第3話
それから二年の間に、三度の葬式があった。曜子はその度に一張羅の喪服を着て駆け付けた。次第に手際が良くなっていく。立花はいつも同じ顔をしていた。悲しくもなく、寂しくもなく、穏やかな横顔。曜子が引っ越してきて二度目の夏に三人目を見送り、初めてふたりで酒を飲んだ。アパートの住人は、ふたりきりになってしまった。
「立花さんは」
曜子は言った。21歳になったばかりだった。
「ヤクザなんですか」
「まあ」
問いに、立花は短く答えた。紹興酒を飲んでいる。ふたりはアパートからほど近い場所にある中華料理屋にいた。大陸からやってきた夫婦が営んでいる小さな店だ。安くて大盛りのランチが有名なのだが、夕方以降の時間帯に来るのは初めてだった。テーブルは回転しないタイプだ。
「そんなようなもんやな。……誰ぞに何か言われたんか」
「葬儀屋さんが」
「
鼻の上に皺を寄せて苦笑した立花が、煙草をくわえる。つられるように曜子も紙巻を口にした。老人の銀色の目が苦くない笑みを浮かべる。
「人の個人情報を」
「うふふ」
「
関西圏で暮らしていれば自然と耳に入ってくる暴力団の名前である。別段驚きもしなかった。
「今もです?」
「半々やなぁ」
「へえ」
「興味ないやろ」
「まあ」
「曜子さんは? 学生?」
「いえ」
市内のバイト先の名前を告げると、ああ、と立花は眉尻を下げた。
「吉平の」
「よしひらさん?」
「あっこのママの付き合うとる男、東條組の吉平……まあ、知らんでもええことやけど」
「来たことあるかもしれませんね」
「せやなぁ」
愛人の名前までは知らなかった。どうでもいい話だ。そんなことより揚げたての鶏の唐揚げが美味いとか、軟骨の唐揚げが美味いとか、ふたり揃って鶏を揚げたものばかり注文しているとか、そういう話がしたかった。或いは。
「アパート、誰もおらんくなりましたね」
「せやな」
「次はうちかも」
「そうか」
そんなことない、とか、若いんだから、とか言わない立花を曜子は気に入っていた。アパート前で鉢合わせても、小さく会釈を交わす程度、そういう距離感が丁度良い。今日も、曜子が言い出さなければ食事に来る運びにはならなかっただろう。
食事を終え、アパートに戻った。例のけたたましい階段が、背筋を伸ばして歩く立花の革靴の下ではひどく大人しいということに気付く。曜子のパンプスにはいちいち大声で返事をしてくるというのに。
「立花さん」
201号室の扉に手をかけながら、曜子は言った。
「うち、かわいそうな子なんです」
自分でもおかしくなるほど突拍子もない台詞だった。藍色の夜空に銀盤の月が滲む。202号室の前で立花は黙ってこちらを見ている。ネクタイをほどき、丸めてポケットに押し込む彼の大きな手。節くれだった長い指。人を殺したことがあるのかもしれない、美しい手。
「おかんも、父親も、妹も弟も賢くて綺麗でちゃんとしてて、せやのにうちだけ違ってる」
かわいそうな子、と言われ続けた日々の記憶を押し込めて蓋をしていた箱が、唐突に壊れた。記憶と汗が同時に溢れ、体中が真っ黒に染まっていくような気がする。次の葬式は自分かもしれない。もう喪服を着ることはなくなるかもしれない。
「殺して」
立花が尋ねた。静かな声が鼓膜を揺さ振り、それに呼応するように背中の毛が逆立つのを感じる。
「欲しいんか?」
地を這うような、天を衝くような、人間の言葉ではない、そんな響き。穏やかな声音だった。あの葬儀屋は、このアパートの住人全員の葬式を出した狐面に似た顔の葬儀屋は、本当はこう言ったのだ。
『殺し屋やったんですよ、立花さんは』
『大阪東條組お抱えの、人殺し』
「引き受けてもええけど」
世間話をしている時とはまるで違う温度の声で、立花は続ける。
「四人は荷が重いわ、もう引退した身ぃやしな」
ドアノブを強く握った。縋るように。こめかみが熱くなり、喉が詰まった。泣きそうだ。かわいそうな子。かわいくない、あたまもわるい、そんなこと言わんといて。うちはかわいそうな子やない。かわいそうやない。
「立花さんもうちのこと、かわいそうやと思います?」
老人の目が一瞬銀色に輝き、それからすぐに見慣れた褐色に戻る。口元の皺をぎゅっと深めて男は笑った。優しい顔だった。
「素敵な隣人さんや。ええ喪服を持っとるし、香典も集めてくれて頼りになる」
曜子がそうしてくれと頼めば、立花は拒まないだろう。疑いもなく思う。好機なのかもしれなかった。そうしてくれと言うのは容易い。くちびるを開いては閉じる。ずいぶん長い間そうして沈黙していたような気がする。立花はレザージャケットのポケットに手を突っ込んだ格好で、曜子の応えを待っていた。
何人もが頭を過ぎる。賃貸会社の担当者。アルバイト先のママ。曜子を気に入って酒を飲みに来る男性客。良く行くコンビニの同世代ぐらいの青髪の女性店員。煙草屋の老婆。お喋りな葬儀屋。これまでの曜子の世界には存在し得なかった人間たち。そして殺し屋かもしれない、立花寅彦。
もっと話がしたかった。
「喪服、安かったんです」
やがて、振り絞るように呟いた。小さな小さな声だった。ろくなことを言えない自分を情けなく思ったが、立花は穏やかに両目を細めた。
「次はもっとええのを買い。俺の葬式でも着てくれや」
「嫌です」
「あっはは!」
部屋に入り、後ろ手に扉を閉めて曜子は静かに泣いた。恨みも憎しみも惨めさも悔しさも癒えはしないのだ。ただ、立花寅彦にとっての曜子は『素敵な隣人さん』だった。曜子にとっての立花もまた、そうだ。このまま生きていこうと思った。
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