喪服のビッチ

大塚

第1話

 かわいそうだと言われ続けて育った。


 初めにそう言ったのは誰だったろう。母親か。或いは血縁関係にない父親か。妹か。それとも弟か。記憶は朧げである。忘れようとしている、という方が正しいのかもしれない。櫟曜子くぬぎ・ようこの中には明らかな答えが存在している。だがそこに目を向けると、恨みつらみ憎しみで頭がどうかしてしまいそうになる。考えないようにしていた。

 初めにそう言われたのは、妹が生まれてしばらく経ったころだ。曜子は「ぱっとしない」娘だった。生まれた時から目鼻立ちの整った愛らしい妹。地元という小さな地域間に限られてはいたが、神童として名を馳せた弟。そのどちらにも劣る、「ぱっとしない」長子。それが曜子だった。曜子と妹、そして弟は三人とも父親が違う。曜子のことを「かわいそう」と言った父親は、少なくともふたりはいるということだ。そう言われた時の自分の反応も、曜子ははっきりと覚えている。昨日のことのように。曜子は小さく苦笑いをして、「そんなこと言わんといて」と言ったのだ。否定できなかった。かわいそうな子。見た目が良くなく、頭も良くない、何の取り柄もない子。


 高校卒業と同時に家を出た――と言いたいところだったが、少しばかり時間がかかった。母親は曜子を手放したがらなかった。ふたりは良く似通った母娘だった。母親は父親の違う子ども3人を女手ひとつで育てることに何の躊躇いもない程度には自立し、見目の麗しさも備えていたが、常に他者からの評価を必要としていた。あなたは強い、という賛辞を。何人もの異性の恋人を囲い、時には彼らを金銭面でサポートする程度の強さを見せ、次女や長男の友人たちの前ではいつも隙なく華やかでいた。曜子の前では違った。化粧っ気のない顔で煙草をくわえ、ぱさついた髪をかき回し、「かわいそうな子ぉやね」と言った。「あんたみたいな子、どうせ男にもモテへんのやから、ずっとあたしと一緒におり」と。それは呪いだった。このままでは駄目になる、と気付くのは早かった。中学生のころには気付いていた。それでも、手足にまとわりつく枷をひとつひとつ外すのには時間がかかった。家を出たのは、19の時だった。


 一人暮らしのための住居探しは、困難を極めた。母親にもその恋人にも保証人を頼むことなどできるはずがなく、その条件だけでも部屋を借りるためのハードルは上がった。それで曜子は半年以上の長きに渡り、市内の不動産会社を歩いて周ることになった。曜子は自転車に乗れなかった。誰にも乗り方を教わらなかったし、そもそも曜子の自転車は家にはなかったからだ。だから歩いた。歩き周った。母が買って三日で飽いたお下がりのスニーカーの踵に穴が開くまで。

 曜子に部屋を貸してくれたのは、市内に一軒しか店舗がない小さな不動産屋だった。坊主頭に丸顔に丸眼鏡の年若い男性担当者は、

「こことかどうですか」

 と、間取りが印刷された藁半紙をカウンターに滑らせた。顔いっぱいにかいた汗をタオルで拭う曜子は、間取りをろくに見もしないで肯いた。

「借ります」

「シャワーしかないですよ」

「いいです」

「トイレ、和式やし」

「保証人要らんのですよね。借ります」

 頑なな口調に担当者は何かを言いたげな顔をしたが、しかしすぐにゆるい笑みをくちびるの端に浮かべた。

「でもまあ、おすすめ物件ですわ」

 今更と思わないでもなかったが、シャワーしかない和式トイレの物件のどの辺りにおすすめ要素があるのか、遅ればせながら気になった。ペンシルでぐりぐりと描いた眉毛が全部落ちてしまった気配を感じながら、

「どの辺が」

 と、曜子は尋ねた。

「おすすめなんですか」

「見に行ってみます?」

「行きます」

 そうして、契約を決めてから内見に向かうことになった。

 そのアパートはドブ川の近くにあった。時間が止まってしまったような木造アパートで、曜子は、自分が生きたことのない昭和という時代を思い浮かべた。クルマを降り、丸い背中に続いてアパートに向かう。この建物には、と男は言った。

「おじいおばあしか住んでへんので」

「はあ」

「静かですよ」

「そうですか」

 それが売りなのか、と思う。無理がある。家賃の安さを思えばどうでも良い話だが。外付けの階段を上ると、穴の空いたスニーカーの下でカンカンと甲高い音が響いた。

「この部屋です」

 鞄から鍵の束を取り出した担当者が【201】号室の扉を開ける。1Kの小さな部屋には思いの外清潔な空気が流れ、色褪せた畳から漂う乾いた匂いに曜子は好感を持った。

「畳を替えて……あとは洗面所周りを掃除して」

 喋る担当者を横目にシャワールームとトイレを覗く。そんなに汚れてない、と思う。

「死んだんですか」

「はい?」

「人とか」

「ああ」

 喋るのが下手だという自認はある。これも直していかなくてはいけない。自分の人生を誰にも左右させたくなかった。櫟曜子はかわいそうな子ではない。知りたいことは自分で確認する。そう決めていた。

 何を尋ねているのかはすぐに伝わった。担当者は首を横に振る。太い首に寄った皺の間に汗の粒が溜まっていた。夏の日に疲れ果てている大型犬のようだ。山岳救助に向かうイヌだ。

「誰も死んでません。古いんですほんとに」

「そうですか。そんなら、掃除もええです」

「ええっ」

「すぐ引っ越したいんです。いつなら入れますか」

 担当者は明日電話をすると言ったが、携帯電話を持っていない曜子は断り、翌日再度店を訪ねることになった。家を探す一年と少しの間にアルバイトをして貯めた金もあったし、母や父が寄越す雀の涙程度の小遣いにも手を付けずにしまってあった。敷金礼金と数ヶ月分の家賃には事欠かないはずだ。携帯電話は、部屋の契約と同時に持つつもりだった。


 翌週、曜子はアパート・早馬荘の住人になった。母親は大騒ぎをし、父親には顔を殴られたが、身の回りの最低限の荷物を持って逃げるように引っ越しを完了させた。


 実際、曜子は逃げたのだ。ひどく暑い夏の日だった。

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