■10//エピローグ(1)

 市内、閑散とした昼下がりの私立病院。

 駐車場の片隅に停車された、異様な圧を放つ黒塗りの高級車――その助手席で、東郷はシートを倒して寝転んでいた。

 うだるような日差しの下。冷房を効かせているものの、車内を包むじめっとした湿気に東郷は顔をしかめる。

 ……あの一件で大怪我を負ったヤスが、本日ようやく退院するのだ。

 喜ばしいことではあるものの、それはそれとしてさっさと会計を済ませて出てきてほしいと思っていると、運転席で同じように待機していた人物もまたハンドルを指で叩きながら舌打ちをひとつこぼした。


「何で僕が、こんなことを」


 そう、草壁である。肩に怪我を負ったリュウジは(すでにほとんど回復したものの)しばらく運転の任から外して、代わりに彼が完全回復するまでの間は同じく若頭補佐である草壁に任せることにしていたのだ。


「お前のおかげでリュウジに無理させずに済む、助かったぜ」


「……ちっ。リュウジさんに無理させて事故でも起こされたらたまったもんじゃないからな」


 東郷に対してはいまだ当たりが強いものの、リュウジには一定の敬意を払っているらしい。

なんだかんだ言いながらもちゃんと仕事はしてくれるのが、この草壁という男であった。


「……そう言えば東郷」


「カシラって呼べ」


「ちっ。……カシラ、また刑事から連絡がありましたよ。例の事件のことでまた話を聴きたいって」


 例の事件、というのは――すでに3週間も前になる、井境絡みのあの事件だ。

 経極組の組員やあのラブホ跡に詰めていた警官などかなりの人数が行方不明になっていたため、いまだ収拾がついていない状況なのである。


「面倒だな。一応包み隠さず全部話したんだが……まあ、あの内容じゃ調書に書きようもねえか」


「まあ、どちらかと言うと月無組の方が関与を疑われているようですが――向こうは向こうで、のらりくらりと躱しているようです」


「だろうな。実際、連中ももらい事故みてぇなもんだし」


 事件の規模が規模なだけにしばらくはゴタゴタするだろうが……一応警察としては、宮代栄斗をホシとして睨んではいるらしい。

 彼の遺した携帯電話から辿った位置データで行方不明者たちの遺体も続々発見されているらしく、そちらの線も含めて重要参考人として警察は宮代を追っている。(と言っても、すでに亡き後ではあるが)

 宮代には父親以外に家族はいなかったらしいから、そういう意味では不幸中の幸い――とでも言ったところか。

 もともと「いないはず」の井境が起こした事件全てを引っ被ることになったという点では、いささか哀れではあるかもしれない。

 事件後の顛末を思い返していると、草壁が小さくため息をついた。


「……にしても、また西行絡みの事件だったとは。クソ、井境とかいう野郎、一発殴ってやりたかった――」


「お前まで集めて、全員で返り討ちに遭ったら目も当てられないと思ってな。……でもあん時は助かったぜ、お前があの後すぐに乗り込んできてくれたおかげで、ヤスを運び出してやれた」


「……いきなりあんな屋敷まで呼びつけられた時には、何事かと思いましたが」


 ――東郷たちが屋敷に突入する際。事前に草壁にも連絡はつけていた。

 井境を万が一にも取り逃さないために屋敷の外にも網を張っておきたかったというのがひとつ、もうひとつが……怪我人が出た時にすぐ助けを呼べるように、という理由。

 結果的には東郷以外の3人がそこそこに怪我を負うハメになったため、大役立ちだったというわけである。


「驚きましたよ、ヤスは死にかけてるし、リュウジさんまで肩撃たれてて。コイカワは……まあ、あいつだから心配はしませんでしたが」


「まあ、あいつはな」


 ちなみにコイカワは胸元をぱっくりと斬られたまま救急外来に徒歩で入って、それを見た医者たちがドン引きしていた。(まあ、見た目ほどの重傷ではなかったのだが)

 ……などと、そんなことを話していると、車の外から「おーい」と声がした。

 こちらに向かって手を振っているのはヤスと付添いのコイカワである。


「やっとか」


 肩をすくめてそう呟いて、東郷がふと、視線をなんとなく移ろわせた――その時だった。


「……?」


 視界の端に映ったのは、駐車場を囲む雑木林に向かって消えていく人影ひとつ。

 それは小柄な、着物姿のように見えた。


「カシラ?」


「悪い、すぐ戻る」


 言いながら東郷は急いで車を降りて、人影の後を追って雑木林に分け入っていく。

 しばらく走ったところで――少し拓けた場所、大きな木の足元に、彼女はいた。

 宮前燐。

 あの戦いの後、姿を消していた……彼女であった。


「……燐さん、あんたなのか」


 ――あの「境目」での戦いの後。結果として東郷たちは無事にこちら側に戻り、燐が心配したような後遺症もなく元の鞘に収まることができた。

 騒動も一段落し、捕まっていた美月も助け出し。一番重傷であったヤスも一命を取り留めて――しかし彼女だけは、戻ってこなかった。

 東郷たちが屋敷の地下で目を覚ましたころにはすでに彼女はどこにもおらず、だからこそ東郷も、彼女は「あちら側」に行ってしまったのだとそう思っていた。

 だが――目の前にいる少女。彼女はどう見ても、宮前燐その人である。

 東郷の問いかけにしばらく彼女は何も答えず、代わりに薄笑いを浮かべると、こう呟いた。


「私が、宮前燐に見えますか?」


「何?」


 怪訝そうに眉根を寄せる東郷に、燐は――彼女の顔をしたものは、意味深な笑みのまま続ける。


「あの戦いで東岳大帝が冥界に押し返されて、その力の余波で貴方たちは此方側に戻ってくることができた。ですが……だとしたらあの場にいた他のものも、ドサクサに紛れて戻って――」


「てめぇ井境かこの野郎が、もういっぺんあの世に叩き帰してやらぁ!」


 彼女が言い終わる前にそう言って殴りかかった東郷に、すると彼女は一転して両手を上げてぶんぶんと首を横に振った。


「違います違いますすいません冗談です、ヤスくんのかわいいかわいいお母さんの燐ちゃんです」


「本当か?」


「本当です、なんなら恥ずかしいですが潔白を証明するためにここで脱いででも――」


「誰がンなことしろと言った」


 呆れ混じりにため息をつくと、東郷は土下座を続ける彼女に手を差し伸べる。

 おずおずと握り返して立ち上がった彼女。その纏う雰囲気はたしかに、彼女のものであるように思えた。

 それに――


「あ、かーちゃん。こんなとこにいたッスか。退院の時会いに来るって言ってたのにいないから、心配したッスよ」


 東郷を後から追いかけてきたらしいヤスが現れると、彼女を見て開口一番そんなふうに言ったのだ。


「ヤス、お前……知ってたのか?」


「知ってたって、何をッス?」


「いや、燐さん……この人が戻ってたこと」


「あれ、言ってなかったッス?」


 きょとんと首を傾げるヤスの頭を思わずグーで殴る東郷。


「痛いッス……」


「こういうことは早く言えっての、このバカ」


「体罰はいけませんよ東郷さん、ヤスくんがバカになっちゃいます!」


 唇を尖らせてそう言ってくる燐にげんなりしつつ、東郷は気を取り直して二人を見比べた。


「どういうことか、説明してもらおうか。俺にだって聞く権利はあるはずだぜ」


「まあ、そこは先ほどお伝えした通りで。東岳大帝が冥府に押し返された時にすごいエネルギーが発生してですね……私まで皆さんと一緒にこちら側に押し返されたという次第で。あああと、ついでに言うと」


 そう言って彼女は着物を翻しながらくるりと一回転してみせると、何故か自慢げにこう続けた。


「私、生身に戻っちゃいました」


「あぁ?」


「『あちら側』に留め置かれていた私の肉体も、あの反動でこっち側に戻ってきたみたいでして。なので今までのような浮遊霊もどきではなく正真正銘、肉体のある人間に返り咲けたというわけです」


「……マジで?」


「なんなら触ってもいいですよ。あ、でもえっちなことはいけませんからね」


「しねえよ子持ちの人妻相手によ」


 そもそも今までだって触れること自体はできたわけだから、何の証明にもならないが。

 頭を抱える東郷に、ヤスがさらに口を挟んでくる。


「いやぁ、びっくりッスよ。かーちゃん戸籍上は死んだことになってるッスから、そのへんの手続きもありましたし」


「そりゃ役所の連中もびっくりだろうな……」


 それにしても、なんというご都合主義であろうか。

 呑気そうに笑い合っている二人を見て若干呆れつつ――けれどすぐに東郷は肩をすくめて、小さく笑う。

 ご都合主義だろうが何だろうが、知ったことか。

 どんな理屈であれ親子がこうして再会できたのだ。これ以上にないアガリというやつだろう。

 そんなことを考えていると、ヤスを追いかけてきたらしいコイカワも遅れて姿を見せた。


「ひぃ、ひぃ、おいヤス、お前病み上がりのくせに走るのはえェよ――って、燐さん!?」


「あ、コイカワさん……でしたっけ。えへへ、ご無沙汰してます」


「うお、ヤベ、なんで燐さんがッ……ああくそこんなことなら勝負服のアロハ着てくりゃよかったぜ畜生!」


 なにやらズレたところで狼狽えている彼を不思議そうに見た後、燐は東郷に向き直ってにこりと笑った。


「まあ、ともあれ。そんなこんなで宮前燐、今までよりもパワーアップして復活しましたので――今後もご贔屓よろしくお願いします。はいこれ名刺」


「もうさすがにあんたの世話になることはないと思いたいがな」


「それはそうですけどね。前にも言った通り、東郷さんたちはもうかなり『こちら側』と強い縁ができちゃってますから。それに――あの子」


「あの子?」


 眉根を寄せる東郷に、燐はそこで笑みを消して真剣な顔になる。


「美月さんって言いましたか。彼女には、これからも気をつけてあげて下さい。井境が狙ったように、彼女の『器』としての素質はかなりのものですから」


「器って、なんだそりゃ」


「肉体というのは、魂の容れ物としての側面があります。あの子の場合はその容れ物としての力がとてつもなく大きいんですよ」


 その燐の話に、東郷はいまいち要領を得ずにしかめ面をする。


「そうなると、何がマズいんだ」


「彼女のような特別な器は、古来にはかんなぎと呼ばれることもあり――多くの教団、宗派の類がそういった存在を求めてきました。あるいは信仰の対象として、あるいは……彼らの信じる神への捧げ物として」


「……今は21世紀だぞ。ンなこと――」


「井境さんみたいな人は、残念ながら世の中には大勢いますよ。そしてそんな連中は今も世界中で、彼女のような『器』の持ち主を血眼で探し続けています」


 冗談を言っているようには、思えなかった。

 神降ろしの儀式のために美月をさらった井境。彼のような輩が万が一にも美月の存在に気づくようなことがあれば、また――彼女を危険に晒すことになる。

 しばらくの沈黙の後、東郷は燐に向き直って口を開いた。


「どうすりゃいい」


「なに、簡単なことですよ。東郷さんが今まで通り、ヤクザさんとしてこの街に根を張り続けていればいい――そうすれば妙な宗教屋さんとかが勢力を伸ばしてきても、すぐに対策できるでしょう」


「……そういうもんか」


「そういうものです。まあ、あとは――そうですね」


 人差し指を唇に当てて軽く思案した後、燐はいたずらっぽい笑みを浮かべながらこう続けた。


「美月さんのこと、これからもすぐ側で見守り続けてあげることです」


 それだけ言うと、燐はくるりと踵を返した。


「それでは、立ち話はこんなところで。今日は夕ご飯の買い出しをしなければいけないので、私はこのまま帰ります」


東郷の返事も待たず、「ではまた~」と手を振り立ち去っていく燐。

 いつもはふらりといつの間にか消えていたものだが、今回は徒歩だった。

 もらった名刺を一瞥し、小さく肩をすくめると東郷もまた踵を返す。

 生身に戻った燐と再会できたのはよしとして、できれば今後は、今度こそは彼女のご厄介にはなりたくないものである。


「……なァ、ヤス。燐さんってよォ、食べ物とか何が好きなんだ? あと趣味とか知ってたら教えて欲しいんだが」


 ……コイカワが妙に真剣な顔でヤスに詰め寄っていたが、それについては気にしないことにした。


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