■9//拓かれし境目(2)

「……っは……ここは……」


 意識が途絶えていたのは、体感としてはほんの一瞬であった。

 息を吐き出して東郷が身を起こすと、彼がいたのはあの屋敷の地下にある暗い空洞ではなく……古い電車の車両の中。

 座席に腰掛ける形で座っている己を見た後、周囲に視線を遣る東郷。すると他の座席に散らばるようにして、あの場にいた面々の姿もあった。


「あれ、俺……怪我してないッス」


 そう呟いたのは、ヤス。瀕死だったはずの彼はしかし、そう言う通り怪我のひとつもない。

 斬られたコイカワや撃たれたリュウジに至っても同じで、皆どうしたことか無事なようだ。


「なんなんだ、ここは……」


 東郷が周囲を見回すと、窓の外は真昼のように明るい青空。

 だがちらちらと舞うのは、大粒の雪。見渡す限り何もない地上は、降り積もった雪で真っ白に覆われている。

 ――どうにも現実感のない場所。その感覚を、東郷は一度経験したことがあった。


「……『境目』ってやつか」


「そうです」


 不意に聞こえたそんな声に東郷が振り返ると、今しがたまで空席であったところに燐が座っていた。


「かーちゃん!」


 彼女の顔を見て改めてそう声を上げたヤスに、燐は小さく微笑んでみせる。


「お久しぶりです、ヤスくん。……ちゃんとお話しするのは、もう二十年ぶりですか。大きくなりましたね」


「っ……かーちゃんは、変わんなすぎッス! なんなんスか、どうなってるんスか、これ!?」


 涙目になってそう返すヤス。と、その隣にいたコイカワがぎょっとした顔で二人を見比べる。


「えっおい、ちょっと待てよ、母親カーチャン……? えっ、はっ?」


 そんな彼の動揺をよそに、東郷は燐へと問いを投げかけた。


「親子水入らずにしてやりたいところだが、すまねえな。……なあ、燐さん。『そうです』ってぇことは、ここは――」


「はい。彼世と現世の境目です」


 あっけらかんとそう言う彼女に、驚愕する舎弟たち。しかし東郷としては、「やはりか」といったものであった。

 西行とやり合った際に、奇妙な「泥」に呑まれて見た場所。あの時の場所はかつての東郷の家だったが――ここにあってここにあらずと言うような現実感の乏しさは同じだった。

 納得げに頷く東郷を横目に、燐は窓の外に視線を向けて続ける。


「井境は、死に際に自分に戻丸を突き立てて……刀に遺されていた東岳大帝の力を解き放った。その結果として、彼自身を最後の人柱として儀式が発動したんです。境目を拓き、かの神を現世に引き入れるための儀式が」


「……ったく、イカれてやがるな」


 あの男は自分自身を生贄として、己の信仰に殉じたというわけだ。常軌を逸している――まだ西行の動機の方が理解できるものだ。

 もっとも、任侠としての矜持に殉じて命を平然と投げ捨てる自分たち極道もハタから見れば同類か……と、そう自嘲しながら東郷は頭を振る。


「それで、その儀式とやらのせいで俺たちはこんなところに引きずり込まれたってわけか」


「引きずり込まれた、というのは正確ではありません。正しくは――あの場所自体が、異界になったと言った方がいいでしょうね」


「……また頭の痛くなってくる話だな。それで、俺たちはここから元の場所に戻るにはどうすりゃいい」


 頭をかきながらそう問う東郷に、燐は指をぴんと立ててこう告げた。


「開きかけている境界を再び閉じるほか、ないでしょうね。それができれば、恐らくは異界化したこの場所も元通りになって、皆さんも戻れるはず」


 そう告げた彼女に、ヤスが首を傾げた。


「皆さんは、って。なんか他人事みたいな言い方ッス」


「ええ。私は多分、現世には戻れませんから」


 あっさりと、何の感慨もなくそう言ってのけた燐に、ヤスは目をみはる。


「戻れないって。なんでッスか!」


「今ここにいる私は、現世に遺っていた宮前燐とは厳密には違うんです」


「……どういうことだ?」


 怪訝げに呟く東郷に、燐はただ静かにこう続ける。


「二十年前、井境は今回と同じように『門』を開けようとした。その時に私は門を閉じるために『此方側』に――貴方がたにとっての『あちら側』に、留まったんです。その時の反動で現世の私は、当時の記憶だけ抜け落ちてしまっていたんですけれど」


「何だって、そんなことを」


「一度開いてしまった『門』は、片方の側からだけでは閉じられないんです」


 彼女の言葉に、東郷は得心する。……西行が「門」を開こうとして、東郷が取り込まれた時。東郷を引っ張り上げてくれた誰かの「手」があった。

 あの時はきっと、あの「手」がその役目を担って、東郷をこちら側に戻すためにあちら側から「門」を閉じてくれたのだ。

 だが――だとすれば、ひとつ疑問は残る。


「それなら何だってあんたは、俺たちのいる側に遺ってたんだ? その理屈なら……いなくなっちまうんじゃないのか、こっち側からは」


「そこは――私にも予想外だったんですけどね。私の中にあった未練とか悔いとか、あるいは母としての意地とでも言うんでしょうか。そういったものに引っ張られて、魂の一部だけが『此方側』に遺ってしまったみたいなんです。地縛霊みたいなものですね」


 そんな燐の説明で、合点はいった。彼女の存在は「あちら側」と縁ができてしまった東郷や、あるいはそもそも霊力のある美月のような人間にしか認知できなかった。

 浮草のような、地に足のついていない存在――それが東郷の知る「宮前燐」だったというわけだ。

 納得する東郷の横で、その時ヤスがぽつりと呟く。


「……なんで、カーチャンがそんなことをしたッス。俺や、とーちゃんや、クソジジイだっているのに――なんで一人で、勝手にそんなこと決めたんスか」


 辛そうに、俯きながらそう問いかける彼に、燐は――


「ヤスくんたちが、いたからですよ」


「……え?」


 顔を上げたヤスに、燐は柔らかな笑みを浮かべながら続けた。


「『門』を閉じなければ、現世と彼世の境界は失われて、ヤスくんたちも皆死んじゃうところだったから。それを止められるのは、私しかいませんでしたから」


「……っ……」


 何か言おうとして、けれどそれ以上何も言えずに歯を食いしばって膝をつくヤス。

 席を立って彼の元に歩み寄ると、燐はその肩を抱きしめた。


「本当に、かっこよくなりましたね、ヤスくん」


「……なんで、会いに来なかったんスか……!」


「いつ消えるかも分からない身だったから、なるべく貴方ところには現れないようにしようと思ってて。それであの人とも相談して、死んだことにしようって――だけどごめんなさい、ちゃんと会ってお話しするべきだったのかもしれません」


「ホントそうッスよ……」


 涙を流しながらそう言って抱きつくヤスを、子供のように撫でる燐。

 そんな二人を見ながら、コイカワがなぜか複雑そうな顔で呟く。


「子持ち……っていうか人妻……。でも死んだってことになってるなら戸籍上はワンチャンあるかァ……?」


「何言ってんだこのバカ」


 寝言を抜かしているコイカワに拳骨を食らわせて黙らせていると、燐が再び立ち上がって東郷に向き直った。


「……ともあれ、そういうわけで私はほとんど彼世の存在で――だからヤスくんたちとは一緒に戻れないんです」


「……なんか、方法はねえのかよ」


「私の思いつく限りでは、ありませんでした。でもそのおかげで、今回も私は皆さんを送り返すことができるんです。それでよしとしませんと――」


 そう彼女が言い掛けた、その時だった。


『……よくないな。せっかく俺が命がけでこじ開けたものをそんな簡単に閉じようなんてさ』


 車両の連結部から聞こえた声――東郷たちが一斉にそちらを向くと、そこには人型をした黒い靄が立っていた。

 声だけで分かる、それは……井境だ。


「てめぇ、井境ッ……まだ生きてやがったのか」


『おっかないなあ。心配しなくても俺はもうこの通り完膚なきまでに死んでるから、生者である東郷さんたちにはこれ以上手は出せないよ』


 そう言って肩を揺らす黒靄を、東郷はしかし睨みながら白鞘に手をかける。


「死んでるってんなら、口挟むんじゃねえよ。神降ろしだかなんだか知らねえが、てめえの小細工もこれで終いだ。そこで見てろ」


『んー、そう簡単に行くかなって話なんだけどね。なあ、宮前さん』


 そう話を振ってきた彼に、燐はわずかに表情を固くした。


「どういうことだ」


『今回は、西行の儀式とはワケが違うんだぜ。俺がやったのはただ『門』を開けるだけの儀式じゃなく――東岳大帝そのものを引きずり出そうとしたんだから』


「回りくどいんだよ、てめえ」


 悪態をつく東郷に、井境は再び笑って。


『つまりさ、今回は――開いた門を、通るモノ・・・・がいるってことさ』


 そう彼が告げたその時だ。

 東郷たちの乗る電車を、凄まじい振動が襲ったのは。



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