■17//DAY3:悪夢、抗う者(2)

 そこは、ひどく懐かしい場所だった。

 暖かい夏の日差しが窓から差し込む、清潔感のある玄関口。何度も何度も夢で見た――懐かしく、そして何よりも忌々しい記憶として刻まれた場所。

 己の手を、東郷は見つめる。黒手袋に包まれた手。右手の小指は固く、義指と分かる。

西行とやりあった際に銃弾がかすめた頬の傷が、ちり、とかすかに痛む。夢ではない。


だが――だとすればこの状況は、なんだ?


 記憶が霞がかったようにはっきりとしない。今までどこにいたか、何をしていたか。ほんの少しの切っ掛けで思い出せそうなものではあれど、いまひとつおぼろげで。

 だが……この場所のことはよく分かる。

 ここは――決まってよく見るあの悪夢の場所。

 両親が西行に殺されたあの時の、東郷の両親の家だ。


 ぼんやりと立ち尽くしていると、不意に東郷の耳に悲鳴が届く。

 女の悲鳴。だが……おかしい。いつもの夢ではすでに、何もかもが終わった後・・・・・・・・・・だったはずだ。

 悲鳴など、東郷は知らない。

 だが――行かずにはいられなかった。

 土足のまま駆けて、リビングルームの戸を勢いよく開ける。


「親父、お袋ッ!」


 辺りを見回す。するとリビングの壁際に――二人の男女がいた。

 今となっては東郷と同じくらいの年齢。精悍な顔立ちの男性と、優しげな女性。

 女性を庇うように立つ男性は二の腕に切り裂かれたような傷があり、血が滴っていて。それを見た女性が悲鳴を上げたのだろう、彼女の方は恐怖に満ちた表情を浮かべている。

 だが奇妙なことに、二人とも入ってきた東郷には目もくれず。それどころか、立ったままの姿勢で微動だにしない。

 まるで、時が止まったような。

 その奇妙な光景に東郷が眉をひそめていると――リビング奥の窓際から、声がした。


「よぉ。東郷――なんだお前、こんな所に来ちまったのか」


 声の主は……西行だ。

 草壁の体ではない、彼本来の顔。つるりとした禿頭に、鮫のような鋭い顔立ち――彼は入ってきた東郷を見ると、にたりと生理的嫌悪感を催すような笑みを浮かべてみせる。


「こんな所、だと? どういう意味だ」


 問いを投げかける東郷に、西行は「くひひ」と笑いながら肩をすくめた。


「あの世とこの世の境目。境界線の上。ここはそういう場所さ。呪詛の暴走で『境目』から溢れた、幽世かくりよの汚泥――てめぇはそいつに呑まれて、今まさに生死の狭間にいるってわけだ」


 そう言って手に持ったナイフを軽く振ると、付着していた血液が飛んで床を汚す。

 彼の言っていることを信用する謂れはないが……だがこの状況は、尋常ではなかった。

 止まって動かない己の両親を一瞥する東郷に、西行は再び「くひひ」と笑う。


「気になるか? 気になるよなぁ。そいつらはな、あのビデオテープの呪詛の一部として取り込まれたお前の両親――その魂ってやつさ。奴らはあの世に向かうこともできずに、ここで何度も何度も……俺に殺される瞬間を繰り返している。いやぁ、地獄みてぇだよなぁ?」


「てっ、めぇ――」


 拳を握る東郷を尻目に彼はナイフをべろりと舐めると、東郷の両親へとゆっくり近づいて。


「……せっかくだしもう一回見せてやるよ。てめぇの両親の――死に際を」


 そう言いながら刃を振りかざす彼と両親の間に、東郷は弾かれたように割って入る。

 庇った左腕に深々と突き立つナイフ。その鈍痛に顔をしかめながら、東郷は空いた右手で西行を殴りつけようとして――けれど引いたその腕が不意に、後ろから固く掴まれた。


「なっ……!?」


 見ると、先ほどまで両親であったはずの二人――そのどちらの顔も、西行のそれに変わっていて。

 そして次の瞬間、背中にどすん、という衝撃。二人の手にいつの間にか握られていたナイフが、東郷の背中に突き立っていた。


「っ、かは……」


「引っかかった、引っかかった! くひひ、バァーカ。9割方嘘だよ」


「ん、だと……」


 膝をつく東郷を見下ろしながら、西行はナイフを弄んで肩を揺らす。


「この『狭間』にいるてめぇをここで殺せば、てめぇは本当に死ぬ。そうすりゃ俺はてめぇの体を乗っ取って外に出られる、逆転大勝利って寸法よ! くひひ、くひひひひ。痛いか? 痛いよなぁ。俺は一本だって死ぬほど痛かったのに、お前は2本だもんなぁ――」


 東郷の周りをぐるぐる回りながら、心底愉快そうに喚く西行。一方の東郷は……しゃがみこんで微動だにしないまま、俯いて静かに呟く。


「……おい西行。ここで死んだら、俺は、死ぬんだな?」


「ああそうだ。なんせここはあの世とこの世の『狭間』だからな!」


「ああそうかい、なら――」


 そう頷くと……瞬間、東郷はその身をすっくと起こして。


「――ここでてめぇをぶっ殺せば、今度こそ完全にあの世に送れるってわけだな」


「ひょ?」


 立ち上がりざまに叩きつけられた、すくい上げるようなアッパー。それが西行の阿呆面を下からもろに撃ち抜き、彼の体は勢い余って天井へぶつかって、床に叩きつけられた。


「ぐ、ぎぇ、いてぇ……イてぇよ、俺の顎がぁ」


 見て分かるほどにひしゃげた顎をさすりながら床を転がる西行。そんな彼をじっと見下ろす東郷に、西行は信じられないといった顔で呻いた。


「なんなんだ、てめぇ……なんでそんな傷で、立ってられんだよ! ここで感じる痛みは、現実と何も変わらねえはずなのにッ……」


「痛み? 何言ってんだ、お前」


 そう言って東郷がスーツの背中側に手を入れて取り出したのは、一冊の……週刊誌。


「ヤクザなんていつ刺されるか分からねえんだ。このぐらい仕込んでおいて当然だろ」


「ンな、アホな……!」


 もちろん東郷とて、実際にそう習慣づけたのは前回の「学校の怪談」事件の経験を踏まえてなのだが。

 ともあれそんなことはおくびにも出さず、拳の骨をぱきぱきと鳴らしながら東郷は西行へと近づいて――


「さぁて、西行」


「ひぃッ……」


 その拳を今度こそ、


「往生、せいやァ!!」


 力いっぱいに――その顔面へと叩きつけた!


「が、ぁ、ぎぃ……!」


 東郷の正拳突きでさらに吹き飛び、窓ガラスを割ってそのまま外へと飛んでいった西行。するとどうしたことか。急に辺りの空気が渦巻いて、凄まじい勢いで窓の外へと吹き抜けてゆく。

 部屋の内装がみるみるうちに崩れ、剥がれ、外へと飛び出して。見れば外はいつの間にか一面の闇へと変わり果てていて――西行の姿はすでに完全にその中へと消えている。


「っ、くそ」


 恐らく、あそこに行ってはいけない。リビングの扉の枠を掴んでどうにか持っていかれまいとするが、しかしその闇の吸引力を前に、じりじりと手を離しそうになって――

 もうだめか、とわずかに諦めがよぎったその時。

 扉の外から伸びたふたつの手が、東郷の手を掴んで、ぐいと引っ張る。

 東郷を引き寄せたそちら側にあったのは、眩いまでの光。

 その暖かな感触に、東郷はただ身を任せて――


 次に目を見開いた時、そこはあの、鍾乳洞の中だった。


――。

「……っ、はあ――」


「カシラ! 大丈夫ですかカシラ!」


 真っ先にそう声を掛けてきたのはリュウジ。そんな彼の顔を見て、東郷はすぐに今の状況を思い出す。

 そうだ、確か自分はあの泥の中に沈んで――そう気付いて正面を見ると、そこには不思議としか言いようのない光景が広がっていた。

 洞窟を埋め尽くし、押し寄せていた黒い泥。それらが東郷たちの間際で、見えない壁に阻まれたようにその勢いを留めていたのだ。


「……どうなってんだ、こりゃ……」


 思わず呟いた東郷に、自信満々に胸を張ったのはヤス。何かと思って見ると、彼は両手に……実家からの仕送りというあの桃缶を握っていた。


「ダメ元でこいつを投げてみたら、止まったッス! なんだか分からないッスけど、これがどうやら嫌いみたいで」


「桃缶が……?」


 思わず肩の力が抜けそうになるが、ともあれ確かにあの墓での実績もある。

 まあそういうこともあるか、と頷いた後、東郷は気を取り直して皆に告げた。


「――よし、それじゃあてめぇら、走るぞ! ヤス、念のため桃缶よこせ!」


「はいッス!」


 そうして一同は振り返ることなく走って、走って、走って。

 地上へ向かう梯子までたどり着いた頃にはもう――後ろから迫っていたあの濁流は影も形も消え失せて、それ以上地上にあふれてくることはなかった。


 梯子を上がった頃にはいつの間にか空はうっすらと明るくなっていて、雨もいつの間にか止んでいた。

 思ったよりも時間が経っていたらしい。そう認識しながら小さく息を吐いた後、東郷は皆を……そして眠っている草壁を見て、口を開く。


「……一息つきたいところだが、そうも言ってられねえな。草壁の野郎をすぐに医者に診せねえと」


「出血は幸い落ち着いてきてますが……銃創ですからね。馴染みの医者じゃないと、何勘ぐられるか分かったもんじゃありません」


 そう同意するリュウジに頷き返して、東郷は一同に告げる。


「引き上げるぞ、てめぇら。……こんな陰気臭えところとは、おさらばだ」


 その言葉に異を唱える者など、いるはずもなかった。



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