第44話

 食後、体調不良を理由にカノンの追及を逃れてベッドに身体を滑り込ませた村井は案の定というか、カノンから甲斐甲斐しい看病を受けていた。


「師匠、身体拭きますよ」

「大丈夫。いつもみたいに体表を焼くから」

「病み上がりなんですから私に任せてください」

「……なら、自分で拭くからタオルを「大丈夫です。やるので」……分かった。背中だけ頼んだ」


 本当に手厚い看護を受けて村井は困っていた。自分のためにやってくれていることなので文句は言えないが、色々とくすぐったい思いにさせられる。


「はい。じゃあこっち向いてください」


 丁寧に背中を拭き終えたカノンが今度は村井の身体の表側を拭きにかかる。村井はそろそろ止めにかかった。


「カノン、背中だけでいいって」

「……何でですか」


 手を止めて不機嫌になるカノン。並大抵の男であれば顔を曇らせただけですぐにご機嫌伺いしたくなるような美貌の持ち主だが育ての親代わりでもあると自負している村井はカノンのこの程度の態度の変化には屈しなかった。


「何でも何も普通に手が届く範囲は自分でやるから。カノンも明日にはパレードとか授与式があるんだろ? もう休んだ方がいい」

「そうですね。今日は早めに休みます……ので、早くこっち向いてください。身体を拭き終わらないと他の用事に移れません」

「カノン、もう大丈夫だから。そんなに心配しなくても……」

「大丈夫なんですか? なら少しお話しても……」


 カノンの切り替えしに村井は何も言えなくなった。少し溜息をつくとカノンの方を向いて彼女のしたいがままにされる。上半身を綺麗に拭き終わったところでカノンは少し挙動を止めた。そんな彼女に村井は釘をさす。


「流石に下は……ちょっと見ないでほしいんだが」

「そ、そうですね……エマさんとソフィアさんもいますからね……」


(いなかったらどうしてたんだ……)


 カノンの言い回しに若干の不穏な点を覚えた村井だったが、取り敢えずはカノンが大人しく引き下がってくれたのでよしとする。


「はぁ……」


 手早く身体を拭き終えた村井はタオルをカノンが持ってきた水桶の中に突っ込んでベッドに戻り横になる。そして異世界に戻れるという話について思案し始めた。


(カノンはこの世界に残った方がいいと思うんだが……)


 カノンに言い切れなかった言葉を心中で反芻する村井。ソフィアが付いてくる件については明確な目的がある上、エマが必要としている以上、この世界に戻って来れる保証もある。また、エルフの寿命からすれば40年という期間も長くはないらしい。

 しかし、カノンの方はどうだろうか。

 彼女は村井から離れたくないという理由だけで別世界に行こうとしている。また、エマの機嫌次第でこの世界に戻って来れない可能性だってある。更にソフィアと一緒にこの世界に戻るにしても人間の身からすれば40年という月日は長い。

 それらを考えると村井はカノンの異世界転移が軽率な行為にしか思えなかった。


(どう考えてもカノンはこの世界に残った方が活躍も出来るし、あの子が望む生活を送れると思うんだが……)


 仮にカノンが日本に来た場合、幾つもの段階を乗り越えなければならない。最大の問題として、魔力がないこと。これにより言語の壁も浮上してくる。

 更に法律の壁や暗黙の了解の範囲となる生活文化、果ては食生活でもまず醤油などの文化に馴染まなければ村井の食生活とは合わないだろう。


(その点、この世界だと魔力がなくならない以上、カノンの日常を邪魔出来る奴はいない。言語も魔力さえあれば対話の意思がある者と会話できる。それ以上の生活を望んだとしてもカノンは帝国の皇女様とも知り合いで六魔将の一人を倒した英雄だ。この後の生活に不自由はないだろう。それに、仮にコネとかそういうのがなくても美少女だし、気立てもいい上に家事も万能だから相手に困ることもない)


 少し考えれば分かることだ。まして、カノンほど賢い子であれば分からない道理はない。だが、カノンは一切聞き入れてくれない。


(……色々と教えたつもりで、俺は何にも出来てなかったんだな)


 また溜息をつく村井。そこにノックの音が響き、カノンの声がする。水桶を片付けに再度入室し、心配そうに村井を見て二三声を掛けた後に退室した彼女を見送った後も村井は悩み続け、気が付けば眠りについているのだった。




 翌朝。目が覚めた村井はいつの間に眠っていたのだろうと思いながらベッドを出てトイレに向かい、用を済ますとそのままリビングに出る。

 リビングではエマが優雅に食後の紅茶を嗜んでいた。彼女は村井の視線に気付くと紅茶から口を離す。


「何だい? 君の分の朝食なら残してあるから安心しなよ」

「……二人は?」

「パレードと式典に出かけたよ。今頃はパレードが終わって式典で無駄に長い話でも聞かされてるんじゃないかな。面倒臭いから僕はパスだ」


 しれっと不敬罪で処されそうなことを宣うエマ。村井は呆れるが特に何も言わずに朝食を魔具で温め直すと朝食を摂り始める。しばし無言の時間。先に口を開いたのは村井の方だった。


「なぁ……カノンはこの世界に残った方がいいと思うんだが、エマはどう思う?」

「好きにすればいいと思う」

「……そうか」


 会話終了。再び沈黙が訪れる。黙々と食事を続ける村井と紅茶を飲みながら新聞に目を通すエマ。少ししてエマは新聞を読み終えたようで顔を上げる。その頃には村井も食事を終えて食器を片付けた上で席に戻っていた。


「何か面白い記事はあったか?」

「特にないね。強いて言うなら今回のゴゴーシュ討伐も皇族の権威のおかげみたいな感じになってるのが滑稽なくらいかな」

「……左様ですか」

「さて、いい加減こっちをちらちら確認しながら食事するのも疲れるだろう? 言いたいことがあるなら言ったらどうだい?」


 悪戯っぽく笑うエマに村井は最近癖になりつつある溜息をついて答えた。


「カノン、この世界に置いて行きたいんだが……」

「おや、君はあの子のことが嫌いなのかい? あの子は君のことが随分と好きみたいだけど」

「茶化さないでくれ。大事に思ってるからこそだ」


 昨日考えていた理由をつまびらかに説明しながらカノンがこの世界に残った方がいいと力説する村井。エマはそれを聞いて笑っていた。それを見て村井は流石に少しムッとする。


「面白いか?」

「うん。面白い位にすれ違ってるね。あの子にとっては地位も名誉もお金も全部君の関心を引くためのものに過ぎないのに」

「……それは」

「それに君の方も本当は満更でもないのに無理して考えないようにして肝心要な彼女の思いを踏み躙る。まぁ、滑稽だね」


 ずばずば切り込んで来るエマに村井は何とも言えなかった。村井が黙っているのを見てエマは更に続ける。

 

「楽になっちゃえば? カノンちゃんなら君が素直に全部話してお願いすれば大抵のことを受け止められると思うよ」

「そんなこと許されないだろ……」

「何でだい? 別に悪いことしてるわけじゃないだろう? 好き合っている者同士が結ばれる。ただそれだけじゃないか。シンプルに考えなよ」

「……片方が無知なのをいいことにつけこんでるだけじゃないか」


 その言葉を聞いてエマは更に笑った。


「あはは。無知って面白いね。そうだ。面白そうなこと考えた。君さ、ちょっと記憶喪失にならないかい?」

「は? 何を……」

「大丈夫大丈夫。一日だけの話だし、この家の中だけの話で本当にダメな時は戻って来れるように細工するから」

「何も大丈夫じゃ……」


 ない。そう言おうとした村井だが身体から力が抜けてしまう。急な体の異変にエマへ助けを求めようとするも彼女は笑いながら村井のことを見ているだけだ。


 そこで村井は既にエマの術にかかっていることを覚った。


「本当に無知につけ込むって言うのはこういうことだよ」

「何するつもりだ……」

「僕は何もしないよ。ま、起きたばっかりで悪いけどまた寝てて」


 遠のく意識。村井が机に突っ伏した後、エマは悪戯っぽく笑いながら術式を行使して彼をベッドの上に戻すのだった。




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