第3話

「はっ……はっ……何とか……生きて、着いたな……」


 息を切らして走り込んだ霧の中。村井はここまで来れば争いを好まない世界樹の結界の中だということを原作知識で知っていた。安心できる。彼はそう思い、両足に纏っていた雷を解き、気を緩めた。途端に今までの疲労の蓄積から力が抜ける。


「カノン、生きてるか……」


 返事はない。だが、か細い息の音が村井の耳に届いていた。どうやら、カノンは村井の【纏雷】による感電を耐えてここまで来れたようだった。


「はぁ、はぁ……上々の出来だ……さて、ここからもうひと踏ん張りだ……ここで死んだら闇騎士になっちまうからな……」


 別の冒険者の末路ピュアリッチのことを思い出しつつ重い足取りで前に進む村井。ただ、村井の心配は杞憂のようだった。奇跡の水を主成分とした霧を吸うことで彼の足取りは次第に確かになって行く。それはカノンも同じことだった。靄がかかっていた意識が次第にはっきりとしていき、ついに彼女は我に返った。


「あ、れ……?」

「起きたか。もう少しで奇跡の湖だ。歩けるなら下ろすけど」

「すみません、まだ……」

「そうか。ま、気にするな。もうすぐよくなるからな。よく頑張った」


 静かな湖畔を進んで行く二人。そしてとうとう、目的地にたどり着いた。


「きれい……」


 思わずカノンはそう呟いた。奇跡の湖。そこはまさに山紫水明。薄霧の中、幻想的で厳かな空気が場に満ちていた。水面は静謐を保ち、その傍に温かな光を纏いながら悠然と佇んでいる巨木を映し出している。その湖の水辺まで移動した村井はカノンを下ろし、立ち上がった。


「じゃあ……湖に入ってくれ。多分、沁みると思うけどそこは我慢だ。その間、俺はちょっと奇跡の水薬を作って来る」

「え、あ……はい」


 言われるがまま、靴を脱いで湖面に足を踏み入れるカノン。冷たい水なのに暖かさを感じるという奇妙な体験をしながら腰ほどの位置まで水が来る場所に歩いていくと彼女はそこで腰を下ろした。


「んっ……」


 湖の水がカノンの身体を包み込む。カノンの体表に弱い電気がなぞるような刺激が走った。カノンはぎゅっと目を閉じてその刺激に耐える。先程の電撃に比べればなんてことのない刺激だ。そう思いつつ湖に浸かっていると不意に体から淀みのようなものが出ていく気配を感じ始めた。


「これ、が……?」


 身体が軽くなっていく。ぼんやりとしていた頭が冴えていく。呪病に罹っていた頃どころか罹る前よりも体調がよくなっていく。そんな急激な体調の変化にカノンは不安を覚え始めた。そしてたまらず声を上げる。


「お、お兄さん! こ、これ、いつまで!」


 返事はない。カノンの不安がさらに大きくなり、湖から出たくなった。しかし、途中でやめて良いものかも聞いていない。その上、何となくこのままでもいい気がし始めて来た。思考にまで影響を及ぼしてきているのかと思うと恐怖を感じるようになってきたカノン。


「お兄さん!」


 先程よりも大きな声で再び助けを求めるカノン。今度は少し離れたところから声が帰って来た。


「どうしたー?」

「お兄さん! い、いつまで入ってればいいの!? もう出て良い!?」

「手足の黒斑が消えたら出て良いと思うよー!」

「あっ! わ、わかりました!」


 簡単な判別方法に気付かされるとカノンはすぐに自らの手足を確認した。そこには黒斑どころかシミ一つなく、美しい肌があった。それを確認するやすぐにその場から陸へ向かう。


「ふぅ、ふぅ……こわかった……」


 陸に上がって周囲を確認するカノン。異様なまでに静かだ。風の音もない。しかし少し離れた場所には凶悪な魔物たちがいる。そんな場所に一人ぼっちでいるということが心細くなった彼女は声を手掛かりに村井の方へ駆けて行った。


「おにいさーん……どこですかー……?」

「何だ? どうかしたか?」


 村井は巨木のすぐ近くにいた。カノンに飲ませた水薬の容器に湖の水面から水を入れているようだった。彼を認めるとカノンはすぐに村井の方へと走り寄る。それを見て村井は言った。


「元気になったな。よかった」

「あ、ありがとうございます!」

「うん。帰るのはここで一日過ごしてからにする予定だから……流石に俺も限界が近いしね……ふぅ」


 そう言って息を吐く村井。カノンはずっと聞きたかったことがあったが、村井が疲れているのを見てそれを飲み込んだ。代わりに、彼女に何か出来ることはないか尋ねる。村井は少し考えた後に首を横に振った。


「今は休んでおいて。明日、また来た道を変えることになるから」

「はっ、はい!」


 元気よく返事をして身震いするカノン。冷たい水に身体を浸した後のため、仕方のないことだった。村井もそれを見てようやく気が付く。


「あぁ、服を乾かして体を温めないとな……ただ、火の魔術を使おうにも世界樹の近くだと掻き消される。少し待っていてくれるか?」

「はい。ごめんなさい……」

「気にしなくていいさ。寧ろ、気付かなくてごめん」


 そう言って村井は奇跡の水薬を集める作業を中断して少女を連れ、世界樹の結界の縁まで移動する。そこに収納魔術で薪を取り出すと魔術で火をおこし、服を乾かすために物干し台を拵え、服を干している間に身に纏うための毛布を置いて自身は奇跡の湖に戻って行った。残された少女は一人になって服を脱ぎ、水を絞ってから服を干した後、毛布にくるまって火を見ながら考える。


(どうして、あんなに必死になって助けてくれたんだろう……?)


 ずっと村井に訊きたかったことが頭の中を巡る。呪病に罹りぼんやりとしていた頭でも彼が必死になって自分を助けてくれていたことは覚えている。そこまでの縁はないはずだ。だが、事実として彼は自分を助けてくれた。


(……分からない。けど、恩返ししないと……)


 だが、どうやって? カノンには何もない。これからのことを考えると自分の力だけでは生きていくことすらままならないのを自覚していた。そこでふと気になるのが自分を助けてくれた男がこれから自分をどう扱うのか、だった。


(お兄さんは私をどうするつもりなんだろう……?)


 彼は自分を助けてくれる、呪病を治してくれるとは言ってくれていたがその後、どうするかについては何も言っていなかった。途端に不安になるカノン。またスラム街に戻るのだろうか。奴隷になるのだろうか。


(……どうせ奴隷にさせられるんだったら、お兄さんのところがいいな……)


 正直に言ってあまり冴えない顔をしているが、命の恩人だ。身を粉にして働くことになったとしてもモチベーションが違う。村井が戻ってきたらお願いしよう。彼女はそう思いながら久し振りに苦しくない眠りにつくのだった。



 その頃、世界樹の根本にいた村井は思案していた。


「……どうせここに来るならもっと魔封瓶を持って来たかったな」


 奇跡の水薬を採取しながら村井はそう呟く。六魔将筆頭にして今の魔王が生まれる以前より人々に恐れられた黒死王の最悪の呪い、呪病相手では分が悪かったがこの水薬の効果は絶大なものでどんな呪いや病でも立ちどころに治し、傷すら癒す。

 そんな奇跡の水薬が流通していないのには理由があった。まず一つはその周辺に危険な魔物や植物がいる事。そして二つ目に辺境にある事。三つ目に世界樹が流通することを望んでいないこと。最後に最大の理由として、この水薬の保管が極めて難しいことが挙げられる。

 この水薬を保管するには自然に還ろうとする世界樹の神聖な魔力を周囲に漏らさずに閉じ込めておく必要があるのだ。それにはエルフが作った魔封瓶が必要になるが、村井は件のそれを10本しか持っていなかった。


「はぁ。出来ればまた来たいが、この後は魔王軍が人類連合を押し込んでこの辺りは魔王軍の版図になるから地獄の様相になるんだよな……」


 今後のことを考えると村井からため息がこぼれる。この水薬は今後、採取難易度が跳ねあがるのだ。三年後、魔王が復活する。その前に段階的に結界が緩んでいくのだが、それに伴って魔族や魔物たちの力が増大する。そうなればこの辺りは魔王軍の支配下に置かれてしまうのだ。

 その際、奇跡の湖自体は世界樹の結界のお蔭で存続するが、結果として奇跡の湖によって形成される中央の強力な魔物たちに加えて、人類にその神秘の力が渡らないように魔王軍が外側を固めるという光と闇の布陣が出来てしまうことになる。

 ゲームでは原作とは時間軸が異なったりと原作にない要素が付け加えられたりしていたが、終盤になって主人公たちが強くなってから向かうことが出来る経験値稼ぎ兼回復薬集めのスポットになっていた。


「ホント、今の時期だからまだ入れたんだよな……カノンは運がいい」


 そう呟いて村井は奇跡の水薬の採取を終え、カノンの魔力を探知して彼女の下へと向かうのだった。

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