幕間3-1 理想と現実の狭間を埋めるもの
ゴールドムント=フォン・クロスバイドは荒れていた。先日、紙製の熱気球を飛ばして騎士に拘束されてから、ツイていない。
何かを企んだわけではない。ただ、新たな事業として見込みがあるのかを試しただけだ。それなのに、王城の騎士たちには無礼な態度を取られ、またたく間に、今後の取引が中止になってしまった。
罰金も痛い。ただ壁の一部が汚れただけなのに、法外な金額を請求されてしまった。
おかしい。こんな事は許されない、とゴールドムントは憤っていた。
世が世なら、あの無礼な騎士たちは自分に
こうなれば、ファーデン将軍のお力を借りて目にもの見せてやる。
ゴールドムントは、騎士に拘束されて尋問されたことも、その後に罰が与えられたことも全く不当で、すぐにでも不愉快な思いをさせた者たちへの仕返しをしなければならないと思っていた。
それがゴールドムントの認識であり、過去の
ゴールドムントは、およそ15年前までは、オクタの町の薬種商に過ぎなかった。旧貴族の末裔であり、家系自体は長く続いていたが、自慢できるのはそれくらいだった。町の規模に比例して商売の規模は小さく、扱う商品も風邪薬や虫下しなどの単価の低いものが殆どだった。
それが王家御用達の商会に成長する契機となったのは、ファーデンの部下という男が店を訪ねてきた時だった。
曰く、やんごとなきお方がこの店の娘を気に入った。ついては、代官屋敷に召し出したい、という要請だった。
それは命令ではなく、確かに要請だった。断っても問題はないとはっきり告げられた。
だが、ゴールドムントは一も二もなくその要請に従った。数年前に他界した両親から受け継いだクロスバイド商会は、安定した経営状況だったが、彼には不満だったからだ。
幼少の頃、彼は王都の教会で読み書き算術を習った。それは、少しでも高い水準の教育を受けさせ、次代の商会をより安泰にしたいという両親の願いからだったが、王都での毎日はゴールドムントにとって楽しいものではなかった。
単純に、友達が出来なかったのだ。後に司祭となる修道士見習いの少年だけは何かと気にかけてくれたが、それも友人と呼べるほどは親しくなかった。
成績は悪くなかった。むしろ良い方だった。だが、彼は親に黙って受験した官吏の登用試験に落ちた。
両親には、まだ学び足りないと言って、教会学校を修了した後も王都に残り、試験に挑戦した。
3度めの試験に不合格になったとき、業を煮やした両親の命令でオクタの町に戻ることになった。
ゴールドムントは、後一年あれば合格できると思っていたので、未練を残して王都を去っていった。
このことが彼の中では一種のコンプレックスになった。
結果的に不合格を繰り返したが、本来の能力は十分合格に値するはずだと考え、その理由を自分の出自と経済状況に求めた。
旧貴族の末裔である自分は、極めて優秀な人間のはずである。それが認められないのは、ただ、家が裕福でないからだ。もし自分が貴族と同等の教育を受けていたら、官吏の試験など受けずとも、相手から請われて顕職に就いていたはずなのだ。
そういう、理想と現実の乖離した日々を過ごす中で、直接名前を明かせない程のやんごとなきお方と伝手が出来る機会がやってきた。
きっかけは何でも良かった。一度、状況が良くなれば、自然と能力に見合った待遇が約束されるはずだと思っていた。
そして、それは成功した。
嫌がる妹のエミリアを半ば無理やり代官屋敷に送り、妹が戻ってきたのは翌朝だった。
それからも、数ヶ月おきに同じことが繰り返された。エミリアはその度に涙ながらに行きたくないと訴えたが、旧貴族たるクロスバイド家の栄達のためだと説得し、特には怒鳴りつけて従わせた。
エミリアは気の優しい女性だった。兄と違い、王都で学んだ経験はなかったが、商会を切り盛りするのに何ら能力は不足していなかった。なにより、人当たりがよかったので、上手く兄のフォローが出来ていた。
当時と、王都に移転してからのクロスバイド家の両方を知る者は、ゴールドムントの娘チャコミリスは、父ではなく叔母に似たのだと評している。
やがてエミリアは妊娠した。その頃には彼女を見初めたのが第二王子ヘルメスだということもゴールドムントは承知していた。
王子の祖父であり、守役でもあるファーデン元将軍とゴールドムントは昵懇の間柄になった。その口利きで少しずつ、軍や王城との取引ができるようになった。
エミリアとヘルメスの子供が生まれると、ゴールドムントは二人をオクタに残し、自分は王都へと商会を移した。
ゴールドムントにとって、凱旋であった。
◇◆◇◆◇
ミッドランド王国第二王子ヘルメス=デル・コルネリウスは、成人となった年に、初陣を飾った。今から19年前のことである。
王族の初陣である。それなりに派手な成果が必要だと、祖父で守役のファーデン=ガル・フォーサイス将軍は考えた。
そこで、当時戦争中だった共和国との最前線である、ある要塞での防衛任務を立案した。
王国の首脳陣とすれば、攻勢に出て万が一にも第二王子を失うわけにはいかないが、防衛任務なら危険も少ないだろうとこれを認めたのであるが、ファーデンの狙いは違っていた。
通常、2,000名前後の兵が詰めている要塞に、更に2,000の兵を引き連れて行き、逆侵攻を企てたのだ。
ヘルメスは、この時点で将来を嘱望される王子だった。ゆくゆくは、今のトリスタンと同じように、陰日向に王を補佐する役割が期待された。
頭脳は優秀で、家庭教師の誰もが舌を巻き、建国記をわずか7歳で諳んじてみせた程だった。その性格は温厚で、よく周囲の意見を聞き、武芸にも率先して励む姿に、父王のみならず、多くの人々から期待され、認められていた。
ただ、優柔不断であることが欠点ではあったが、それは経験を積めば慎重な判断力へと変化するだろうと思われていた。
大きな期待を背負ったヘルメスは、王族として確かな義務感を持って初陣を迎えた。
防衛任務だけでなく、その後の逆撃も望むところだった。大きな成果を出して、胸を張って王都に凱旋するのだと意気込んでいた。
だが、彼の意気込みは、戦争という現実の前では余りにも脆すぎた。
防衛は、難なく成功した。
要塞は要衝地であったが、その分防備にも力を入れられていて、相手も攻め落とすというよりも、できるだけの軍勢をここに留まらせて負担を強いるという戦略だったからである。
攻撃は通例のごとく散発的なものだったが、王国軍が打って出たときの相手砦の反撃は激烈なものだった。
ヘルメスは、敵の矢が届かない位置で指揮をとっていた。無論、その隣にはファーデンが控え、実質的な指揮官として指示を出している。
3,000の兵で攻め込んだミッドランド軍は、死傷者合計800名を超える被害を出して撤退した。
惨敗だった。
ファーデンは、自身の策の失敗を悟ったが、一番の問題は負けたことではなかった。
初めての戦場で、生きている人間が血を流し、そして問答無用で次々に死んでいく姿を見たヘルメスが錯乱してしまったのだ。
撤退の号令を発することすらなく、馬に乗って戦場から離脱してしまった。王族でなければ、敵前逃亡として裁かれる所業である。
だが、当初これはあまり心配されていなかった。
新兵が戦場の空気にあてられて、言動がおかしくなることは日常茶飯事だ。王族であることから、どう裁くかも考える必要はない。
しばらくすれば自力で乗り越えるだろうと誰もが思った。
ヘルメスは、要塞の一室で安静ということになった。
今回の敗戦で、共和国軍が攻勢を強める可能性はあったが、それを撃退すれば、王子の戦績に傷はつかないように誤魔化すことが出来る。
数日もすれば落ち着くだろうから、兵たちの激励でもしてもらえば十分だ。
ファーデン以下、要塞の上位者達はそう考えていた。
だが、ヘルメスの行動は彼らの想像からは外れていた。あろうことか、数名の従者だけを伴って要塞から脱走したのである。
ヘルメスは、要塞に近い町に逃げ込んだ。そこは、前線の兵士たちの為に出来たような新しい町で、こういうところにはお決まりの娼館が立ち並んでいた。
ファーデンが慌てて迎えに来るまでの数日間、ヘルメスは女に溺れた。
更に悪いことに、酔天草という麻薬の一種を覚えてしまった。
ファーデンはこれらのことを全力で隠蔽した。
要塞には影武者を立てて不在をごまかし、娼館の関係者は尽く処刑した。
だが、その隠蔽工作も虚しく、王都に戻ってからのヘルメスが人が変わったように塞ぎ込んでしまったことから、初陣の詳細が調査され、全容が発覚してしまった。唯一、酔天草のことだけは露見しなかった。
ヘルメスへの処罰は軽く、一年間の離宮での謹慎が告げられた。
これは父である王が、本人の行状を責めるより、自身の教育の至らなさを反省したためだった。
ヘルメスは謹慎中でも当初は酔天草を止められなかった。
酔天草の効能は、気分を高揚させるタイプのものだが、実は幻覚を見せるような強い効果も短期間の服用で顕著に現れる副作用もない。その代わり依存性は強力だった。
使用方法は簡単で、酔天草をしがいて、それを酒で取り込むだけである。匂いも少なく、隠れてこっそりとやるだけではバレにくい代物だった。
麻薬の力でハイになったヘルメスは、かねてよりの評価のおかげで、いよいよ気力を取り戻したと評されたくらいである。
だが、影響は確実に現れていた。まず、これまであったはずの義務感が消失した。次に、刹那的な享楽を求めるようになった。
そして、暴力的な傾向が見え隠れするようになった。
ヘルメスは、戦場で錯乱した。それは要するに暴力に恐怖したということである。彼は暴力から逃げようとした。
だが、寝ても覚めても彼の頭のどこかにはあの日の凄惨な光景が焼き付いて離れない。ファーデンに酔天草を禁止されてからはなおさらであった。
ヘルメスは暴力を憎んだ。だが、暴力について忘れることが出来なかった。結果、彼は暴力に魅入られた。
普段、彼の暴力性は表出しない。それは、理性が緩んだときだけに現れるからだ。
最もヘルメスの理性が緩むのは、女を抱いたときであった。
◇◆◇◆◇
ヘルメスの初陣後、ファーデンは将軍位を剥奪された。これは娼館の関係者を無残に殺したことへの処罰であり、ヘルメスの失態につながる敗戦の責任は問われなかった。
彼のフォーサイス家は軍内で上士という家格を有し、子爵家と同等の扱いをされているが、正確には貴族ではない。ミッドランド王国では、領地を統治する一族が貴族であり、官僚や職業軍人は貴族ではないとされている。貴族の出身者が軍や騎士団の要職を務めることはあっても、それで爵位が得られるわけではない。仮に貴族家の嫡男が騎士団での栄達を目指した場合は、貴族家の家督は別の者が継ぐことになる。
言うなれば、封建制としての建前であった。領地を安堵されることこそが貴族が王家に忠誠を誓う必須要件であり、逆に領地を得られなければ、爵位も持てないとされている。もっとも、ミドルネームに貴族と同じルールが採用されていたり、レオナルドのような無爵の貴族が存在するように、曖昧な部分の多い制度でもあった。
フォーサイス家は、そういう貴族ではない軍家の一つだった。ただし、ファーデンの曽祖父と父が出来人であり、戦争で華々しい功績を上げたことでそれぞれ将軍となり、軍家としては最上位の上士の家格に至った。通常であれば勤続年数とともに大隊長までは出世できる家柄として扱われ、功績を上げれば将軍位も射程に入る。なお、将軍位を得たものは家格に限らず伯爵相当の扱いになる。
その家格から、王の側室を排出することにも成功した。ファーデンは娘が王家に嫁いだ直後に、中隊長から大隊長へ昇進し、王子の成人に併せて将軍へと昇進したという経歴がある。
彼にとって、ヘルメス王子は掌中の玉であった。自身が王子の外戚であることが権力の源泉だったからだ。
絶対に守役だけは外されてはならないと、資産をつぎ込んで有力者に助力を頼み込んだ。なりふり構わぬその行動で、その守役の役職だけははなんとか確保することが出来た。
この点で、ファーデンの政治力は侮れないものがあったと言えるだろう。
ヘルメスの謹慎中にあっても、権力欲の衰えないファーデンは、逆転の一手としてヘルメスを公爵位につけることを目論んだ。
王国には公爵家が3家ある。これは、純粋な臣下ではなく、王家のバックアップとしての存在だ。事実上の臣下の最上位は侯爵位である。
日本で言えば、江戸幕府の御三卿に近い。王家の血統を保持するための家である。名目上の領地はあるが、実際の統治はしていない。できないようにされているとも言える。
だが、格式としては最上位であり、もし新しく公爵家を興すとなれば、人材の派遣などで、間違いなくフォーサイス家が中心となってしかるべきであった。
これは意外にも無理筋の話ではなかった。王弟トリスタンに公爵位をという話が過去にあったのだ。トリスタン自身による「これ以上の公爵家は不要」という意見によってそれは沙汰止みとなったが、一時期は可能性があった。
ファーデンの才覚だけでは軍内の出世に限界があった。これから彼の子供や孫以降の世代も、上士だからと将軍位に至れるとは限らない。
だったら、別家を立てて公爵家の筆頭家臣の地位を世襲しようというのが狙いだった。同時に本家が軍での影響力を保持できれば、権勢は揺るぎないものになりうる。
ファーデンはヘルメスがそれに足る存在だと、それが認められるほどの才人だと見込んでいた。初陣で無様な姿を見せ、以降は酒と女と麻薬に耽溺するようになってしまったが、まだ挽回が可能だと信じたのである。
謹慎中のヘルメスには、王の意向で新しく守役が追加されたが、ファーデンの得意技である、脅迫と懐柔でこれを抱き込むことに成功した。何より、ヘルメスが最も信頼していたのがファーデンであったことも大きい。
ファーデンは、苦労して酔天草断ちをさせ、万難を排してヘルメスの再起をお膳立てした。一年後の謹慎明けまで、都合のいい報告書を王宮に送り続けた。
誤算だったのは、王都に復帰したヘルメスがどうやっても目に入る騎士や兵士の姿に怯えてしまったことである。
体調不良と称して部屋から一歩も出ないことが多くなった。
やむなく、ファーデンはヘルメスの求めに応じて酔天草を与えるようになった。それさえ与えておけば、ヘルメスは、社交的になる。
ヘルメスが一向に反省も成長もしていないことが露見したら、ファーデンは責任を取らされて守役までも外されるかもしれない。そうなるとファーデンに再浮上の目はなかっただけに、苦渋の選択だった。
ファーデンはボロが出ないように、視察という名目で出来るだけヘルメスを外に連れ出した。むしろ、ヘルメスが塞ぎ込んでいる時にこそ、行く先々に女を用意して外出を勧めた。
エミリアはそういう意図で王子にあてがわれた女の一人であった。見初められたのではなく、生贄に供されたも同然である。
だが、ヘルメスは殊の外エミリアを気に入った。
オクタの町にヘルメスが足を運ぶのは、ほとんどヘルメスのリクエストによるものであった。
ファーデンにも利点があった。これまで酔天草の仕入れに四苦八苦していたのだが、エミリアの兄のゴールドムントがその役を引き受けたからである。
これには、思わぬ副産物があった。まとまった量の酔天草を軍に流すことで莫大な利益を上げられたのだ。
ヘルメスと同じように、戦場にショックを受ける新兵は一定数いる。だが、酔天草を噛ませて、戦場に送り込めば、あっけなく順応させることができた。
官費で麻薬を都合することは不可能であるので、購入は兵士の自費であったが、これも都合が良かった。
購入ルートは軍内にしかなく、しかも金が必要なので兵士を辞められない。無茶な命令でも喜んで従うようになって、軍の上層部でもある程度は目溢しをすることが暗黙の了解となった。
こうして、ファーデンは不祥事による将軍位の剥奪から数年で軍内の影響力を取り戻したのである。
大多数の人間には理想と現実の狭間にギャップが有る。
ヘルメスはその隙間を薬物と女性で埋めた。ゴールドムントは金銭で、またファーデンは権力で埋め合わせをした。
そのために数多の不幸を生み出したことは、三者ともまるで気にならなかった。
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