第57話 失敗と成功

 熱気球は、南東の風に揺られて、ゆっくりと動き始めた。


 この風だと、対岸に到着するころにはそれなりに北に流されるだろう。幸い、対岸の北側には障害になるようなものもないので、突風でも吹かなければ大丈夫だ。


「のんびりと進むのね。強度は上げておいたけど、浮かんでる時間は短いほうが望ましいわ」


 俺の傍にやってきたアリスが言う。まあ、設計者としてはそういう感想なんだろう。


「気球も縄も重量があるからな。引っ張るにも力がいるのだろうさ。対岸に近づくほど、早くなると思うけど、俺としてはこのぐらいの速度で十分だ。何よりも安全第一だ」


「そうです。レオ君の言うとおりです。急いては事を仕損じると言いますからね、これぐらいで丁度いいのです」


 モニカさんも寄ってきて俺に同意した。モニカさんがアリスを見る目は最初から変わっていない。厳しいままだ。


「そうだけど……。まあいいわ、静かに見届けましょう」


 こうして気球が浮かんでしまうと俺たちはただ見守るだけになる。


 急遽、布地を取り寄せたものだから、気球の色は不揃いなパッチワーク状だ。作っているときはいかにも急ごしらえな感じがしたものだが、こうして遠目で眺めると意外とカラフルで味がある。


 気になるのは、少し上側が北に傾いていること。

 多分上空の南風で気球部分が煽られ、バスケットは繋がれた縄が水流で南に流されているからだろう。今は危険な角度ではないが、強く風が吹くようなら、縄を切り離す判断もしなければならなくなる。

 どうかこのまま微風のままであってくれ。


 俺の内心の心配とは裏腹に、熱気球を見守る面々は誇らしげだ。多分世界初の熱気球だ。成功したら後日存分に自慢してくれ。


 傾きながらも風の調子は良いようで、気球は優雅にのんびりと進んでいく。


「次は俺が乗るかな」


 一往復できればとりあえずの安全性は確保できたと考えていいだろう。そうしたら、俺が乗り込んで向こう岸に行きたい。ウインチと浄水器の作業を指導したいし、災害救助だって災害大国の元日本人の知識で役に立てると思う。


「レオ君はダメよ。責任者で怪我人なんだから自重しなさい」


「でも、まとまった人数が送り込めない以上、少数精鋭で役に立つ人間が行かなきゃだよ。自慢じゃないけど多分俺が一番役に立てると思うんだ」


 モニカさんは反対の意見のようだが、いま騎士一人を送り込んだところで大した事はできないだろう。役には立つだろうが、所詮マンパワー一人分である。それだったら俺が、という気持ちがある。


「それでもダメ。向こうでやるべきことがあるなら、今から教えて。私が代わりにやるから」


「うーん、俺には殿下の短剣があるから命令出来るけど、モニカさんだと皆従ってくれないと思うよ」


「じゃあ、わたしが行くわ。オクタならわたしの素性を知っている者も多いし、多少は顔が利くわ」


「待て待て。アリスを勝手に送り込んだら王弟殿下に俺が叱られる。やはりここは俺が──」


 誰が次に向こうに渡るのかを言い争いをしていた俺たちを止めたのは、一人の騎士の焦った声だった。


「おい! あれは何だ!?」


 騎士の指差す方向、上空から水面に視線を移すと、河の上流側で一艘の舟が急流に揺られていた。

 大きさは6,7メートルと言ったところか。長細い一般的な舟で、多分渡し船とかで使われているやつだ。

 それに、数名の男が乗っている。


「多分、軍の救助部隊です。気球が飛び上がったのを見て、自分たちも決行したのではないでしょうか」


 傍らに寄ってきた先生がそう教えてくれた。


「手柄を取られるのが嫌で、ということですか?」


「可能性は高いと思いますよ。投石機の貸し出しでも相当渋っていたようですからね」


「そんな事を考える状況かねえ? それよりヤバいな。全然進めてないぞ」


 今は河が荒れている。しかも俺たちが今いる場所は河が緩やかにカーブしているその外側だ。つまり流れはややこちら岸に向かっている。

 もっと言えば、舟の舳先は向こう岸に向いていない。流れに沿って下流に向かっている。


 必死に櫓を漕いでいる様子が見えるが、努力は虚しく進めていない。このままこちら岸に漂着するのであればいいが……


「まずいな……。 投石機をもう一度準備してくれ! あの舟が転覆したら縄を飛ばして救助するぞ!」


 見るからに危うい。まさに木の葉のごとく流れに嬲られている。


 投石機は重しを積んだままなのですぐに発射準備が整えられる。


「予備の縄は数本ありますが、タイミングとしては一発勝負ですね」


 投石機はその図体のため、気軽には動かせないし、連射も出来ない。舟はまだだいぶ上流側にいるが、このまま川下に流されていってそこで転覆すれば手の出しようがない。


 そうしている間にも、渡し船はどんどん流されてくる。


 しかも位置がまずい。あの場所から流れていくと、こちら岸と気球を結んである縄にぶつかりかねない。

 こちらからは2本の縄が向こう岸に向かって伸びている形だ。1本は気球のバスケットに、もう1本はお祖母様に結ばれている。

 どちらかに絡まるようなことがあれば、特にお祖母様につないだ細いほうに強い力がかかれば、空中に投げ出されることだってありうる。


「諦めろ! こっちに向かって来い!」


 舟に向かってそう叫んでみるが、聞こえていないのか、無視したのか、漕手は必死に向こう岸に向かって櫂を振り回している。


 舟が、牽引用の縄の横をかすめるように通り過ぎる。


 ホッとしたのもつかの間、舟が河の途中にできていた堆積物の小山に激突して、大きく傾いた。

 その衝撃で突き上げられた兵士が河に投げ出される。二人は舟の縁にしがみついたが、残る一人の兵士は水中に落ちてしまった。


「救助開始だ! 投石機の用意はできているか?!」


「いつでも発射できます!」


 万が一にも熱気球の縄に絡まないように投石機の角度を河下側に向ける。


 縄は重いので、水に沈む。沈んだ縄をこの水の濁りきった状況で探してキャッチするのは不可能だろう。できるだけ、遭難者の目の前に縄を落とさねばならない。


「待て、まだだ……まだ早い。──今だ! 発射!」


「発射!」


「掴まれ! 縄を掴め!」


 その場にいた全員が大声を上げた。


 奇跡的に、水中に投げ出された遭難者は脇の下に縄を挟み込むような体勢で縄に引っかかった。舟にしがみついた二人は、縄に手を伸ばすことなく下流に流されていく。


「離すなよ! 皆! 縄を引け!」


 その場のほぼ全員が縄を掴んで引っ張り始めた。流れが急なのでこちら側に引き寄せるまでは叶わないが、兵士は振り子のような動きでこちら岸にたどり着いた。


「流された舟を追ってくれ! こちら側に流れ着くかもしれん!」


「すぐに向かいます!」


 騎士数名が、馬に乗り込んで舟を追いかけていった。


 さて、救助した1名であるが、だいぶ泥水を飲んでしまったようで、むせ返りながら水を吐いているが、気を失ったりはしていない。


 騎士団長に預けられた医者がすぐに駆け寄って、治療を開始するが、受け答えも出来ているようだし、生命に別状はなさそうだ。

 兵士はそのまま天幕テントに運ばれていった。


「一人しか助けられなかったか……」


「一人だけでも助けられたのですよ。よくやったと思います」


 先生が、俺の独り言を拾ってそう言ってくれた。確かに咄嗟にやれることは限られていたが……


「舟にしがみついていた残り2人もうまくすれば助かるかもしれません。レオ君、これは完全にあなたの責任ではないのですから、気に病まないようにして下さい。それに、あなたはここの責任者なのですから、反省は後にして気球を見守りましょう」


 そう……だな。今は熱気球の事を考えよう。


 対岸を見やると、高度の落ちてきた気球を力強く引く様子が見て取れた。


 そうだな、まだ災害救助は終わっていないんだ。出来なかったことを悔やむより、今はやれることだけに集中しよう。


 突如として起こった、人の生き死にの場面に静まり返る周囲を見渡す。針子達は青ざめているし、フランとチャコちゃんは母上に抱きついて震えている。それ以外の誰もが沈痛な表情だ。


「親方、そろそろ”巻取り機”の設置をしよう。直に熱気球があっちに到着しそうだ」


「お、おう。そうじゃな、突っ立っていても誰も得しねえや」


「それ以外の面々は、休憩にしてくれ。誰かお湯でも沸かしてくれないか?」


 金縛りが解けたように皆が動き出す。


 俺と親方は運んできたウインチを組み立てて設置し始める。ウインチは、釣りのリールを大きくした形だ。左右にハンドルが一つずつ付いていて、二人一組回してもらうことになる。


 杭で地面に固定するのは、親方と残った騎士がやってくれた。


 そこに縄の端をつなげば完成だ。これも本当はラチェット機構を付けたかったのだが、時間が足りなくて断念した。安全性に一抹の不安があるが、手で縄を引っ張るよりはマシだろう。


 ウインチの準備が終わったのと時を同じくして、熱気球が向こう岸に到着した。あちらの歓声がわずかに聞こえてくる。

 思ったほど北に流されなかったのは、南に向かって流れる川の流れに縄が引っ張られたからだろう。


「よーし! 熱気球が到着したようだぞ! 成功だ!」


 まだ、こちらに戻ってくるまでは安心できないのだが、先程のこともあるので敢えて明るい声を出した。

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