幕間1 アブラーモの誤算(後編)

「──ですので、侯爵様にお縋りするしか他に手はないかと」


「心得ておる。侯爵様とは縁談が進んでおるのでな、もはや親類も同然の間柄だからの。きっと快く応じてくださるだろう」


 恐怖あまり半ば失神したアブラーモは、翌日からキンドルを相手に対王弟の対策を練っていた。目を覚ました直後はパニック状態で、調度品を投げたり蹴ったりと忙しかったが、まだ侯爵を味方にすれば生き延びることが出来ると諭されて、少し落ち着いた。


 少し余裕ができると、アブラーモの楽観が始まる。


「危機感をお持ちくださいご当主様。侯爵様の機嫌一つで状況はガラリと変わるのですよ。いわば、唯一の助け綱です。決して離してはいけませんし、離させてもいけません。仮に侯爵様がなにかを望まれたら、一も二もなく従うのです。敵は王弟殿下ですよ。侯爵様にとっても軽い気持ちで立ち向かえる相手ではありません」


 そう言って、キンドルが楽観論を口にするアブラーモの思考を軌道修正する。キンドルの計画では、ここでレムリア侯爵こそが唯一の救い主であると思い込ませなければならないのだ。


「し、しかしだな。侯爵様ともあろうお方がそのような無体な真似をされるだろうか。きっと、儂のことを案じて手を差し伸べてくださるに違いない」


 きっと、多分、そうに違いない、とアブラーモの現実逃避の色を大いに含んだ希望的観測が続く。彼にとっては、そう信じることが希望なのだ。例えそれが目の前の義父にコントロールされた感情であろうとも。


「侯爵様ご自身はそうかもしれません。しかし、大領を治めるお方ですので、何かしらの見返りがなくば、臣下たちに示しがつかないということもあるでしょう。つまり助けたくとも助けられない状況になることだってありえます。もし、侯爵様が強引にご当主様をお助けになっても、その後はどうなりますか。派閥の重鎮たちに睨まれては危険が続くだけです。やはりここは、油断をせず、慎重に行動しましょう」


「何度も言わずとも、理解しておる。だが、あまりに悲観的になるのも考えものだぞ。儂は貴族家の当主なのだ。いつだって威風堂々としているべきなのだ」


「死にたいのですか! 今この瞬間にも刺客がどこかに潜んでいてもおかしくないのですぞ! 失礼を承知で申し上げます。身の安全が確保できるまで、この屋敷を出てはなりません。なるべく部屋にこもっているべきです。窓にも近づいてはいけません。食事もワインも、私かジャバのいずれかが運んだもののみを口にしてください。現時点では、まだ侯爵様の救いは決定していないのですから」


 暗殺への恐怖を改めて強調するキンドル。

 ジャバというのは、セバスの後任の執事だ。キンドルの推薦で執事補として働いていたが、この度晴れて執事に昇進した。アブラーモが酒を求めればくどくどと小言を垂れることもなくグラスと共に差し出し、目を付けた女が居れば、手を回して寝所に送り込んだりもしてくれる、屋敷内で最も信頼している男でもある。


「そ、そうか。油断はいかんな。儂としては、刺客など何するものぞという気持ちがあるのだが、お前がそこまでいうなら受け入れよう。決して恐れているわけではないがな!」


 判断力の低下しているアブラーモは、すんなりと暗殺者が送り込まれることを信じてしまう。拭い難い恐怖を虚勢で押しつぶして、なんとか精神の均衡を保っている有様だ。


「そうです。侯爵様と話がつく時まで決して油断してはなりません。なに、そう長い間のことではありません。今はただ耐えるのです。かの建国王のように、遠からず反撃のときはやってきます。それまでの辛抱です。侯爵様さえ味方にできれば、ご当主様の立場も安泰です」


 暗殺への恐怖を煽ったその口で、偉人を引き合いに出して将来への希望を抱かせる。この場において、キンドルは何一つ具体的な案は出していない。ひたすらに侯爵が救世主であり、この場を凌げばすべてが上手くいくような誤解を植え付けていくのみである。


 アブラーモの酒浸りの日々がこうして再開された。飲まなければいられない。飲めば良い気分になれる。時折キンドルが献上する娼婦もアブラーモの思考力を奪っていった。



 そういう逃避以外の何物でもない日が続いたあとで、待ちに待った侯爵家の使いがアブラーモを訪ねてやって来た。レムリア侯爵の従者と名乗った50絡みのその男は、アブラーモがまともな服に着替えるまでの間、キンドルと談笑していた。


「塩梅はいかがですかな、キンドル殿」


「いい感じに煮詰まっておりますよ、テッセングラート殿。今なら侯爵閣下のことを神のごとく崇めるでしょう。私も苦労しましたが、どうにかここまでこぎ着けました。ですので、上々の首尾に終わった際には、かねてよりのお約束を果たしていただきたく」


 キンドルにはレムリア侯爵家との密約があった。シルバードーン家の乗っ取りを手伝い、それが成った場合には、侯爵家の御用商人の一人に指名されるというものだ。零細の男爵家から侯爵家への鞍替えを目論んだこの仕掛けは、拍子抜けするほど順調にことが進んでいる。


「ええ、ええ。私から主に口添えをしておきましょう。ただし、それも今日の話し合いの成否によりますが」


「ごもっともです。なに、やつはよく吠えるだけの小心者です。ちょっと脅せばすぐに化けの皮が剥がれるでしょう。どの程度追い込むかは、テッセングラート殿のご随意に」


「いかにも小物ですな。交渉の場で笑いだしてしまったらどうしましょうかな。キンドル殿、上手く取り繕ってくださいよ」


「善処しますが、私も笑い出しそうで、そこが心配です」


「それは困りますな」


 クツクツと2人が笑う。既に獲物は追い詰め、あとはどう捕まえるかという段階だ。すぐにトドメをさすか、最も効果的な場面まで泳がせておくか、考えるのはそれくらいである。



 アブラーモの着替えが済んだようなので、アブラーモにとっては命を賭けた、キンドルとテッセングラートにとっては育ててきた家畜を潰すような心持ちで交渉は始まった。


「はじめまして、ご当主様。私はオズワルド=ガル・レムリアの従者をしておりますテッセングラートという者です。こうしてお目にかかれたこと、大変に嬉しく思います」


「テッセングラートというのか。長くて気取った名前だがまあ良い。直答を許す。侯爵様へのお願いした例の件について、ここで返事を述べよ」


 従者というのは、例えるならば秘書だ。執事は使用人たちのトップで、実務的なこと一切を取り仕切るが、従者はよりプライベートな部分も含めて主人に仕える。シルバードーン家のような男爵家ならそのような立場の者を置くような余裕はないが、侯爵ともなれば必要な役職である。しかも、執事がある程度世襲制なのに対し、従者は主人の一存で登用されることが慣例化しており、日本の記憶を持つレオナルドならば側用人かよとツッコミを入れたくなるような立場である。つまり、見方によっては最も侯爵の信頼厚い者がこのテッセングラートという男であった。

 その従者を軽んじるようなことを言うアブラーモを目の当たりにして、これがいい年をした貴族の発言かとテッセングラートはいきなり辟易した。


「おや、私が使者ではご当主様は不満ですかな。だとしたら直ちにここを去りましょうか。主には交渉は不首尾であったと報告せざるを得ませんな」


「ご当主様! 態度を改めてください! ここにいるのは侯爵閣下の代理人ですぞ。軽んじるなどあってはなりません!」


「わ、儂は男爵とはいえ、貴族家の当主だぞ。従者よりも格がう、上のはずだ」


 どもりながらも身分の違いを盾に高圧的に出ようとするアブラーモ。これが彼の精一杯の交渉術だが、効果は皆無だ。


「無駄足でしたな。ごきげんよう、男爵殿。」


 踵を返して席を蹴ろうとするテッセングラートにキンドルが縋り付く。


「お待ち下さい! これは違うのです。そう、ご当主様の遊び心なのです! すこしでも親近感を出そうとした、冗談なのです!」


 苦しい、あまりにも苦しい言い訳に、テッセングラートが吹き出しそうになる。キンドルも同様だ。


「ぷっ……。あ、いや失礼。私は真面目さしか取り柄が無いものでしてな、場を和ませることにはお長けてりませんで。──そういうことであれば、ざっくばらんに交渉をはじめさせていただきましょう。もっとも、以降はご当主様にはご冗談は控えていただきたい。侯爵の代理人という立場上、見過ごせないものもありますのでな」


「はじめからそう言えば良い……」


 なおも不用意な発言をしそうなアブラーモをキンドルが制止して言葉を被せる。


「ありがとうございます! 侯爵閣下代理人様の寛大なお言葉に感謝します!」


(何様のつもりだ!)


 そっと聞こえないようにキンドルは悪態をつく。形式的なものはともかく、実質的には相手の方が権力を持っているのだ。


「テッセングラート殿を侯爵として扱ってください。死にたいのですか……!」


 アブラーモの耳元でキンドルが囁く。たかが従者と侮れば、即座に身の破滅だと思い知らせる。


「あ、ああ。失礼をしたな。笑って許してほしい。な、なにせ、侯爵様とは親類同然の間柄ゆえな、ちと戯れが過ぎた。あはっ、あはっは……」


 従前からキンドルに忠告されていたことを思い出し、アブラーモがしどろもどろに取り繕う。贔屓目に見ても取り繕えてはいないのだが。


「では、まずはご当主様のご令息のカスト様についてですが──」


 テッセングラートの口から語られたのは、アブラーモにとって青天の霹靂とも言うべきことだった。驚くべきことに、カストが伯爵令嬢に乱暴を働きかけたというのだ。

 アブラーモにとって一粒種のカストは、紛うことなき後継者であり、それに相応しい潜在能力を秘めていることに疑いを持っていない。肥満体も、ちょっと太りやすい体質故であるし、レベルの低すぎる環境で多少伸び悩んでいるだけだと思っていた。実際、定期的に届く手紙では、いかに周りが無能であるかが事細かに記されていた。


「ついては、カスト様は死罪とするべきという声が多いですな」


 アブラーモは叫び出したい気持ちをすんでのところで飲み込んだ。


「何かの間違いではないのか? 若さゆえに多少、ハメを外しただけであろう」


「ご当主様、私は先程ご冗談は控えていただきたいとお願いしたばかりですが、まさか本気でそう考えているのですか? 我々の調査が間違っていると?」


「そうではない! そうではないが……!」


 こういう恫喝まがいの交渉はテッセングラートの得意とするところだ。鋭い視線でアブラーモを睨みつけつつ、ちろりと唇をなめた。


「そうですなあ。発端はご当主様が嫡子を取り替えようとしたのでしたな。後先考えずにそれを実行して、侯爵様に泣きついてきたと。これはご当主様の失態ですな。

 次にカスト殿の件は言うまでもないでしょう。実子のことですから、これもご当主様が責任を取らねばなりません。婚約の話も当然白紙です。

 分かりますか、侯爵様があなたを助ける義理はないのです。ましてや、調査の真偽を疑うなど、侯爵様を怒らせたいのですか? 王弟殿下の面目を潰し、伯爵家に喧嘩を売って、更に侯爵様まで? 自殺願望でもあるのですか?」


 カストが伯爵令嬢を乱暴しかけたというのは、実は侯爵や伯爵の罠ではない。純粋にカストの劣情による犯行だった。本来は、もっと時間をおいてから、回りくどい罠を仕掛ける予定だったのだが、その必要すらなかった。


「ぐ……」


「だんまりですか。シルバードーン男爵家もここまでのようですな。平民に落ちた後、どれくらい生きていられるのでしょうなあ」


「死ぬ……? この儂が殺されるというのか?」


「むしろ、今この場で自裁してはどうでしょうかな? それならば伯爵家も納得できるでしょうし、侯爵様も仲裁しやすくなる」


 アブラーモにとって、今回の交渉は侯爵家に後ろ盾になってもらい、自分自身と家の安全を確保するためのものだった。それが、カストの問題からついには自裁にまで話が及んだ。あっという間に、アブラーモからまともな思考能力は消失した。死にたくない、平民に落ちたくないという感情が胸に渦巻いているだけだ。


「テッセングラート殿、いくらなんでもそれは話が過激すぎます。察するに、小役人ではなく、あなたがここまでやってきたということは、何らかの落とし所、その腹案がおありなのではないですか?」


 茫然自失のアブラーモをよそに、キンドルがシナリオを先に進める。


「まず何よりもご当主様に現実を認識して頂く必要があります。よろしいですか、私が申し上げたことは誇張ではありませんよ。それを肝に銘じてください」


「命の瀬戸際であること、重々承知しました。ご当主様もよろしいですな?」


 脅しが効きすぎたらしく、アブラーモからの返答はない。焦点の定まらない目でブツブツと何かを呟く。


「ご当主様っ!!」


 目を覚ませるためにキンドルがアブラーモを殴り飛ばした。椅子ごとひっくり返ったその姿が滑稽すぎて、テッセングラートはついに吹き出してしまった。


「ぷっく! ふはははは! もういいや。この男を殺そう。遺書などどうにでもなるからな、自裁という体裁を整えれば四方が丸く収まる。簡単で後腐れのない方法で終わらせよう」


 大貴族の従者という仮面を脱ぎ捨て、テッセングラートは嗜虐的な笑みを浮かべた。殺したら計画が狂うが、結果的に死んでも構わないと思っている。


「し、死にたくない! 助けてくれ!」


「貴族の当主様なんだろ? 喚くな見苦しい。潔く死ね!」


「ひぃ! いやだ、いやだ! 死にたくない!」


「死にたくないか。じゃあどうするんだ? どうやって不手際の落とし前をつけるんだ?」


「な、何でもします。だから命だけは……!」


 アブラーモは無様に四つん這いになり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でテッセングラートを見上げる。いかに虚栄心の塊と言えど、この場の上位者と認めざるを得なかった。


「ほう、何でもすると言ったな。では、これからお前が口にして良いのは『はい、テッセングラート様』だけだ。理解したか?」


「な! そんな!」


「『はい、テッセングラート様』だ! 脳みそ入ってねえのか、クソが!」


 テッセングラートの暴力がアブラーモを襲う。最初は自分の手足で殴る蹴るをしていたが満足できず、燭台を手にとって台座部分で繰り返し叩きつけた。


「正しく答えろ、ほれ」


「……はい、テッセングラートさま」


 ボロ雑巾のようにぼろぼろになったアブラーモが弱々しく答えた。


「よろしい。では、解決策を教えてやる。まず、カストは追放だ。たとえ野垂れ死んでも援助してはならん。次に、賠償金はルイージ伯爵家の言い値で払え。分割には応じてやるから感謝しろよ。それで、お前自身の身の振り方だが、もうしばらくは当主でいさせてやる。ただし、レムリア侯爵家から養子を受け入れろ。ここまでは理解できたか?」


「それでは、我がシルバードーンの血筋が!」


 口答えをした瞬間に燭台で殴りつけられた。額から血を流しながら床に転がる。


「何度も間違えんな! このまま殴り殺すぞ!!」


「……はい、テッセングラートさま」


「おい、その汚い顔を見せるな。額は床に擦り付けて、良いと言うまで頭を上げるな」


「……はい、テッセングラートさま」


 もぞもぞと動き、土下座の姿勢で固まるアブラーモ。


「最後に、別の仕事もしてもらうぞ。それを上手くこなせば、お前が当主でいられる期間も長くなるかもしれん。無論、失敗すれば死ぬ。というか俺が殺す。聞いてるか?」


「……はい、テッセングラートさま」


「なに、簡単な仕事だ。今この国にはエルフが来ている。そいつらの世話をしろ。エルフ共が目的を果たしてこの国を出ていくまで問題を起こさせるな。もし起こったらお前の責任で揉み消せ。決して侯爵様や他の家の名前を出すな。詳しいことは追って指示を出す。いいな?」


「……はい、テッセングラートさま」


 その言葉を最後に、アブラーモは土下座の姿勢のまま気絶した。


 それを見下ろす2人の男の顔は醜悪に歪んでいた。

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