幕間1 アブラーモの誤算(前編)
※三人称
「み、水をもってこい」
アブラーモは二日酔いで苦しんでいた。憎い連中がやっと屋敷を出ていくというのに、嘲笑いにも行けないほどぐったりとしている。
数日前、アブラーモは甥のレオナルドに廃嫡と追放を宣言した。癇に障る甥が情けなく取り乱し、翻意を懇願する姿を楽しみしていたが、相手はさして気にした様子もなく淡々と受け入れた。
もっと泣き喚き、床に頭を擦り付けるさまを見下ろして、頭を踏みつけようと思っていたのだ。
しかも、アデリーナを娶ると告げたときには、激昂して決闘まで挑まれた。そこでの醜態は屈辱で震えるほどだった。
その日以来、自室で飲んだくれているアブラーモはアルコールで曇った頭で考える。
(ふん、剣をとって戦うなど野蛮人のすることだ。儂の様な優雅な貴族には必要ないのだ。むしろ、決闘などと言い出したレオナルドはやはり貴族には相応しくない猿だ)
飲めば飲むほど気分が悪くなるのにグラスに伸びる手を止められない。
「水はまだかっ! とっとと持ってこい!」
廊下に向けて怒鳴り散らすと、ややあって古参のメイドが水を持ってきた。一緒にワインボトルも盆に乗せられている。
「遅いぞ! この無能者が!」
グラスを使用人に向けて投げつけるが、明後日の方向に飛んでいった。使用人は無言でテーブルに水とワインを置き、グラスを拾うと一礼して退室した。
アブラーモはその背中になお罵声を帯びせるが、自分でもなにを言っているのかよく分かっていなかった。
「まあいい。それよりも酒だ」
水を持ってこさせたにもかかわらず、アブラーモはまたもワインに手を伸ばした。
アブラーモの飲んでいるワインは『メザの夕焼け』という高級ワインだ。彼が領内の御用商人の娘と結婚した折に、義父となった商人に「貴族たるもの、一流の味を知るべき」という助言とともに贈られたのがこのワインだった。以来、アブラーモは貴族の嗜みと称して贅沢さを求めていった。息子のカストが酷い肥満体なのも、この思想が影響している。
兄のフィルミーノが存命だった頃は、その散財ぶりを度々咎められていたが、内心では兄をケチで優雅さの欠片もないと蔑んでいた。
それが劣等感の裏返しであることに思い至ることもなかった
(やはり、ワインは高級品でないとな。なにが分相応だ。安酒を飲む貴族こそ非難されるべきなのだ)
しかし、アブラーモは知らない。このワインには、悪酔いさせる効果を持つ草の絞り汁が入れられ、本来の味を損なっていることを。
およそ半数の使用人がレオナルドと共に屋敷を去るが、残った使用人たちでもアブラーモに従順な使用人は、ごく僅かだ。それぞれの事情により残らざるを得なかった彼らは、レオナルドたちが最後の数日間を穏やかに過ごせるようにと、このような真似をしでかしたのだ。そしてその企みは、完璧に成功していた。
「くたばれレオナルド。ざまあみろフィルミーノ……」
アブラーモは、半分以上溢しながら一気にグラスをあおり、テーブルに突っ伏した。止まらない吐き気の中で、彼はこれからのバラ色の日々を夢見た。
それからなお数日、アブラーモは酒盛りを続けていたが、ある手紙が届いたことで中断される。手紙の差出人は、アブラーモの母レティツィアからだった。
今回のレオナルドの対するやりようは決して許せるものではないことと、その抗議のためにレオナルドと共にシルバードーン領を退去する旨が書かれていた。また、今後はロッシーニ伯爵家を頼ることは罷りならんとも記されていた。
「何故だ……! 何故母上が儂ではなくレオナルドの味方をする!? 当主はこの儂だぞ。道理も分からんほど耄碌したか!」
アブラーモにとって、母は無条件で自分の味方であるものと思っていた。なぜなら、自分が当主であるからだ。親といえど最大の敬意をもって従うのが当たり前ではないか。ましてや、レオナルドはあの負け犬の遺児だ。肩入れするほうがおかしい。
しかし、アブラーモの自分本意な考えとはかけ離れた現実が突きつけられたことにより、早くも自分の立てた完璧なはずの計画が狂い始めていた。
ロッシーニ家は伯爵家である。シルバードーン家よりも爵位が高く、資産も貴族社会への影響力も桁違いに大きい。アブラーモの家督継承以降、自身の浪費と放漫経営が祟ってジリ貧の領地経営を幾度となく助けてもらっており、その借財も今ではかなりの額に上っている。これまでは、頭の一つも下げれば返済は猶予されたし、利息分は棒引きもされていた。
ロッシーニ家としては、称賛すべき働きをして命を落としたフィルミーノの長男が跡を継いだ時に困らぬように、との思いで行っていた援助であり、そういう意図もアブラーモに説明していたのだが、アブラーモにとっては、都合の良い金蔓としか理解できなかった。むしろ親戚なのだから当然の援助とすら思い込んでいた。例え、レオナルドを追放しようとも、同じく親族の一員で当主の自分を優遇するものと信じていたのだ。
それが今後は頼れないとなると困ったことになる。借金を返済するあてもない。
(クソっ! ロッシーニに頼るなだと!? そんなことになれば我男爵家はどうなるのだ。──いや、今後はレムリア侯爵家を頼ればいいのだ。むしろ良い機会だ、借金も踏み倒せばいい。侯爵派閥になるのだ、奴らも強く出てはこれまい。思えば、カストにレムリア家の息女を貰うとは我ながら素晴らしい一手よ。これで王弟さえ死んでしまえば、後顧の憂いもない)
「くっくく! これからよ! これからが儂の栄光の日々の始まりよ! 儂を称えよ! シルバードーン男爵家当主アブラーモ=ガル・シルバードーンを褒め称えよ!!」
悪くなる状況の中、都合の良い未来を思い描いてアブラーモは高らかに笑った。彼の視点において、この日が人生の絶頂期だった。
綻びを感じたのは、義父であるキンドル=エコーが慌てた様子でアブラーモを訪ねてきた時だった。
「ご当主様、大変です。王弟殿下が、殿下が……。ゴホッ、ゴホッ」
走ってきたキンドルは、生き絶え絶えで咽ていたが、アブラーモに水を飲ませる気遣いなどはない。労う素振りもなく先を促した。
「どうした!? ついに死んだか!?」
「はー、ふー。ご、ご当主様、王弟殿下が体調を取り戻されました。ですから早まって計画を実行しないようにと夜通し駆けて参りました」
「なに、馬鹿な! すぐにでも死にそうだと言ったのはお前ではないか!」
確かに、王弟の体調不良の知らせをもたらしたのは、ここにいるキンドルだった。だが、キンドルは今すぐに死にそうだとは報告していない。ただ、そう
『殿下は最近どうも表に出来ませんな。元々お体の強い方でなないのでしょう』
『私のような者にまでお体が優れないことが伝わるとは、もしや……』
『ご当主様の念願が叶うのも思ったよりも近いのかもしれませぬな』
『この領のことがすべてご当主様の思いのままとなるのが待ち遠しいです』
と、アブラーモの妄想癖を刺激するような言い方をして、あえて誤解をさせた。ただし、一言も重篤な状態などとは言っていない。
「わ、私は、病状が優れないとお伝えしたのみです。それよりも! 例の計画は中止です。今動いてはいけませんぞ」
アブラーモの顔色が音が聞こえてきそうなほどの速さで青くなっていく。それを見たキンドルは口角が上がるの隠すために口に手をやって「まさか…」と白々しくうろたえてみせた。
「実行してしまったのですか、ご当主様……」
「またとない好機だったのだ……。儂が本当の当主になるためにもう何年も我慢してきたのだ……」
「ああ、おしまいだ。アブラーモ様
力なく不吉なことをいうキンドルにアブラーモが震えながら話しかける。
「どうすればよいのだ。どうすればよいというのだ?! キンドル! お前の責任だぞ! なんとかしろ!」
言葉は強いが語気は弱い。ふらふらとクローゼットに歩み寄り、ここ最近手放せなくなったワインを取り出して、樽の注ぎ口から直接飲んだ。
「自暴自棄になってはいけません、ご当主様。なにか善後策を考えませんと。──そうだ。レオナルド様を呼び戻しましょう。頭を下げて無かったことにしてもらうのです。王弟殿下に知られなければ、まだどうにかなります」
「レオナルドに頭を下げるだと……」
アブラーモの脳裏に廃嫡と追放を宣言した日の屈辱がよぎる。執拗に謝罪を求めてきたレオナルドの顔のなんと憎たらしかったことよ。
「誰が……、誰が謝罪なぞするか! 儂は男爵家当主なるぞ! そのような真似が出来るか!」
「では、どうされるというのですか」
「それをお前に考えろと言っているのだ。手段は問わぬ。どうにかしろ。このままでは強制的に隠居させられてしまうのだぞ!」
「強制隠居ですと? 甘いことを」
「いいですか、ご当主様は恐れおおくも王族の面子を汚した、いや踏みにじったのです。そのような温い処罰では収まりませんぞ」
「隠居が甘いだと……? ではどうなるというのだ……」
「殺されますよ」
アブラーモは絶句した。
もし、アブラーモが王弟と面識があり、その人となりを知っていたならば、暗殺というリスクの高い手段を取るような性格ではないことも分かっただろう。しかし、アブラーモは気に入らないという理由だけで王弟との関係をおろそかにしてきた。だから、信頼するキンドルの言葉を信じてしまった。
(いつものことだが、なんと扱いやすい男か。願望だけが肥大して、正しく現実を見ることも出来ないとはな。このまま、こちらの筋書きどおりに最後まで踊ってもらうぞ)
これから始まるアブラーモとその一族による喜劇に内心でほくそ笑みながら、キンドルは心底困ったような顔をした。
アブラーモは、ワインを抱いたまま気を失うように眠った。
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