掻揚そば

増田朋美

掻揚そば

掻揚そば

今日はあちらこちらで卒業式というものが開かれる日であった。小学校、中学校、最近増えている私立高校、大学、その他いろんな学校が、卒業式の看板を校門の前に置いている。制服がある学校の生徒であれば、みんなそれをきちんと着こなして、ない場合は着物に女袴をはいたり、あるいはスーツ着たり、そんな恰好をした女性たちが、町の中のいたるところを歩いているのだった。

「今日は、皆着飾って、何だか楽しそうだな。卒業式というより、街中でファッションショーをしているように見えるよ。」

駅員に手伝ってもらって、電車を降りながら、杉ちゃんは、にこやかに言った。

「まあそうですねえ。皆きっと都会へ出てしまうんでしょうけど、富士市を忘れないでいてほしいなあ。」

駅員は、杉ちゃんにそういった。

「でも、卒業ということは、そのうち新しい奴らも来るさ。学校がつぶれない限り、ずっと新しい奴がやってくるよ。」

「そうだねえ杉ちゃん。少子化とは言っても、学校は生徒を連れてきてくれるかな。」

杉ちゃんに言われて、駅員はちょっとため息をついた。

「じゃあ、悪いな。又電車乗るときに手伝ってくれや。それにしてもこの駅、便利な駅になったね。上り線と下り線を、いちいち階段を下りて乗り換えってしなくてよくなったんだもんなあ。」

と、杉ちゃんは笑いながら、エレベーターまで車いすを操作して移動した。と言っても改装されたばかりの駅なので、なかなかエレベーターを見つけられなかった。すると、下り列車のホームに、ひとりの女性が立っていたので、

「ちょうどいいや。彼女に聞いてみよう。」

と、杉ちゃんは、車いすの向きを変えた。

「おい、お前さん、一寸教えてもらいたいんだけどさ。」

杉ちゃんは彼女に声をかけた。彼女はぎょっとして、杉ちゃんの方を見た。まださほど年でない女性であったが、何か重大なことが在ったような、そんな雰囲気を持っている女性である。顔つきだけでは、学生なのかそれとも社会人なのか判断できなかった。其れともそのどちらにも属さない女性かもしれなかった。

「おい、お前さん、一寸聞きたいが、エレベーターはどこにあるんだ?改札階へ行きたいんだけどさ、一寸教えてもらいたいんだけど?」

杉ちゃんはもう一回聞くと、

「エレベーターなら、ホームの一番手前にあります。ホームを直進してください。」

と、彼女はぼそりと答えた。

「そうか。ホームをまっすぐ行けばいいのか。助かったよ、ありがとう。序に、エレベーターのボタンを押してもらえないかな?最近のエレベーターは、ボタンを押しても、長くドアが開いててくれないのよ。」

杉ちゃんに言われて、彼女は何をするつもりなんだという顔をして杉ちゃんを見た。

「僕は別に悪いことをしているつもりはないよ。ただ、改札をしたいので、そこへ行きたいのだが、歩けないので手伝ってくれと言ってるだけだ。それ以外何も言うことはない。まあ、確かに最近は知らないやつから声をかけられても応じるなという教えがあるようだが、もし、それに乗じているんだったら、お礼をする用意もしてある。」

杉ちゃんにそういわれると、彼女はそうですかとだけ言った。じゃあ、こっちへ来てくださいとだけ言って、杉ちゃんより先に立って、エレベーターまで案内した。

「じゃあ、押しますから、エレベーターに乗ってくださいね。」

「おう、悪いなあ。ついでに、エレベーターの中に乗ってもらって、出るとき開くボタンを押していてもらえないだろうか?」

杉ちゃんはまたお願いをした。女性は、今日は仕方ない、あきらめようという顔をしてわかりましたと言った。そして、エレベーターに到着する。約束通り彼女はエレベーターの上るボタンを押した。そうすると、ドアが直ぐに開いた。杉ちゃんは急いで乗り込もうとするが、確かに誰かが開くボタンを押し続けていなければ、エレベーターは、自動でしまってしまうのではないかと思われた。なのでエレベーターのボタンは押し続けなければならなかった。それによって、杉ちゃんと一緒にエレベーターに乗り込むことに成功する。数分後にエレベーターが改札階で止まると、彼女は開くボタンを押し続けて、杉ちゃんがエレベーターを出るのを待った。

「どうもありがとうな。お礼を払うから、お前さんも一度エレベーターから出てくれないか。まあ、お前さんにしてみりゃあ、ただのあぶく銭かもしれないが、一応な、僕たちみたいな奴には、必要なことでもあるからね。」

と、杉ちゃんに言われて、彼女はエレベーターを出た。

「お前さんの名前なんて言うんだ?僕は影山杉三だ。杉ちゃんって呼んでね。」

杉ちゃんにそう聞かれて、彼女はもう答えないわけにはいかないと思った。

「はい、私の名前は、土谷千代と申します。」

とりあえず正式な名前を言っておく。

「了解。じゃあ、今日のお礼で、これで好きなもん食べてくれ。」

杉ちゃんは、車いすのポケットから財布を取り出して、一万円札を千代に渡した。

「そんな、こんな大金、いただけません。ただ、私は、エレベーターに乗り降りするのを手つだっただけの事で、それだけの事で、こんな大金をもらう筋合いはありません。」

千代が思わずそういうと、

「そうなんだけどね。其れだけの事で解決してくれる人は、本当に少ないんだよな。みんなこういう風に大金払わないと、障碍者のくせに、生意気な態度をとるなとか、そういうこと言うんだよな。お前さんだって、そう思ってるだろ?顔に描いてあるよ。だからちゃんと、受け取ってくれ。」

杉ちゃんはそういうのであった。

「私、そんなこと、思っていません。障碍のある人だって、普通に駅に出てどうのってことはあると思うし。そんな簡単なことで、こんな大金をもらうなんてしたくありません。」

千代は、自分の思っていることを正直に言ったつもりであったが、

「いやあ、無理しなくていいよ。大体、五体満足な奴らってのは、自分の事しか考えられないことが多いのよ。だから、こういう風にできないやつはできるやつに礼をしなきゃね。お前さんは今はそう思っているのかもしれないが、以前はそう思ってなかったんじゃないか?五体満足で、人生順風満帆に生きてきたやつってのはな大体、僕たちみたいなやつと、どう接していいかなんて知らないからな。」

と、杉ちゃんに自分の経歴をばれてしまったようで、もう駄目かとおもった。

「それに、お前さんは、僕が声かけなかったら、電車に飛び込んで死ぬつもりだったんじゃないのか。僕、おかしいと思ったんだよ。電車に乗ろうとも降りようともしないで、駅で呆然と立ってるなんて、大体そういうやつだもん。」

「そうですか。もう私の事は、ばれてしまっているみたいですね。」

千代は、杉ちゃんに全部見透かされているんだと思って、大きなため息をついた。

「えーと、土谷千代さんね。まあ、全部は話さなくてもいいけどさ、僕みたいなバカな奴でよければ、御礼にお前さんの話を聞かせてもらおうかな。別に、なんか資格のある人間でもないけどさ。ちょっと、話してみれば、何か変わるかもしれないぜ。」

もう、話すことなんてないのになと千代は思った。これまでの事は、お医者さんにだって、家族が進めてくれた、精神関連の施設のひとにだってさんざん言ったはずだ。答えなんてどうせ、同じことに決まっている。運命を受け入れようとか、もう仕方ないことだとあきらめようとか、あるいは、新しいことを始めようとか、そういうアドバイスははっきり言ってうんざりなのだった。そうではなくて、もっと違う事。自分のしてきたことを、つらかったねと一言言ってくれる人が居てくれればいいのだが、もうそんな人などどこにもいないことも、千代は知っていた。

「まあ、お前さんも、何か相談したかもしれないけどさ、僕みたいな足の悪い奴は、何か相手のひとに役立つようなことをしないと、申し訳ないっていうか、気が済まないところもあるんだよ。」

杉ちゃんにそういわれて、千代は、そうかとおもった。杉ちゃんのような人であれば、又違う答えが得られるかもしれなかった。

「じゃあ、駅近くの蕎麦屋さんで、お話ししましょうか。」

千代は、杉ちゃんと一緒に、駅の構内にある蕎麦屋に入ることにした。ちょうどお昼時らしく、何人か客がいたが、幸い奥の席が一つ空いていた。ウエイトレスに案内されて、二人はその席に座った。

「ご注文、お決まりになりましたら、お伝えください。」

ウエイトレスは、二人に水を渡して、厨房に戻っていった。

「なあ、御願いなんだけどさ、これ、読んでみてくれるか?僕は、読み書きができないんだよ。」

杉ちゃんにそういわれて、千代はさらにびっくりした。そんなことをお願いしてくるなんて、よほど重い障害があるのだろうか?それとも、貧しくて学校に行けなかったとか、そういうことだろうか?

それでも、この人には、そうしてあげなければだめだとおもった千代は、メニューに書いてあるそばの名前を読み上げた。もりそば、かけそば、山菜そば、てんぷらそば、そばというものだけをとっても、なんでこんなに種類があるんだろうと思いながら。

「よし、てんぷらそばをいただこう。」

と、杉ちゃんが言うと、

「私は、掻揚そばでいいわ。」

と、千代はすぐに決めてしまった。急いでウエイトレスを呼んで、天ぷらそばと掻揚そばを注文した。

「それで、お前さんはなんで、電車に飛び込んで自殺しようと思ったわけ?初めからちゃんと理由を聞かせてくれ。単に世の中が嫌になったとかそういうことじゃだめだぞ。そういうことを成文化して、ちゃんと話してみないと、次の段階には進めないからな。」

杉ちゃんが聞くと、千代はちょっと恥ずかしそうな顔をして、

「始めはそう、私、音楽学校に行くつもりだったの。」

といった。

「はあ、それだけの事で、電車に飛び込もうとするはずはないだろ?」

と、杉ちゃんに言われて、千代は、

「ええ。そのつもりだったわ。高校入ってから、音楽学校の先生にピアノを習い始めたの。」

と答えた。

「そうなんだね。それで、なんで自殺しようと思ったわけ?」

杉ちゃんは改めて聞いてくる。千代は、この人は、上から目線のような、そういう威圧的なところが無いことに気が付いた。医者とか、カウンセラーとかそういう人は、「私があなたを診てやっている」という感じがすごくして話したくなくなってしまうこともよくあって、千代はそれが嫌いだったのだ。そして、そういう態度で聞いてきて、甘えるなとか、命を大切にしろとか、そういう事を言う。しかし、目の前にいる杉ちゃんは、言葉は確かに乱暴であるが、そのようなところが何もないので、千代は、彼になら、話してもいいかなと思った。

「その先生は、音楽学校に行くんだったら、実績をつくらないとだめだと言って、私によくコンクールに出場することを求めてきたんです。私も、その通りにしなきゃいけないと思ったので、ピアノのコンクールに出場しました。この季節私は、花粉症があって、いつも薬を飲んでいるのですが、コンクール本場の日に、緊張しすぎたのかなんだかわからないけど、薬を飲み忘れて会場に行ってしまって。」

千代は、恐る恐る杉ちゃんに話した。杉ちゃんは笑顔のまんまだった。

「それで、演奏本番の時に、舞台の上でものすごく大きなくしゃみをして、本番で失格になってしまったんです。それで私は本選に出場できませんでした。その事を先生に報告したら、先生がくるりと態度を変えてしまって。」

「はあ、どういう風に変わったの?」

杉ちゃんに聞かれて千代は、話したくない顔をした。

「話したくないとか、そういうことはダメだぜ。ちゃんと、何が在ったのか、話せるようにならないといかん。世のなか、自分に何が在ったかなんて、自分以外は知らないんだからな。其れを話せるようにならなけりゃ、援助者だって、援助できないだろうがよ。」

「そうね。確かにその通りかもしれない。その時から、先生の態度がすごく変わったんです。レッスンに言っても、ぶっきらぼうな返事しかしなくなったり、私の事をだめだとか、もう見込みはないとか、そういうことを言うようになって。私、先生にどうしてなのか理由を聞いてみたのですが、そうしたら先生は、私の顔に泥を塗ったからだと、私に言ったんです、、、。」

杉ちゃんにそういわれて千代は、一番言い辛かったこの部分を言った。言うだけでもつらくなる、非常にきつい作業だった。それを言うことだってなかなかできず、今までは鬱の症状として表現すするしかできなかった。

「そうかそうか、いってくれてありがとう。まあ、きっとその先生だって、自分の事をえらい奴だと思い込んでいた、いわゆる阿羅漢みたいなものだったんだと思うよ。本当に、阿羅漢というと扱いに困るのよね。仏典にも、釈尊は、阿羅漢をどう動かすかさんざん悩んだと書かれているらしいよ。」

と、杉ちゃんはにこやかに言った。そういう宗教的なものも、千代はあまり好きではなかったが、今回のたとえは、そうかもしれないと思った。

「まあ、先生と呼ばれる奴は、日ごろから先生と言われて、尊敬の目で見られるから、いつの間にか自分がえらいと思い込んでしまうんだろうな。これを、仏典では阿羅漢化するというらしい。そうなると、阿羅漢から脱出し真人間に戻れる奴のほうが少ないんだって。世のなかなんて、そういう阿羅漢ばっかだよ。まあ、お前さんは、そういう阿羅漢に騙されちまったということだな。」

杉ちゃんの話はよくわからないけれど、確かに先生は偉ぶっていたのかもしれないと千代は思った。先生の話は絶対的だと家族も言っていたけれど、もしかしたら、そうではなかったのだろうか。

「いずれにしても、阿羅漢の話は、役に立つことはありません。言ってみれば百害あって一利なしだ。とにかくな、そういう事で、阿羅漢から逃がしてもらえたんだから、それでよかったじゃないか。もしもだよ、これでずっと阿羅漢に師事していたら、お前さんは、無理な修行を押し付けられて、体でも壊したかもしれないぜ。そうなったら元も子もないだろう。」

杉ちゃんにそういわれて、千代は涙が出てしまった。確かにそうなのかもしれない。あの先生についていたら、おかしくなったかもしれない。でも、そう考えることもできるのかもしれないが、なによりも、音楽学校への切符をなくしてしまったことが、千代は悔しかったのだ。

「失礼いたします。掻揚そばと、てんぷらそばでございます。」

ウエイトレスがやってきて、二人の前にどんぶりを置いた。

「いただきまあす!」

杉ちゃんはすぐにそばにかぶりついた。千代は、そばを食べる気になれなかった。それより、今までに封じ込めていた悔しさが一気にあふれてしまった気がした。

「ほら、食べろ。悩んでいるやつは腹が減っているんだ。思いっきり食べて、阿羅漢の事なんてどうでもいいことにしろよ。ああ、金なら心配いらないよ。ちゃんと払っていくから。」

杉ちゃんに言われて、千代は恐る恐るそばを口にする。

「まだ、いいたいことが在るんだったら、はっきり言っちまえよ。そばがあるから、もうちょっと和んで言えると思うけど。そばは場を和ませるぞ。」

千代は、この際だから言ってしまおうと思って、杉ちゃんに言った。

「私、先生に顔に泥を塗ったと言われた日に、もう私の人生は終わったんだと思って、睡眠剤大量に飲んで、自殺しようと思ったんです。でも、それはできなくて、三か月くらい入院して。その間に高校も退学になってました。私は、上級学校に行ける機会も、この世で生きていくこともできなくなったんです。どこも働けそうなところもないし、ただ、息をして生きているしかない。周りのひとからは、何をやっているんだしか言われない。だからもう死んでしまった方が、世の中のためだと思って、今日、電車に飛び込もうと思ったんですよ。」

「そういうことだったわけね。」

千代が一気にそういうと、杉ちゃんは言った。

「まあ、きっとお前さんには、何を言っても、お前さんの気持ちは変わらないだろうよ。僕自身もただのバカなので、アドバイスとかそういうことはできないしね。まあ、それはほんとに、非情な体験をしたもんだな。まあでもさ、人生って、そういうもんだよな。其れに、もう嫌だっていうやつも確かにいるけどさ、大事なことはな、それに、どう立ち向かって行くかを考えることじゃないのかな?」

「そうかもしれないけど、いくら打開策を考えたって、それが実現できそうな手段もないのよ!」

千代は、一寸怒りを込めてそういった。

「忘れろと言われても、どうしたらいいのかわからないし、気にするなと言われても、どうしたらいいのかわからないし、自分の人生は自分で決めろと言われても、どうしたらいいのかわからない。だったら、もう死んだほうが絶対にいいわ。」

「うーんそうだねえ。」

と、杉ちゃんは言った。

「確かにそうかもしれないな。世の中には、いないほうがいいっていうやつも、いるからな。」

「でしょ!私もその一人なのよ!生きていないほうが周りのみんなだって幸せになれるに決まってる!私は、初めから世の中にいるべきじゃなかったの!だから、そういうことだって弾き飛ばされたのよ。これでわかったでしょ。だったら、もういいじゃない。実行させてもらってもいいわよね。世の中からさようならしてもいいわよね?」

千代は、自分の顔を自分で見ることはできないほど、怒りの顔をして、杉ちゃんに言った。

「そうかもしれないね。ただ、お前さんは読み書きはできるよ。僕みたいに、エレベーターのボタンを押してもらわなくてもエレベーターに乗れるよ。其れを忘れないでもらえんだろうか。お前さんは、そういう事でいちいち相手に金を払う必要もねえんだ。」

「それが何だっていうの!」

「いやあね、僕みたいにできないやつは、出来る人に手伝ってもらわなきゃならない。それに対して、一生、申し訳ない気持ちで生きなきゃならないんだ。お前さんも社会に出れない苦しみを知っていると思うが、僕みたいに、出来るやつに金を払うってことはしなくてもいいんだな。それができれば、何とか人生観は変えられる。うらやましいよ。」

杉ちゃんは、そばを食べながらそういうことを言った。千代はそれを聞いて、涙をこぼすのをやめた。

「そうね。そういう風に考えていけばいいのかもしれないわね。」

目の前のそばが、大きな証人のように思えてきた。






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掻揚そば 増田朋美 @masubuchi4996

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