(一)
「本日の注意点をもう一度言う。心して聞いてください」
花が咲き乱れる薬草学院の夏庭の噴水前。集められた老庭師達は真顔の庭師代表の松本の話を聞いていた。
「午後。先帝と先女公がお見えになる際。庭のガイドは例年通り教頭が行います。しかし今回に至っては、ご覧になりたい庭を提示されていません」
植物愛好家の引退した帝とその妻。その二人の配慮に松本はすでに汗を拭きながら説明をしていた。これを新人の彼女は聞いていた。
「これって……どう言う意味ですか?」
最後尾で話を聞いていた結月は隣の橘にこっそり聞いた。車椅子の橘は真っ直ぐ前を見たまま結月に肩を合わせた。
「いつもの先帝の観賞会はね。この薬草が見たいって御指定があるんだよ。でも今回はそれがないって事」
「では。今回は何を見たいのかわからないんですね」
すると、必死に説明していた松本が二人を睨んだ。
「そこ!お喋りしないで聞け」
すいません、と結月は肩を竦めた。橘は知らぬ顔であったが。
ロイヤルファミリーの来校。植物研究をされている引退した先帝はこうしてたまに薬草学院にやってくると言う。失礼がないようにするため松本はしつこく注意を繰り返した。真面目な彼のくどい説明に庭師達は嫌気が指していた。
「いいですか?皆さん。とにかく。向こうから質問があれば私も対応します。決して一人で話しかけないように。以上!」
こうして話は済み、各自用意となった。
「ねえ、橘さん。こんなに警備をするくらいなら学校を休みにしたほうが楽だと思うんですけど」
「先帝はね。自分達のために無理されるのを嫌うんですよ」
「でも。ボディガードが大変そうですね」
学院は授業中。生徒達の長閑な声も聞こえていた中央の庭。夏の日差しに揺れる樹木の下。二人は広い庭の指定された位置に移動していた。
新人庭師の結月と車椅子の橘は戦力外。決して顔を出すなと釘を刺されている。
元薬草師が務める庭師。しかし結月に至っては学院長が雇った庭師、いわばアルバイトの身。このため王家に話をする資格なしということだった。そんな低評価であるが、今朝も彼女は緑の庭の道を嬉しそうに歩いていた。亜麻色の髪、白い肌。長身の細身の体はたおやかであるが強くも見えた。着ている服は地味な作業着。しかし彼女が着ると美しく見えるのが不思議であった。可愛い、美人というよりも綺麗な人、という印象の18歳である。
そんな彼女の隣の橘は薬草師時代の事故で車椅子の生活。足が不自由の彼は器用電動車椅子で移動していた。黒髪の長髪を束ね意地悪そうな顔の中に無邪気さが残っている青年である。彼は手助けを嫌う傾向にあるが、結月が車を押すのは偽善ではなく、むしろせっかちの彼女の勝手な行動と判断し、許している。
結月が来るまでは話し相手が年寄でうんざりしていたが、彼女が来るようになってちょっと仕事が楽しくなっており、笑顔が増えたことに気がついていないのだった。
花が揺れる庭の小道には警備員が配置されており、物々しい雰囲気である。その中を結月は橘と一緒に歩いていた。
「でも。橘さんも顔出すなって。なぜですか」
「聞くんですね。それを」
自分のような新人なら理解できるが、彼は問題があるとは思えない。結月見つめられた彼は車椅子のタイヤを動かすバーの手を止め、葉桜の向こうの遠い青空を見つめた。
「以前先帝が来た時に、お供の人が弟切草を踏んでめちゃめちゃにしたんですよ。僕はそれを許せなくて、つい相手をボコボコに」
「ボコボコって橘さんが?ちょっと信じられないんですけど」
口は悪いが穏やかな彼。ましてや車椅子の彼の話が結月は目を開いた。驚く結月に橘は不適な笑みを浮かべた。
「ふふふ。僕は怒るとちょっと自分で自分を抑えられないんですよ。君も覚えておいてください」
「私もそうですので。どうぞよろしく?」
こんな冗談で二人は笑った。そして葉が眩しい庭の小道を進んでいた。
「ええと。僕は庭番室で待機。結月さんは馬小屋か。本当にひどいな。棟梁は僕達を本気で外す勢いだ」
「棟梁は真面目ですから。でも私もしゃしゃり出るつもりないですけどね」
心配症な棟梁の松本は庭と縁遠い場所に二人を配置させた。そもそも。この鑑賞会を知った結月はこの日、休暇を取ろうとしたが、余計な気遣いを先帝の耳に入ると面倒だと松本に言われた。全員参加の形であるが実際は一部の者はこうして庭以外で待機であった。
やがて。各庭で手入れをして待つ仲間の老庭番達に手を振った二人は自分の配置場所に向かった。
馬小屋についた結月は愛馬オリオンの毛をブラシで解くことにした。
「オリオン……いい子ね。そう?気持ちいいの?」
動物の気持ちがわかる結月は楽しそうに他の馬の手入れもしていた。草を整理し、水を巻いて掃除をしていた。外では来訪者が来たようで騒がしい気配がしたが、全く興味のない結月は馬小屋で過ごしていた。
「こんにちは。ここは何かしら?」
「え?あの、ここは馬小屋です」
小柄な老女はキラキラした目で入ってきた。白髪の彼女は明らかに王族である。
……どうしてここに?!
しかも一人ぼっちの彼女は子供のようなキラキラした目で大きな馬を見上げていた。
「まあ?なんて大きいんでしょう?ねえ、この馬は農耕馬かしら?品種は?」
「ベルジャン種です。こちらはブルトン種になります」
「うわ?すごい!」
「あの、近づくのは危険ですから」
興奮している老女。結月は慌てて抱きしめて抑えた。こんな大きな馬に蹴られたら誰でも即死である。しかし、腕の中の老女はキョトンとしていた。
「そうなの?」
「はい。それよりもお供の方は?」
……いない。なぜなの?
ボデイガードもいないのはなぜなのか。結月としては不思議というのが本音である。まずは松本に連絡せねばと端末を持とうとしたが老女はうろうろして危険である。とにかく彼女を馬小屋から出そうと手を取った。
「奥様。外に出ましょう」
「まだ馬を見たいわ」
「あとでゆっくりご覧になれますよ、さあ」
どこか童心に返っている彼女。老人性の症状を結月は感じ取った。
……これを隠すために。あんなに接触するなと言う話だったのか。
「は、ハクション!」
この彼女のくしゃみ。結月は彼女が薄着だと気がついた。どこか肌寒そうな老女。王族と自分が話をし、さらに風邪までひかせてしまったら教頭や松本がうるさい。結月は自分の上着を脱ぎ彼女に着せた。これは優しさではなくトラブル回避のためである。
「これ。着ていいの?」
「はい。暖かいですよ」
老女は結月の作業着であるジャンパーの上着をしみじみと見つめた。
「『柊』あなた、柊さんなの?」
「はい」
「まあ?!」
結月に庭の椅子に座らせられた老女の顔はパッと明るくなった。
「紀香さん。貴女、紀香さんでしょう!」
嬉しそうに抱きつく老女に結月は困惑していた。
「ねえ、ねえ!」
「……奥様。紀香は母の名前です。私はその娘です」
「紀香さん。あの子の薬をお願いね。そろそろ時間のはずよ」
「あの子……」
話の通じない老女は袖を彼女の引っ張った。ここは警備員が来るまで付き合った方が安全と判断した結月は庭を一緒に歩き出した。老女は目的があるかのように強く歩いてた。
「奥様。どちらに行くのですか?」
「あの子の部屋よ……苦しそうにしているの。早く助けてあげてちょうだい」
「奥様、あの」
するとこの時、茂みからガードマン達がやってきた。屈強な黒服の男達はドーベルマンのように駆け寄って来た。これには思わず老女も立ち止まった。
「いたぞ。先女公!」
「こっちだ。庭番と一緒だ」
彼らも探していた様子。発見した事を仲間に連絡をしていた。老女はまだ結月と手を繋いでいた。彼女としてはそろそろ解放して欲しいところである。
「奥様。部下の方が見えましたよ」
「……紀香さんは行かないのですか?薬はどうするの。薬は」
あまりにも純粋な目。結月はどう断るか思案していると、松本の声がした。
「結月君!よかった、無事だったんだね」
「棟梁」
先女公が見当たらず、みんなで探していたと黒服の後ろから駆けてきた松本は上がった息を抑えていた。
「まさか馬小屋にいたなんて」
「報告が遅れてすいません。では、奥様。お手を」
しかし。老女は口を尖らせて離そうとしなかった。するとここに彼が部下を引き連れてやってきた。
「どうしたんだい?」
「あなた……紀香さんが薬をくれないのよ」
「紀香さん?……これはどう言うことかね」
先帝は静かに結月に向かった。眼光鋭い老齢の身体。少し痩せていたが背筋の通った雄々しい雰囲気。威厳があるその姿に結月は思わず息を呑んだ。そしてその背後から教頭が血相を変えて割ってきた。
「何をしておるのだ柊くん!あれほど顔を出すなと申したはずだ!あ?申し訳ございません!この者はまだ入ったばかりの物知らずでして。これ、柊君。早く手を離しなさい。そして君も謝るんだ!」
結月は謝る気など毛頭ない。が、この場を治めるためにはやむを得ないと頭を下げる気持ちでいた。しかし。先帝は静かに結月を見た。
「柊とは、まさか、柊博士の?」
「……あの、その」
博士とは祖父の事。話をしても良いがうるさい教頭の手前、自分は口を聞く権利がない。結月が面倒に思っていた時。教頭が二人の手を強引に解いた。
「ほら、早く離しなさい。先女公。ご無礼をお許しください。この娘はただの庭番でして」
しかし結月の傍らの老女はベソをかいていた。その目にはみるみる涙が溢れている。これを見た先帝は怒りを露わにした。
「君になど聞いてはいない。下がりたまえ!」
「ひい?!さあ、柊君、下がるんだ」
「下がるのは君だけだ。さあ、我が姫よ」
そう言って先帝は奥方に歩み寄り笑みを見せた。
「私のお姫様。向こうでお茶でも飲もうか。お嬢さんもどうか、ご一緒に」
先帝は結月にウィンクすると奥方を優しくエスコートし、薔薇が美しい庭のテーブルに座らせた。なぜ自分が?と戸惑うのは結月だけではなく、この場の全員がそう思っていた。これを払拭するかのように先帝は上着のない結月に自分のマフラーを貸してくれた。シルバーヘアで顔は若々しい先帝は黒服を遠巻きにさせ、自ら妻と庭番の娘に紅茶を淹れ始めた。監視されている結月は居心地が悪かった。
「どうぞ。こう見えても紅茶にはうるさいんだよ」
ティーポットを持つ手は鮮やかである。ここで遠慮するのも無理な話。結月は冷めないうちにカップを手に取った。
「はい、では、いただきます」
「お砂糖を入れなくちゃ……お砂糖を」
同じテーブルの先女公は砂糖を何倍も淹れてはかき混ぜていた。スプーンで混ぜる音は続く。彼女の遊びを見ながら先帝はぽつと語り出した。
「驚かせてすまないね。これでも彼女は今日は調子がいい方なんだ」
「そうですか。楽しそうで良かったです」
確かにそう思った結月は紅茶で楽しむ先女公に微笑んだ。結月の祖父もまた彼女と同じ病だった。慣れている結月に先帝は安心したかのように自身もカップを持った。
「ところで。君は柊君、と言うことは、柊植物園の関係者かね」
向かいに座る先帝はゆったりと話し出した。静かであるが重い口調。薔薇の薫る庭の背に結月は慎重に言葉を選んだ。
「はい。私は柊の孫で。紀香は母です」
「母……そうか」
彼は目を細めて愛妻を見つめた。
「昔の事だがね。私達は君達、薬草師に世話になった事があるんだよ」
先帝はそう言うと紅茶を飲んだ。結月の母は薬草師である。六芒国に行った事があってもおかしくない。しかし、一介の薬草師のことをそんなに覚えているのだろうか。結月は童心に戻っている傍の老女を見つめていた。
「そうですか。でも私は母の仕事をよく知りません」
「それもそうか?極秘任務だものね。ところで彼女は健在ですか」
「はい」
本当は違うが、彼女は口にしなかった。ここで先女公がまた歩き出そうとしたので、結月は立ち上がり付き添うとしたが、先帝はこれを部下に目で指示した。
「柊さんは良いんだ。君は好きに行っておいで」
先女公は返事をせず薔薇の咲くフェンスへ向かった。これは黒服のガードマンが付き添った。そして先帝は椅子に背もたれた。結月には疲れた顔に見えた。
「今日はね。ここに来れば少しは昔を思い出すかと思ってきたんだよ。最近は私のこともわからない調子でね」
あまりに寂しそうな横顔。憂いにふける顔が亡き祖父に見えた結月は、老齢の彼に良い情報を届けたくなった。
「先ほど奥様は、お子さんの話をされましたよ」
「子供?」
「はい、確か『あのみや』と」
この言葉。先帝の目の色が変わった。嬉しい、というよりも驚きそのものである。結月としては意外な反応である。
「亜の宮……あの子のことを」
「ええ。お薬がどうとか。思い出されたようですね」
結月の言葉。急に顔色が悪くなった先帝は、自らを落ち着かせるかのように片胸を抑えた。結月は驚きで彼に寄った。
「先帝?あの、いかがされたのですか。お付きの方、お願いします」
そばにいた部下が駆けつけた。しかし先帝は何でもないと椅子に座り直した。
「平気だよ、済まないね」
「先帝。そろそろお時間でございます」
若い部下に促され、彼はわかったとうなづいた。庭の風が強くなっていた。
「わかった。柊さん。ありがとう、楽しかったよ」
「こちらこそ、ありがとうございました。あの、このマフラーをお返しします」
慌ててグレーのマフラーを外そうとした結月に、先帝は手でこれを制した。通訳するようにそばの黒服が囁いた。
「先帝は貴女さまに差し上げるとおしゃっています。どうぞお受け取りください」
「ありがとうございます」
「柊さん。今日はありがとう。おかげで楽しいひとときでしたよ」
先帝は結月の手を握り、紳士の挨拶をし彼女を笑わせた。
やがて結月は頭を下げて場を離れた。そして松本や教頭とともに結月も先帝ら一行を見送ったのだった。
「姉さん。今日は大変だったんだよ」
「生徒会の集まりでしょう」
夜の柊邸。結局生徒会に入会した薬草学院一年の征志郎は風呂上りの濡れた髪のまま、キッチンにやってきた。結月は白のエプロンで料理中である。
「ねえ、これなに?」
「ハーブティーよ。ちょっと甘いかもね」
「いいよそれで」
彼はグラスに注ぐとごくごくと飲み干した。
「プハー!まずい?」
「ひどい」
「あはは、冗談だよ」
そう言って姉の頭を優しく撫でた彼は夕食のテーブルに着いた。
そして二人で食べ始めた。
祖父と暮らしていた結月は家事はなんでもこなす。家庭の食べ物は冷凍食品を温めるのが主流の昨今。柊邸では結月は常に振るう包丁の音がしていた。そもそも祖父と暮らしていたのは山奥の草原。自給自足に近い暮らしをしていた結月は自分が作る料理が一番おいしいと思っていた。本格的な料理ではないが、新鮮な素材そのものを味わうどちらかというとワイルド料理である。そんな結月の今夜は野菜たっぷりの餃子であった。これは征志郎の好物である。
「旨!?ねえ、これまだあるよね」
「ありますよ。気にせずどうぞ」
わーいと弟は箸を振るった。可愛い弟を彼女は見つめていた。
子供の頃は離れて育った弟は、今で彼女よりもたくましく大きい。それでもまだまだ甘えてくる征志郎は人に関心のない結月には唯一大切な人である。
その強力催眠術の能力のせいで結月は幼い頃から人の心が読める力を持っていた。偽善者、嘘つきはお見通し。このせいで結月は大人が嫌いな子供であった。森奥の柊植物園で祖父と育った彼女は人に会わずして育ったが、この力を危惧した祖父に結月は人に関心を持たぬように精神を鍛えられている。その副作用で人が困っていても、苦しんでいても。彼女は全く関心を持たずにいられる。これは非道であり人としてあり得ない事であるが、この無情が彼女の精神を保持させているのだった。
そんな結月は弟だけは別。征志郎には対してはその目を覗かなくてもなんでも分かるし彼の心を常に思っていた。
そして結局五十個食べた征志郎は苦しそうにソファで伸びていた。
「ところでさ。姉さん。俺さ、六芒戦に出ろって言われた」
「やっぱり。生徒会の役員が出場するのね」
くつろぎの時間。胃に優しいお茶を持ってきた結月は弟が座るソファの隣に座った。
「片桐さんはなんて?」
「優勝しなくていいから行けって」
「なんていい加減な……」
そう言いながら結月はリモコンを手に持った。そしてスクリーンに画像を映し出した。
「これはね。二年前の六芒戦よ。ええと。対戦校よ」
六つのエリアからなる六芒国。その地区を代表する高校が行う対抗戦を六芒戦と言う。薬草学院は真緑の代表校であり、姉弟は入学する前からこれを知っていた。
「この時も確か、六芒の王聖学院が優勝だろう」
「うん。って言うか、毎年ね」
圧倒的な強さ。王聖学院は王族の縁者が通うエリート学校である。『
彼らはほとんどが六芒国軍に配属になるエリート集団。テレビの画像には彼らの戦いの様子が映されており、二人はじっと見ていた。
「ま。当然、勝てないね」
「薬草師は直接対決は不向きだもの」
遠隔攻撃、隠密行動が得意の薬草師。これを育てる薬草学院は武力の直接対決である六芒戦においては完全に勝ち目はなく、誰の目に見ても数集め要員であった。今見ている動画も過去の薬草学院の戦い。まるでサンドバッグ状態である。これに征志郎は眉間のシワを寄せていた。
「でも、参加しないわけにはいかないんだって。そこで、俺達一年生と二年生で華々しく負けて来いってさ」
「一年生じゃ、負けて当然ってことなのね。先輩達が負けたら屈辱だもの」
「そう言うこと!あーあ、それにしても面倒臭いな」
口を尖らせた弟を横に、結月は真顔で画像をオフにした。
「でも行くって決めたんでしょう?その前に宿題しないとね」
「心配はそこ?はいはい。やりますよ」
姉の頭にポンと手を置いた征志郎は自室に入っていった。高校生活を楽しんでいる弟に彼女は珍しく鼻歌を歌っていた。
つづく
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