理想と幻想と、もう一つ

lager

お題「私と読者と仲間たち」

 ここに、一つの小説がある。

 それは、未完の作品だ。

 とある投稿サイトにアップロードされているWEB小説で、凡そ週に一、二回程度で更新され、それがかれこれ二年近く続いている。


 タイトルは、『理想と幻想』。


 内容は都内の高校を舞台とした青春群像劇で、軽妙な会話の応酬と、若者たちの等身大な悩みや問題をリアルに描いた作風が特徴だ。

 作者はまったくの無名で、特に他のユーザーと交流などもしていない。また、自作の投稿を専門にサイトを利用しており、自分から他のユーザーやその作品をフォローしたり、コメントを入れたりすることはないようである。


 江鳩奈津美は、この小説の読者フォロワーの一人だった。

 もとより奈津美は、あまり小説など読むほうの人間ではなかったのだが、一年ほど前に友人の一人に薦められ読んでみたところ、文章が平易で分かりやすい上に、登場人物たちが自分たちと同年代の子供たちであったこともあり、気づいたときにはすっかりのめり込み、一週間ほどをかけてそれまでの投稿分を全て読み切ってしまった。

 何事につけ飽きっぽい奈津美ではあったが、そこは手軽さが売りのオンライン小説の強みであろう。週に一、二回程度の更新を、その都度だったり、何話か溜めたりしながら、奈津美はその後も『理想と幻想』を読み続けていた。


 自分ではない誰か。

 どこにでもいそうで、どこにもいない誰か。

 それなのに、自分たちにそっくりな誰かさんたちの人生。

 そんな、毒にも薬にもならないような、取るに足らない虚構の高校生活を覗き見ることは、奈津美にとって奇妙に心地よく、それでいて、特になかったからといって困らないような、要は、日常の一部となっていたのである。


 ある日のことだ。

 奈津美のクラスメイトの一人が、失恋をした。

 長年思い続けていた幼馴染の男の子に告白し、見事に玉砕した。

 彼女の悲嘆の程はすさまじく、このままでは危ういと判じたクラスメイトたちによって失恋パーティーが催され、みな一丸となって彼女を励ました。

 その甲斐あってか失恋少女は見事に気持ちを持ち直し、翌日以降も元気に学校生活を送ることができたのだが、実はこのパーティー、奈津美からの発案だった。


『理想と幻想』で同じようなことがあったのだ。

 やはり失恋した友人を慰めるために休日全部を使って遊びつくし、悲しみを全て吐き出させようというお話エピソードが、今回の件によく似ていたため、同じような方法で解決できないかと目論んだわけだ。

 首尾よくクラスメイトの和を保つことに貢献できた奈津美は、密かにご満悦だった。

 なんだ、小説というのも案外馬鹿にできないものだ、と。


 そして、また別の日。

 例の小説の中で、休日に友人たちと連れ立ってレジャー施設に遊びにいく話があった。奈津美はそれを読み、自分も今度遊びに行きたいと思っていたところ、ちょうど都合よく、友人の一人が優待チケットを入手してきたのだ。

 小説の通りに五人で遊びに行き、小説の通りに一人が遅刻したせいで駅のホームを全力疾走し、小説の通りに昼はピザを食べ、小説の通りにナンパされかかったところを回避し、小説の通りに、大いに楽しんで帰ってきた。


 また別の日。

 クラスメイトの一人が交通事故で亡くなった。

 奈津美とは別のグループの女子だったので、そう多く言葉を交わしたわけではなかったが、前日まで普通にそこに存在していた人間一人がいなくなる、という出来事は奈津美の中に深い衝撃をもたらした。

 こんな思いをしたのだと想像すると、奈津美は胸が締め付けられそうな心地がした。

 その子の母親に、お悔やみを申し上げます、なんて言葉がすらっと出てきたのは、小説を読んでいたおかげだった。



 何かがおかしい、と感じたのは、『理想と幻想』を読み始めて一年が過ぎたころだった。

 日常生活において、ものに感動するということがなくなってきたのである。

 所属している吹奏楽部でコンクールに出場しても、体育祭で密かに憧れている先輩の活躍を応援しても、季節外れの転校生が現れても、家族で温泉旅行に行っても、クリスマスパーティーをしても、いまいち気持ちが盛り上がらないのである。

 それら全てを、『理想と幻想』によって疑似体験していたからであった。


 小説の中で街に台風がくれば、その翌週に本物の台風がやってきて、学校が休校になる。

 小説の登場人物の母親が野良犬に噛まれて怪我をすれば、三日後に自分の母親が同様の怪我をする。

 小説の中で文化祭があると、その中で語られた展示物の全てが、自分たちの文化祭で再現されている。


 奈津美は最初、ひょっとしてこの小説の作者は自分の身近な場所にいる人物なのではないかと考えた。あまりにも現実と小説の中身が符合しすぎるのである。

 しかし、先に現実での出来事があってそれが小説に書かれるのではない。

 小説に書かれた出来事に追従するように、現実で同様の出来事が起きるのだ。


 そして、新学期が始まり、新しいクラスにもだいぶ慣れてきたころから、小説の中身が不穏になってきた。

 それまで仲良くやってきたクラスメイトたちと、些細なことから諍いが起き、クラスの女子たちの間に険悪なムードが漂い始めたのだ。


 それは、本当に些細なことであった。

 しかし、にとってはのっぴきならないことだった。


 ある日、次の土日を使って夏に備えた水着を買いに行こう、という話になった。

 それは正に奈津美が昨日『理想と幻想』で読んだ内容そのままで、その頃にはその小説の異常に気付いていた奈津美は逡巡した。


「私は、去年のがあるから大丈夫かな」


 そんなことを言ってしまったのが、運のツキだった。


『は?』


 その時のクラスメイトたちの視線を、奈津美はそれから先何度も思い返すことになる。

 一緒に会話していたグループの子たちだけではない。

 そのとき教室内にいた生徒たち全員、いや、たまたま廊下を通りすがっただけの生徒たち全員までもが立ち止まって一斉に振り返り、感情の欠落した虚ろな目線で奈津美を見つめてきたのだ。

 時間が静止したのかと思った。

 それはまるで、長々と続くお芝居の中で、演者の一人がセリフを間違えてしまったのを全員が咎めているようで。


 血の気の引いた奈津美が、『でも、新作も見て見たいから、やっぱり私も行くよ』と引き攣るような声で言った瞬間、張り詰めた空気は弛緩し、再び和やかな時が動き出した。

 まるで何事もなかったかのように待ち合わせの時間を相談する友人たちの中で、奈津美の心臓はばくばくと早鐘を打っていた。


 そして、『理想と幻想』は、その次に投稿された一話をきっかけに、どんどん暗い内容になっていった。

 先日まで仲の良かったはずのクラスメイトたちの間には幾筋もの亀裂が入り、ついには気弱なクラスメイト相手にいじめが発生した。

 所属していた吹奏楽部は顧問の先生が病気により長期療養することが決まり、大体の顧問が着任してから空気が一変した。大した知識もないのに指導する言葉ばかりが偉そうで、セクハラ紛いのセリフを臆面もなく口にする男だった。退部届が次々と提出され、残されたメンバーの間にはギスギスした空気だけが残った。

 クラスメイトの一人の父親が失職し、それがきっかけで両親が離婚した。彼女は母方の実家に引っ越すことになり、転校が決まった。


 その全てが、奈津美の身の回りに起きた。



 奈津美は『理想と幻想』を削除した。

 もう因果の順序もどうでもよかった。

 ただただこの小説が恐ろしく、気持ち悪かった。


 それでも、奈津美の身の回りの不幸は止まらなかった。

 誰かが病気になる。誰かが喧嘩をする。ものがなくなる。誰かがいなくなる。

 そんなことが起きるたび、奈津美は恐ろしさに身震いしながらも、ブックマークを外したはずの『理想と幻想』をチェックした。

 全て、そこに書かれていたことだった。


 奈津美は引きこもった。

 学校に行くことが、いや、外の世界に触れることが怖かった。

 スマホは捨てた。

 両親は娘の変わりように学校で何があったのかと繰り返し尋ねたが、理由なんて、説明できるはずがなかった。


 そうして登校拒否を続けること、二週間。

 クラスメイトの一人が、奈津美のお見舞いにやってきた。


 それは、奈津美が一番仲良くしていた友人の一人で、クラスメイトが険悪な雰囲気によって分断されていたときでも、心を支え合っていた大切な仲間だった。


「もう。心配させないでよ、奈津美」


 その言葉は、とても暖かく、なんの邪心も感じさせない、奈津美のよく知る友人の顔だった。


「何があったの?」


 不安げに尋ねる友人に、奈津美は震えながらしがみ付き、つっかえつっかえ事情を説明した。支離滅裂だし、荒唐無稽な話だと思う。小説の出来事をなぞるように現実世界で同じことが起きる。それが、恐ろしくてたまらないのだ、などと。


 しかし。


「それってひょっとして、『理想と幻想』?」


 帰ってきたのは、そんな質問だった。

 そこで、初めて奈津美は思い出した。

 そうだ。そもそも私は、この友人に薦められて、あの小説を読み始めたのだ。


「そっか。そうだよね。怖かったよね。でも、大丈夫だよ。あの小説、もう完結したから」


 ……え?


「ちょうど先週ね。そっか、もう読まなくなってたのか」


 友人の体に縋り付いていた奈津美の頭を、彼女は優しく撫で摩った。


「ほら」


 そういって、彼女は自分のスマホを操り、件の小説のトップページを見せてきた。

 確かに、そこには『完結済』の文字が見える。


 恐る恐る最終話を開いてみた奈津美は、言葉を失った。


 主人公の女の子が、


「ね?」


 いつの間にか、奈津美の首筋に柔らかな紐が巻き付いていた。


 ゆっくりと、力がかかっていく。

 奈津美の伸ばした腕が、空しく宙を掻いた。


 靄がかかっていく奈津美の視界に、穏やかな顔をした友人の顔が映った。


「これで奈津美も、登場人物キャラクターの仲間入りだね」

 そんな言葉とともに、奈津美の意識は暗闇の中に消え失せた。





「ご愛読、ありがとうございました」

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