第13話 INTERVAL REVERSE


その日は弱い風が吹いていた。


澄み切った青の空に、いくつかの白い雲がプカプカと浮かんでいる。

制限のない、どこまでも自由な空の中を、一羽の鳥が優雅に泳いでいた。


それらを眺めながら、芝生の上で呑気に横になる少年が呟く。


「平和やなあ・・・」


体を包みこむような心地良い風が吹き、少年は目を細めた。


暖かい日差しに、微かに聴こえてくる鳥のさえずり。

安心を運ぶそよ風は、少年を夢の世界へと誘った。



「ただいま」


夕暮れ時。家に帰ってきた少年を、しかめっ面の母親が迎える。


「また勉強放ったらかしにして。どこほっつき歩いてたの」

「空に誘われてん。雲にきいてえや」


少年はそう嘯きながら、母親の横を通り過ぎ、リビングへと向かった。


「はあ。本当に口が減らないねえ」


その後ろを呆れ顔の母親が追う。

その視界に、リビングでくつろいでいた父親が映った。


「誰に似たんだか・・・」


視線に気づいた父親が、バツが悪そうにそっぽを向く。

母親は溜息をつき、再度少年に視線を寄越した。


「全く。今勉強しておかないと学院で苦労するよ」

「教えてもらいに通うねんで、なんでその準備がいるねん」

「下味をつけた方が料理は美味しくなるの。周りと差をつけられても知らないよ」

「平たくあるが吉、って名付けたのは誰やっけ」

「はあ。ほんと、口だけは達者になって。誰に似たんだか・・・」


母親が父親を睨む。

父親は下手くそな口笛を吹き始めた。



「ご馳走さん」


夕飯を食べ終え、平吉が席を立つ。


「ほな、部屋で勉強するさかい。邪魔せんといてや〜」


ひらひらと手を振り、平吉は自室に戻っていった。


「本当かどうか怪しいわね、全く。父さんもたまにはビシッと言ってあげてよ」

「まあまあ。苦労や挫折も人生のスパイスってね」

「素人のスパイスほど信頼できないものはないわよ」

「・・・・・」


父親は黙ってしまった。

母親は早いうちに見限り、視線を別の人物に移す。


「凶助。貴方はお兄ちゃんみたいになっちゃダメよ」

「・・・うん。わかってるよ」


母親の前の席に座る少年は、コクリと頷いてみせた。




明くる日も平吉は空を眺めていた。


「平和やなあ・・・」


体を包みこむような心地良いそよ風が吹き、平吉は目を細める。


暖かい日差しに、微かに聴こえてくる鳥のさえずり。

それと、少女の泣き声。


「・・・ん?なんや?」


昨日とは違うその音に。平吉は目を開き、辺りを見渡した。


少し離れた木の下。そこで一人の少女が泣いている。

平吉は起き上がり、少女の元へと向かった。


「どないしたんや?」

「・・・・・誰?」


少女は顔を上げ、平吉に尋ねた。

両目には涙が溜まっており、華奢な両肩がヒックと跳ねる。


「ワイか?ワイは、通りすがりの出来損ないや」

「・・・でき、そこ、ない?」

「ああ。空を見て綺麗と思うが、泳ぎたいとは思えへん。ワイには翼がないからな」


平吉は気づくと弱音を吐いていた。

泣いとる女の子に何を言うとんねん、と幼き平吉は苦笑する。


対する少女は、泣くことを忘れ、真剣な表情をしていた。

赤く腫れた目で、何やら真剣に考えている。


「・・・翼がなくても、海なら泳げるよ」

「海か・・・・・せやな!」


平吉がニカッと笑う。

数秒前まで泣いていた少女は、嬉しそうに微笑んだ。



暫くして、平吉と少女の元に一人の男がやって来た。


「架純!こんなとこに居たのか!」

「パパ!」


どうやら少女の父親らしいその男に、少女が勢いよく抱きつく。


「無事でよかった・・・ん?君は?」


男が平吉に気づき、尋ねる。


「この人はね。かすみのことに気づいてね。声をかけてくれたの」

「そうか。ありがとね」


男は平吉に礼を述べた。

大人に頭を下げられるような経験がなかった平吉は、少し不思議な気持ちになった。


「そうだ。よかったら今度うちに遊びにおいで。今日のお礼もしたいしね」

「いや、お礼をされるようなことは・・」

「いいからいいから。子どもが遠慮なんてしない。架純も嬉しいだろうしね」

「うん。お家きて!」

「ほんなら・・・」


言葉を濁しながらも、頷く平吉。


顔には出さなかったが、平吉は嬉しかった。

というのも。10歳を迎えておらず、まだ学校に通っていなかった平吉は、同年代の友達がいなかったのだ。


「じゃあ、また今度ね」

「またね!」


平吉に家の場所をメモした紙を渡し、男は少女の手を引いて去っていった。


ひとり残った平吉は、渡された紙をぎゅっと握りしめ、空を仰いだ。




それから平吉は、少女の家によく遊びに行くようになった。


少女の父親は医者をしているらしく、仕事が忙しいのか、家に居ないことが多かった。

少女の母親は専業主婦らしく、度々遊びに来る平吉のことを、自分の子どものように優しく迎え入れてくれた。


教育に熱心な自分の母親との違いに、平吉は少女の家に徐々に居心地の良さを感じるようになっていった。



そんな日が続いていたある日。

自分の家に帰り、自室で寝ていた平吉は、ふと目を覚ました。


「・・・といれ」


自室を出て、寝ぼけ眼でトイレに向かっていると、隣の部屋から明かりが漏れていることに気づいた。


「・・・凶助?起きとんか?」


ドアをそっと開く平吉。

部屋の中には、机に向かってペンを走らせる少年の姿があった。


耳にはヘッドフォンを嵌めている。どうやら、平吉のことには気づいていないようだ。


「あんなに根詰めてからに・・・」


平吉は、弟の背中を眺めて呟いた。



平吉の弟。凶助は、非常に真面目な性格だった。


昔は平吉が勉強を見ることもあったが、それも遠い記憶。

平吉同様、学院に入学前にも関わらず、既に西の親(15の歳)までに習う学習内容をマスターしていた。


教育熱心な母親は、勉強に真摯に取り組む凶助を惜しみなくサポートした。

それと同時に、不真面目な平吉のことは放っておくことが増えた。


平吉は歳の割に達観した性格をしていたが、まだ才も授かっていない子どもである。

そんな母親の態度に抵抗するように、ますます反抗的になっていった。


その影響もあってか、母親はますます凶助に期待を寄せた。



「今度は凶助も連れていくか・・・」


母親の期待に応えようと、人知れず努力を重ねる小さな背中を眺めて、平吉が呟く。


そこから逃げた身である平吉は、兄弟愛と罪悪感から、勉強の息抜きになればと、凶助を少女に紹介することにした。


この正と負の感情が組み合わさった決断が。

兄弟の行く末を。「吉」と「凶」を分けることになるなど、夢にも思わずに。




それからは、少女こと架純と平吉。

そこに凶助を加えた3人で遊ぶことが増えた。 


架純は最初こそ人見知りをしていたが、なんでも知っている物知りな凶助にも段々と心を開き、仲良くなっていった。


そしてこの日も、3人は架純の家に集まっていた。


「平ちゃんの言葉って変だよね」

「え?どこがや?」

「ほら、それだよ」


架純に指摘された平吉が、呆けた顔をする。


「昔読んだ漫画に影響されて、それからその口調だよね」

「こら、凶助。いらんこと言うなや」


凶助が口を挟み、平吉が少し恥ずかしそうに指摘する。

真面目な性格の凶助であったが、兄である平吉の前では、子どもらしい言動が目立った。


それは兄弟の信頼の証であろう。二人の仲は良好であった。


「私もかっこいいの欲しいな・・・」


軒坂兄弟の会話を聞いていた架純が、ポツリと呟く。

平吉は不思議そうに口を開いた。


「可愛いのやのうてか?」

「うん。かっこいいのが良い」

「それなら『ありんす言葉』はどうかな?」


話を聞いた凶助が、提案する。


「ありんす言葉?」

「うん。昔は、語尾に『ありんす』を付ける女性がいたんだよ」

「へー、そうなんだ」

「一説では、その人たちは男よりも何倍も強かったとか」

「えー!凄いね!」


凶助の話に、架純が興味深そうに相槌を打っている。


「それじゃあ、ちょっと試してみるか?」

「うん。やってみる」


架純はコクリと頷き、「んん」っと声を整えた。


「か、かすみでありんす。今日からありんす、でありんす?」

「「・・・・・ぶっ!」」


首を捻る架純に、軒坂兄弟が耐えきれなくなったように吹き出す。


「ちょっと、なんで笑うの!?」

「いや、全然似合てへんから」

「違和感が凄い」


笑いを必死に堪えながら、平吉と凶助が言う。

架純の顔はみるみる紅潮していった。


「もう言わない!」

「まあ、無理せんでもええんやないか?」

「うん。自然体が一番だよ」


軒坂兄弟は、笑いの余韻から肩を揺らして頷いた。


「なんの話をしてるんだい?」

「パパ!」


そこに、仕事を終えた架純の父親がやってきて、架純が目を輝かせた。

架純の父親は、平吉と凶助の顔を確認すると、こんな提案を始めた。


「そういえば、今度の週末に久しぶりに休みが取れそうなんだけど、皆でピクニックにでも行かないかい?」


その提案に3人は顔を見合わせ、次いで揃って頷いた。




───約束の日。


軒坂宅に迎えの車がやって来た。


「それじゃあ。お子さんたち、お預かりしますね」

「はい。よろしくお願いします」


運転席から顔を出す架純の父親に、軒坂兄弟の母親はぺこりと頭を下げた。


今回の件を機に、平吉は架純と出会った経緯を大まかに母親に話した。

それから凶助も一緒にピクニックに行くと伝えたのだが、母親はあまり良い顔をしなかった。


しかし、凶助も「行きたい」と懇願したことで、渋々許可を出したのだった。



「楽しみだね」

「せやな」

「だね」


架純が呼びかけ、平吉と凶助が揃って頷く。


車内には架純とその両親、それから平吉と凶助の5人の姿があった。

座席は運転席に父親、助手席に母親。後部座席は右から架純、平吉、凶助の順だ。


目的地までは車で2時間ほど。

その間。着いたら何をしようかと、話題が尽きる気配はなかった。


「せや。凶助、昨日も遅くまで起きとったやろ」

「あー、ごめん。起こしちゃった?」


目的地間近。

すぐ隣は崖の山道を、5人を乗せた車が走る。


「いや、ワイは大丈夫やねんけど。無理してへんか?」

「うん。大丈夫だよ」


狭い道。

カーブに差し掛かり、車はスピードを緩める。


「努力もええが、息抜きも大事やぞ」

「兄さん・・・・・」


何か言いかけて、口を噤む凶助。

そこに踏み込んで良いものか。一瞬、悩む平吉。


まあ、今度でええか。

そう結論付ける平吉であったが。




その今度は訪れなかった。




「ぱぱ・・みんな助かるよね・・・・」


薄れいく意識の中、少女の泣き声が聞こえる。


「大丈夫。大丈夫だから。架純はあっちを向いてなさい」


少女に。それから自分に言い聞かせるような。

男の震える声が聞こえる。


(なんでや。なんで目、開かんのや・・・・・)


目を閉じているつもりはないのに、何も見えない。

どこまでも広がる黒が、少年の心を孤独に染め上げる。


眠りに落ちるその時のように。

平吉の意識は、闇に呑まれていった。




次に意識が戻った時。平吉は病室にいた。


「気がついたか」

「・・・・親父」


顔を覗き込んでくるその顔に、平吉は遠い目で答えた。

窓際のパイプ椅子に座る母親は、平吉に視線を寄越さず、虚ろな目で外を眺めていた。


コンコン。


ドアがノックされ、二つの人影が病室に入ってきた。


「この度は誠に申し訳ありませんでした」


開口一番。スーツに身を包んだ男は謝罪の言葉を口にし、頭を下げた。

その目は虚ろで、心ここに在らずといった様子だ。


男の左手を握る少女は、平吉をチラリと見て、直ぐに視線を逸らした。


「・・・・・」


平吉の親父が何も言わずに頭を下げる。

平吉の母親はガバッと立ち上がり、


「・・・・返して。凶助を返してよ!!」


悲痛な叫びを上げながら、詰め寄った。



平吉の親父が、来訪者にお引き取り頂くように促し、病室は3人だけになった。


「平吉。お前だけでも無事でよかった・・・」


父親は話を始めた。


ピクニックの目的地に向かう途中、崖の上から石が落ちてきたこと。

それが車に直撃し、大事故になったこと。


運悪く車の左側に座っていた、架純の母親と凶助が大怪我を負ったこと。



必死の治療も虚しく、二人が命を落としたこと。



「・・・やめて!もう、止めて!!」


黙っていた平吉の母親が、ガバッと立ち上がり、叫んだ。

焦点の定まらない目が、平吉の姿を捉える。


「・・・あんたが。凶助じゃなくて、あんただったら良かったのに!」

「ちょっ、母さん!」


父親が慌てたように口を挟む。

母親はハッとした表情になり、口を噤んだ。


「・・・・・・」


平吉には、その光景が何処か遠くの世界の出来事のようにしか思えなかった。



凶助が死んだ。


現実感のない事実が、平吉の脳内をぐるぐると駆け巡る。


原因をつくったのはワイや。


ワイが架純と仲良くならんかったら、架純の母親が死ぬことはなかった。

ワイが凶助を誘わんかったら、凶助が死ぬことはなかった。


架純とどんどん仲よくなる凶助を見て、ワイはどない思た?

あの日。部屋で一人勉強に励む凶助を見て、ワイはどない思た?


凶助の背中を見た時。ワイには、翼が生えかけているように見えた。

このままでは追い抜れて、どこか遠くにいってしまう気がした。


自由に空を泳ぐ凶助を、下から眺めるだけのワイ。

羽ばたいて見えなくなる前に、足止めをしたい。そんな気持ちは一切なかったか?


ワイの醜い嫉妬が、車の座席を一つずらした。

ワイの怠惰な性格が、京夜を殺した。


本来死ぬのは、凶助やのうてワイやったんや。



ワイは家族にとって。架純にとって。凶助にとって。



『毒』やったんやな。



その結論に至った時、平吉は気づくと涙していた。

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