「もし時間があったら二人で行ってみるといい」2
郡堂日花里は難しい顔をしながら顔を上げる。
「沢登祭り……ですか?」
夏とも秋とも言い難い微妙な季節だから、日花里は長ズボンに半袖というチグハグな服装で研究室に訪れていた。蝉の声はまだ聞こえるが、ところどころ木の葉は赤く紅葉している。九月まで続く大学の夏休みは後半戦が始まったばかりだった。
研究室を照らす白色電球はジリジリと音を立てていたが、窓から差し込む日差しのおかげで、あまり気にはならない。モスグリーン色のセーターを着たアランク教授がニッコリと笑う。
「ヒカリ、私が思うに沢登村はフィールドワークに適した場所だと思っている。都心からのアクセスも車を出せば難しくないし、あそこは生粋の田舎村というわけではなくて、比較的観光に力を入れている村なんだ。どの国に限らず、古来からの伝承が色濃く残っている村というのは非常に閉鎖的だから、ここは非常に珍しいといえるだろう。それに何しろ、そこには私の教え子が住んでいる」
「はぁ……」
「ふむ、まだあまり興味がそそられないらしい」
「田舎があまり好きではないんですよ」
「ほぅ?」
「虫が苦手なんです」
アランク先生は彼女の告白を鼻で笑うと、自分のデスクの机から二本のスプレーを取り出して彼女に手渡した。
「まったく、やれやれだ。もし君が民俗学者か考古学者を目指すならば、それには慣れて置いたほうがいい。私たちにとって、彼らは良き友人なのだから」
スプレーのうちの一つは虫よけスプレーで、もう一つは虫刺されに効くスプレーだった。アランク先生はどうしても自分を沢登村へ向かわせたい日花里は思わず顔をしかめるが、力関係が彼女の口を閉ざす。
「しかし、どうしてここに関心を寄せているんですか? たんなる地元の祭り、というならばいくらでもあるじゃあないですか」
実際に大学から数キロメートル離れたところに行けば、同じ東京でも自然に囲まれており、歴史や伝承が色濃く残っている地域などはいくつもあり、彼女は実際にそこへ出向いて調査を行ったことがあった。しかし、沢登村は県外どころか関東から外へと飛び出してしまう。沢登村へ行くように言われるのは、比較的遠距離で、かつあまりにも突然のことだった。
「私の教え子が暮らしている、というのはさっき言ったね。彼女――ウツギというんだが――の話を聞くに、沢登祭りというのはどうも、学術的に非常に珍しいもののようなのだ。私たちが思うに、沢登祭りというものが本当に存在しているのかどうか怪しいのだよ」
「祭りが存在しているか怪しい? このパンフレットには鎌倉時代から続く由緒正しきお祭りって書いていますけれど。写真だってありますし」
そう言って彼女は手渡されたパンフレットを開いてアランク先生に見せる。そこにはたしかに赤い提灯が並び、和服を着た男女が輪になって踊っている写真がプリントされていた。彼は顎に手を当ててそのパンフレットを凝視する。
「その写真は盆踊りによく似ているね」
「おそらくこれは盆踊りだと思いますが」
「いいや、このパンフレットが『由緒正しきお祭り』なんてものを言うのならば、このような写真がフェイクであることに、君は気づくべきだ」
「フェイク、ですか?」
日花里は彼の突然の言葉に戸惑いを覚える。彼は「おっと、言いすぎたかもしれない」と一言添えてから破顔する。しかし「フェイク」と言った先生の鋭い目つきを彼女は忘れることができなかった。普段は穏やかな表情を浮かべる彼をそのような表情にしてしまう何かが、この村にあるのだろうか?
「気にしないで構わないし、気になるならば君が実際に行ってきて調べてみるといい。聡い君の事だから私と同じ考えにすぐ至ることができるだろうから」
日花里は判然としない心持で研究室を後にする。腕にはパンフレットと地図、それからアランク先生の元教え子だというウツギという人物の連絡先。せっかく自分が希望した研究室に入ることが出来たというのに、入ってからずっとお使いのようなことばかりで、日花里は飽き飽きとしていた。
研究室の扉から出たのを見計らっていたのか、廊下で同期の飯田秀斗に呼び止められる。運動系のサークルに所属しているようで、袖からきつね色に日焼けした肌が顔を覗かせている。
「郡堂、先生からなんて言われていたんだ?」
「いつものお使いのようなものですよ。沢登村って知ってます?」
「先生が口に出した地名の中で俺たちが知っているような場所なんて一つもなかっただろ」
「ここから関越自動車道を通って二時間ほどにある小さな農村だそうです。先生がそこで行われる沢登村について簡単にテーマ自由のレポートを提出するように……だって。ところで、飯田君は車の運転免許を持っていましたよね?」
「……勘弁してくれよ」
「私と飯田君は友達ですよね」
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