沢登村、フォークロア。
Sanaghi
姥捨
プロローグ
「もし時間があったら二人で行ってみるといい」1
調子の良い木の中にはもうすでに葉が紅く染まりつつあるものがあった。八月は夏の季節とは言うものの、暦の上でのイメージと現実の間にはある程度の齟齬があるものだ。太陽が木の葉に色を付けるならば、今が最盛期と呼ぶべきだろうか。学校の夏季休業もそろそろ終わりが見えてきた頃に佐々木博は娘の友灯、それから彼女の友達である有瀬葵を連れて田舎へ帰省することになった。沢登村は都会とは比べ物にならないほどの自然が豊か――それは車のフロントガラスいっぱいに流れ広がる光景からもわかるように――だから、退屈することはないだろう、という考えがあった。二年選手の軽自動車は軽やかな音を出しながら県道を北上してゆく。
「そういえば」と一言、博は思い出したように声を上げる。
「友灯は沢登村に行くの、何年振りだ?」
友灯はその時、横を向いて外を見ていた。有瀬との会話もひととおり終わってしまって手持ち無沙汰になっていたのだ。
「お母さんが亡くなってからだから、かれこれ五年くらいじゃないかな……うん」
「そっか、最後は母さんの一回忌の時だ。三回忌は浅草でやったもんな――ああ、ごめん有瀬ちゃん。こんな話しちゃって」
「いえ。ところで、どうして友灯のお母さんが亡くなってからご実家に帰らないんですか?」
博は誰も居ない丁字路の前でウィンカーを出してハンドルを左に切った。それは彼にとって答えるのが難しい質問だった。
「さぁ、なんでだろうな」
そもそも、彼女は自分の地元のことをよく思っていなかったことを彼は思い出す。たしかに沢登村はステレオタイプとしての「田舎」のイメージとそこまで相違ないことを認めないわけにはいかない。つまり人と人との距離があまりにも近すぎるし、ローカルルールと呼ぶべきような風習が多いのも否めない。生粋のシティガールだった彼女が苦手意識を持つのも無理はない。そのような意識に少し影響されたのだろうか、博自身も帰郷することには若干の迷いがあった。しかし、それを傾ける様々な要因が車を走らせていた。
「ねぇ、博さん。私、あの村ちょっと苦手」
舌を小さく出して苦笑いをする彼女の姿を、博は未だに覚えている。「どうして?」と彼が訊くと「んー」と少し考える素振りを見せてから「説明するのはすこし難しいの」と苦笑いして答えた。
三十メートル先を、右方向です。
カーナビゲーションの機械音声が博の意識を救い上げる。彼はハッとしてハンドルを右に切った。年甲斐もなく緊張しているのかもしれない。と彼は額に流れる一筋の汗をぬぐった。そうかもしれない。自分はあの村を恐れているのかもしれない。と彼はすこしばかり心を乱されていた。
「今ちょうど、沢登祭りの時期だね」と友灯がポツリ呟く。
「祭り?」
「そう、お祭り」
彼女は車窓から目を離し有瀬の方を向く。
「役場前の広場で屋台を出して、皆で踊ったりするの――区役所でやってる小さなお祭りみたいなのがあるでしょ? あんな感じ」
「ふぅん」
「沢遠には恐ろしき蛇神がいる、という言い伝えが古くからあってね。その怒りを納めるために、年に一度、村の皆総出で踊り、音楽を演奏するんだよ。もし時間があったら二人で行ってみるといい。もしかしたら松浦くんとか、茜さんに会えるかもしれないから」
「そうだね。有瀬、一緒に行こうよ」
「……うん、いいよ」
博から出た自分の知らない友灯の知り合いの名前に、有瀬はすこし戸惑いを覚える。「そう、沢登祭り……ね」と有瀬は確かめるように言葉を反芻し、それから友灯に渡された〈沢登村観光マップ〉に視線を落とした。
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