第4話


 端から端までぎっしりと本を並べた本棚が二台。その間で暖炉がバチバチと音を立てていた。わたしはこの暖炉の暖かさを感じながら、ゆったりとしたロッキングチェアに腰かけて、読書に耽る時間が大好きだった。

 本の世界ではありがちな構図だけれど、実際は暖炉の火が引火しかねないので、あまり現実的ではないだろう。しかしそれを実現してしまえるのが、聖・リリィに伝わる創世魔法。態々それを使ってまで本棚をこんな場所に配置しているのは、わたしが物臭な所為だが、この一杯になった本棚はとても大事な宝物で、眺めているだけでも実に心地よい。

 これはお館様がわたしを気にかけてくれた証。


『良い子にしていたら、本を一冊与えよう。いつかこの本棚を一杯にしてみなさい』


 なんて、月並みな約束と、その結果だった。

 一生懸命、勉強したんだけどな……。

 大好きな本を、溜め息と共に閉じる。お館様に一番最初に頂いたその本は、もう角が取れて丸くなってしまっていた。表表紙と背表紙の間も、劣化した厚紙特有のひび割れが酷く、随分とみすぼらしい。

 修復するのは簡単だ。

 保護するのも簡単だった。

 けれどこれは、売れ残りだったわたしを優しく迎えてくれたお館様に対して、わたしが出来る限りの教養を身に着けて、恩返し出来るようになったという表れ。その為にかけた時間を表すものだ。はじめはある種の見栄ではあったが、それが無くなる頃には自信になり、自負になり、いつしか手放せないものになっていた——『ガルイン家の長女』という肩書と共に。

 祝福しなければいけない事は分かっている。わたしは人形であり、生まれてくる御子はお館様の血を引く大切な後継ぎだ。自分の身分が軽い事は、勉強する前から知っていた。

 けれど、なんでお館様も五〇を越そうという今になって……。

 気が付けば思考は泥濘に踏み入れたようにずぶずぶと沈んでいく。大好きな場所で、膝を抱えて縮こまる。決して口に出してはいけない本音を、何とか噛み砕く。

 至高の人形として買われていった姉のアイリスは、今やハイルミィト家の叡智を継ぐ存在になった。弟のヴァーミリオンも、ディーバイン家の重役として活躍している。決してその地位が羨ましい訳じゃない。わたしはガルイン家の下僕でも、愛玩道具でも構わないのだから。

 ただ、必要とされなくなる事だけが、心の底から恐ろしかった。優秀な姉や弟と比べられて、色んな貴族達がわたしを要らないと言ったあの時のように。お館様からご褒美の本が貰えなくなる事が、何より怖かったんだ。

 生まれて来なければ良いのに。

 なんて思ってしまえば、それは返し刃のように己の生い立ちを責め立てる。本当に生まれて来なければ良かったのは、わたしではないのか。と、自分でさえもが自分を認められなくなっていく。

 肩を抱いて縮こまる。

 泥濘にずぶずぶと嵌っていくように、思考が奈落へ落ちていく。

 気が付けば周りの景色が歪み、汚れて、変わっていく。極彩色にも見えるようにぐにゃりぐにゃりとうねって、変化して、非現実的な混沌へ。

 やがて、全てが真っ黒に染まった。

 と、そこへ。


「元気出して。ユクシール」


 暗闇に一筋の光が差し込む。それは瞬く間にわっと広がって、一陣の風が吹き飛ばしたかのように、暗闇がぱっと晴れ渡る。

 後ろから聞こえた声にハッとして振り向けば、あまりの明るさに白飛びした景色が広がっていた。眩いばかりの光の下、逆光で良く見えない筈の人影は——しかし、確かに笑っていた。


 ふとすれば自然と瞼が開いて、今しがた見ていたものが夢であったのだと気付く。僅かに加速している動悸は、当時の自分が抱いた感情に対する怒りか、はたまた後の新たな主人の優しさに対する罪悪感か、それとも……久しぶりに見た主人の夢に興奮しているのか。まあ、どちらにせよ気ままな夢に踊らされただけの感情だ。それで感傷に浸る程、わたしはもう若くない。

 朝か……。

 特に何かを確認した訳ではないが、身体に染み付いた感覚が新しい一日の始まりを告げる。

 小さく息をついて、両手を組む。それを天井へ向けて伸ばしてみれば、今の自分が夢を見る程の深い眠りに適した体勢ではなかった事が分かった。

 ちらりと視界の端っこに視線をやれば、未だ燻る消し炭が目に留まる。膝の上には毛布と真新しい一冊の本。再度視線を泳がせれば、まだ二冊しか入っていないがらがらの本棚があった。

 ゆらりゆらりとロッキングチェアが揺れる。

 天井を見上げてみれば、規則正しい木目に何処とない安心感があった。

 成る程。

 夢は見るべくして見るものと言うが、ここまで合致すれば疑う余地もないだろう。暖炉を本棚で挟むなんて馬鹿のする事だと言われたが、わたしにはわたしなりの理由があったのだ。今の今まで忘れていたが。

 ふわぁと欠伸をひとつ。

 ゆっくりと身体を起こして、チェアから立ち上がる。

 椅子に座ったまま眠りについた身体は、ほんの少しだけ倦怠感があった。まあ、身体そのものは保全機能によって健康に保たれているので、精神的なものからくる錯覚だろう。

 そこでふと鼻腔を擽る独特の香りに違和感を覚える。やや香ばし過ぎる匂いの元を辿れば、暖炉にくべた薪が全て燃え尽きていた。薪が燃える匂いというのは不快感こそ無いが、消し炭になっていては些か身体に悪いようにも感じる。火の領域は魔法で隔離しているとはいえ、心配性のハゲに知れると口煩く罵られる可能性もあるだろう。

 わたしは溜め息まじりに、庭に続く大きな窓の許へ。リビングの一方向を四枚の引き違い窓で埋め尽くした景色は爽快感こそひとしおだが、カーテンを開けばベルトルーク特有の気候が暴力的に襲ってくるような気がしないでもない。だからこその暖炉なのだが、今日は朝のうちから出かけなければならないので、今から新しい薪をくべるのは面倒だ。


「って言ったら怒るんでしょうねぇ。面倒臭い人だこと」


 眩い朝日の下、理不尽なぼやきと共に、窓の一枚をゆっくりと開く。

 ぶわりと冷風が室内へなだれ込んでくる。一晩かけて暖炉が温めた空気が、少しだけ白く染まりながら外へと出て行った。対して、わたしの口から零れた溜め息はやけに鮮明な白色へ染まる。

 ベルトルークの気候は一年を通して良く冷えるという。夏も近い今は雪こそ降らないが、元旅人の身からすると、吐息が染まる様を夏の景色と呼ぶ事に違和感しかない。アイリスはその内慣れると言ったが、はてさてそれは何時になる事やら。

 窓を開けっ放しにしたまま、ダイニングキッチンへと向かう。歩きながら短い詠唱を唱えれば、床下収納庫が自ずと開いて、地下から卵四つと薫製肉の塊が浮き上がってくる。そのまま指で操って、干してあったキッチンのまな板を取り上げ、その上へ。


 安寧の証。

 優しき橙は営みの灯たれ。


 余った手で竈の蓋を開け、中に小さな火を起こす為の魔法を使う。その発動はもう何万と使ってきたものなので、着火を目視確認もせずに蓋を閉めた。

 キッチンの片隅で壁掛けにしてあるスキレットを取り上げて、コンロに乗せる。


 賛美を与えよ。

 豊穣の恵みに、無粋な刃。

 食卓には優しき香りが漂って。

 祝え。祝え。

 平穏の日々を。

 集え。集え。

 見えざる小さな同居人。

 さあ、宴をはじめましょう。


 歌うように詠唱を唱えれば、キッチンの片隅にあるバゲットが一本浮かんで、自ずから千切れ、飛んでいく。向かう先は暖炉から距離を置いて向かいにあるテーブル。その上には、既に綺麗な丸皿が着地しており、そこへ綺麗に寸断されたバゲットが一流のレストランさながらに美しく並んでみせる。

 リビングでバゲットが踊れば、こちらでも薫製肉が自ずと寸断されて、熱々のスキレットの上を踊って見せる。卵がふわりと浮いて、スキレットの淵にこつんと当たれば、中の黄身が崩れる事なくこれまたスキレットの上へ。薫製肉がじゅうじゅうと焼けて、とても良い匂いが漂ってきた。

 目に留まる物や現象を操る魔法、『妖精の祝い事』。その中でも、これは食事の支度に適した調律をしたものだ。

 しかしながら、色んなものが勝手気ままに飛び交っているかのような景色を、幻想的だと褒めてくれるのは、魔法を良く知る者ばかり。そこらに居る現代人の皆々が詳しい訳じゃない。魔法を知らない者が見たら、白目を剥いて卒倒してしまうだろう。大変便利な魔法文化の多くは、いかにもな怪談と見分けがつかないところが玉に瑕。

 開いた窓から漂う良い香りに釣られてふと視線をやれば……なんて、朝っぱらから態々庭の垣根を覗き込むような輩が居ない事を祈るばかりだ。

 と、そうだ。換気しっぱなしだった。

 少しだけ意識を割いて、先程開けた窓を優しく閉めておく。

 まあ、とはいえ、わたしがアイリスの妹である事は、井戸端会議で噂される程度には知れている。彼女は魔法や出身を隠したりしていないようだし、大きな騒ぎにならなければ特に困る事はない。難なら、二階でぐうすか寝ている小煩いハゲにバレなければ、少しくらい騒がれても構わないだろう。

 なんて考えて、ふと虚空を見上げる。


「もう一月か……」


 視界に留まる木目調の天井も見慣れてしまった。

 一ヶ月前、わたしとアレロさんはこの街に留まる事を決めた。元々、旅はわたしの我儘でやっていたようなもの。アレロさんからすれば、わたしが問題を起こさない事と、地に足のついた生活を送れるなら、これ幸いだったらしい。

 エンデンリアの塔に程近く、北側の広い敷地が偶々空いていたので、そこにパパっと二階建ての家を建てた。外装はベルトルークに相応しい白い石造りで、家具を含む内装は全て木造という拘りの物件。勿論、わたしの魔法で、あっという間の施工だった。

 そうして始まった新天地での生活だが……何と言うか、普通だった。

 はじめこそ、アイリスがわたし達に協力を要請しなければならない状況なのかと思いもしたが、この一ヶ月間、想像とは真逆の実に安穏とした日々を過ごした。まあ、隣国のファーファネロとガロンの戦争にそろそろ決着がつきそうなので、油断こそ出来ないが、決して最悪な情勢という訳ではない。同盟国や協賛国が無いにしては、内政は驚く程安定していた。

 とはいえ、何もない日々だったという訳でもない。

 アレロさんにはベルトルーク騎士団の団長を継ぐ待遇が用意されていた。朝から晩まで騎士団やアイリスの許に出向いて、それはそれは忙しそうにしている。

 今は引継ぎが行われている真っ只中の為、その情報や彼の生い立ちこそ機密なのだが、これが公になれば隣国の戦争の勝者――ファーファネロは黙って見ていないだろう。いや、彼の名自体が世界的に知れているので、もしかするともう偵察ぐらいには来ているかもしれない。

 まあ、強大な魔導士が治める国に、革命を一夜にして成し遂げた英雄が根を下ろすとすれば、それは迂闊に手を出せないくらいの脅威だ。世界制覇を狙うなら話は別だが、平和主義の強国であれば手を出さずに捨て置くか、味方につけようと動くだろう。

 つまるところ、アレロさんはこの国に居るだけで役に立つ訳だ。

 因みに、彼のこの一ヶ月は順風満帆そのもので、ウォーフをはじめとする騎士団の団員達とも無事打ち解けて、団長を交代する事も受け入れて貰えそうだと言っていたか。唯一の悩みは相変わらず女っ気がない事らしいが、それは知ったこっちゃない。

 今日もアイリスからの呼び出しが済めば、騎士団の駐屯所で指導に励むそうだ。

 して、わたしはと言えば——


「んー、九〇点ね」


 焼きあがった目玉焼きの丸さに点数を付けていられるぐらいには、のんびりした生活を送っている。この一ヶ月間の目立った功績と言えば、それこそ家を建てたぐらい。まあ、他に何もしていない訳ではないが……態々何かをしたと豪語するような事をしちゃいないのだ。

 スキレットをひょいと振って、目玉焼きと肉を空中に放り投げる。普通ならべしゃりと地べたに墜落する筈のそれは、纏わりついた肉汁を一滴たりと溢す事なく、ふよふよとテーブルに広げられた丸皿の上へ飛んでいく。

 それを見送ったわたしは、『妖精の祝い事』と、竈の火に向けた魔力を遮断し、代わりに熱々のスキレットへ手をかざした。


 悠久の旅人は回帰した。

 吉報を待つ夜は終わりを迎える。


 保護魔法を掛けた時へと、スキレットの状態を復元する。そうすれば、洗う事なく綺麗になる訳だ。

 いやはや、魔法文化様々。

 遠い昔に魔法を隠して過ごした日々を思い起こせば、やってられない気持ちになる。時にこの詠唱さえ面倒に感じてしまうのは、怠慢も過ぎるのだろうと心の底からそう思う。

 さて、朝食の準備も済んだ事だし、着替えついでに寝坊助を起こしに行こう。

 リビングの扉を開けて、玄関に続く廊下へ。中程にある階段を登れば、しんとした朝の静けさの所為か、はたまた単純に声がでかいのか、豪快ないびきが聞こえてくる。

 一先ずいびきを無視して、わたしは自分の寝室へ。

 聖・リリィの美徳を重んじている訳ではないが、部屋にはベッドとサイドテーブル、それにクローゼットしかない。ランプの類は魔法でどうにかしてしまうし、本棚はリビングにあるし、必要なものが少なくて、質素な仕上がりになってしまっている。アレロさんが見た時は「囚人の部屋みたいだ」と言っていたか。せめて人形らしく、下僕と言って欲しいものだ。

 クローゼットを開けば、旅の道中に使っていたローブと、新たに買ったカーディガンやワンピースが数着掛けてある。ラックの下には程好い大きさの籠が二つ。一つは綺麗に畳んだスカートと、見合うトレーナーが幾つか入っており、もう一つには下着が三着、こちらは雑に入れてある。

 元々、わたしはお洒落にあまり興味が無いし、形状記憶の魔法で同じ服を永遠に綺麗に保つことも出来る。なので旅の道中は殆んど着替えた事が無かったのだが、一つの土地に根を下ろすというのは面倒なもので、どうしても世間体というものがついて回る。毎日同じ服を着ていたら、例え小綺麗にしていても印象が悪いだろう。

 已む無く、適当な服を着まわす事にしている。といっても、適当なコーディネートで許されるように、殆んどのアイテムが黒か白で統一されているのだが。

 今日も今日とて適当な服を選んで早々に着替えると、元着ていた服に復元の魔法を掛けてクローゼットに仕舞う。当然、手洗いなんてする訳がない。

 自室を出ると、再び豪快ないびきが聞こえてくる。

 近くの部屋で物音がしても眠り続けるのは騎士としてどうなのかと思うが、彼の性分を考えればそれ程休める環境になっているとも言える。その信頼の一因になれているのであれば、それは冥利に尽きるというもの。

 呆れ半分、安堵半分の溜め息を溢す。

 自室と客間の扉を過ぎて、この家の主人であるアレロさんの部屋へと向かう。コンコンとノックをすれば、いびきがピタリと止んだ。


「入りますよー」


 一声かけてから、ゆっくりと扉を開く。

 宿賃が銅貨一枚で済みそうなわたしの部屋に対して、アレロさんの部屋は小金貨一枚は取れるのではなかろうか。尤も、広々とした部屋の大半を、予備を含め三着の甲冑と、騎士団の正装が二着、式典用の装具が二着、それぞれを装備した七体のマネキンに占領されている。壁にも彼の愛用している戦斧や、短刀、稽古用の長剣やらが所狭しと掛けられていて、まるで武器庫のようだ。意匠の凝った赤いカーペットと壁紙のおかげで、辛うじて貴族風な家具として溶け込んでいるような、いないような。

 これで当人曰く、『アルカナに居た頃よりはマシ』らしい。


「アレロさん。起きて下さいな」


 大きな箪笥や、落ち着いて武器を磨くために用意した椅子とテーブルを後目に、部屋の最奥で眠る大男の許へ。いびきは止んだが、起床した気配はない。掛け布団に潜った半身もぴくりと動いていない

 枕元まで向かって、彼の傍らに腰かける。

 宿を共にしていた時から知っていた事だが、この男は熟睡する時に服を着ない。なんでも、焼き討ちにあった時に服が燃えて死にそうになった事があるかららしい。わたしと共に過ごすまでは布団に潜って寝るという習慣も無かったようだ。

 布団から出ている逞しい胸板にそっと触れる。

 傷痕だらけの身体。しかし、戦闘で付いた痕ばかりではない。大半はアルカナに居た頃、民から石やガラスを投げ付けられてついた傷だ。彼にとってはあまり誇らしいものではないようだが、これこそがこの男の誉れであると、わたしは思う。

 民の想いを真っ向から受け止める騎士団長とは、中々格好良いじゃないか。

 と、そんな微笑ましい感想は束の間、ふと左胸に違和感を覚えて、視線を下ろす。

 逞しく大きな手にがしっと鷲掴みにされたわたしの左のふくらみ。そのままぎゅうぎゅうと揉みしだかれると、ありがちな快楽やら嫌悪感の前に、肉を掴まれる事に対する単純な痛みが襲ってくる。


「痛いです」


 ぺしっ。

 と、音を立ててその腕を叩く。

 華奢なわたしの力では振り払うには至らなかったが、言葉か態度のどちらかが奏功して、不埒な手の動きがぴたりと止まる。

 ゆっくりと手が離れて、大きな身体がむくりと起き上がった。


「おはようございます」

「おはよう」


 掠れた声が返ってきた。

 大きな欠伸と共に、後頭部をがしがしと掻きむしって、嘆息をするように喉を鳴らす。

 やだ。アレロさんったら、おじさん臭い。

 と、それはそうと、先程の事は文句の一つ言わねばなるまい。


「して、朝から痴漢した事に対する弁解はありますか?」


 わたしが淡々と問い詰めると、彼はさぞ面倒臭そうに深い溜め息を吐いた。


「お前も触ってたじゃねえか。あいこだ。あいこ」

「揉んだ覚えはありません」

「その分は叩かれたろ」


 寝ぼけた声色ながら、淡々と返してくる言葉は筋こそ通っている。筋しか通っておらず、倫理観は欠如しているが。まあ、今更胸の一揉み二揉みに角を立てる関係でもない。飄々とした態度は些か腹立たしいが、朝っぱらから喧嘩したいとも思わない。

 わたしは溜め息まじりにゆっくりと立ち上がった。


「朝ご飯出来てますから、支度したら降りて来て下さいね」

「あいよ。ありがとよ」


 お礼とは殊勝な心掛けだ。是非とも態度にも反映して欲しい。


 リビングへ戻れば、二人分の飲み物を用意して、一足先に食卓へ着く。一家の主が居ない状態で食事に手をつけやしないが、仕事が出来る男の支度はじっと待っていても苦痛な長さではない。それに、天井から聞こえてくる足音に耳を澄ましているだけで、十分な暇が潰せる。

 食卓に頬杖をついて、静かに目を瞑る。

 鈍い足音が聞こえてくれば、僅かに口角が緩む。

 アーレスという男は、助平で粗暴で女々しい奴だが、決して馬鹿ではない。腕っぷしが立つのは勿論の事、書類仕事も手際が良く、勤勉だと評判だ。本来なら三ヶ月はかかると言われた引継ぎ事項も、一ヶ月目にして殆んど終わっていると聞く。その仕事ぶりにウォーフは団長を譲る判断をして良かったとぼやくし、アイリスは追加の待遇を検討したいとさえ言っていた。まあ、それらの評価を煙たがってしまうのもまた、彼らしさなのだが。

 しかし、彼を稀代の英傑と評するなら、わたしは首を傾げるだろう。

 彼自身は騎士道を深く心得ているし、畏まった服装をすればそれなりには映る。上に立つ者としての威厳やカリスマ性も持ち合わせており、羨望の眼差しを浴びるに足る姿でもあるだろう。だが、飾らない気質は、彼に気品というものを与えなかった。聖騎士団という洒落た出身を持っているにも拘わらず、正統派の騎士というよりは、歴戦の武骨な猛者といった方がしっくりくる。それこそ剣を振るうより斧を振っている方が似合うあたりが、実にそれっぽい。ああ、そうだ。夜に自室でワインを嗜んでいるより、酒場でビールを流し込んでいる姿の方が似合うのだ。下品な笑い声をあげながら、仲間と肩を組んで音頭を取るような……そんな英雄は、物語の中にはあまりいない。だから、そこらの英雄譚より、よっぽど面白い。

 ガチャリと音を立てて、リビングの扉が開く。

 瞼を開けば、件の下品な猛者が大きな欠伸をしていた。

 何時もと変わらぬハゲ頭に、ゴツゴツとした印象を抱かせる褐色の肌。えんじ色の騎士団の制服は一番大きなサイズで仕立てて貰ったのに、腕や足回りがはち切れんばかり。左腕に巻いている腕章だって、力を入れたらブチッと音を立てて弾け飛んでしまいそうだ。

 何時も通りなら廊下の洗面所に寄って、顔を洗ってから来ているだろう。対面の椅子を引く彼を黙って見守った。


「おはよう。今日も美味そうだな」

「お褒めのお言葉をどうも。さっきの一揉みはまだ根に持ってますけどね」

「怒んなよ。頂きます」

「冗談ですよ。頂きます」


 胸の前で片手を立てるアレロさん。

 わたしは両手を顔の前で組んで、暫し黙祷。

 当然だが、出身も違えば育ちも違う訳で。アレロさんが特別煩く言わない事もあって、彼が彼の故郷の教えを尊ぶように、わたしはわたしで聖・リリィでの教えの通り、青き星の神『レーン』を信仰する。まあ、といっても、食事の作法をはじめとした些細な違いくらいなもので、お互いの文化に何かしらの面倒臭い戒律があったりはしないが。


「お前、今日は出かけるのか?」


 食事に手をつけて少し。

 一口目を呑み下したアレロさんが問いかけてきた。

 こくりと頷いて返す。


「アイリスとお茶の約束です」

「そうか。お嬢もお前も暇だな。良い事だ」


 アレロさんの言うお嬢とは、アイリスの事。

 第三者を交えて会う時は仰々しく様付けで接するのだが、当人を加えた三人の間なら楽に接して欲しいと言われてこうなった。バレたところで打ち首になるような国柄でも無し、アイリスもお嬢の謂れを気にしてはいないらしい。

 薫製肉を口に入れて、咀嚼する。

 豊かな香りが鼻を抜けて、食欲をそそるが、一度我慢。十分な咀嚼の後、ゆっくりと呑み下して、再度面を上げた。


「そういえば、ファーファネロから使者が来るとか言ってませんでしたっけ?」


 ミルクを一口飲んでから、アレロさんは肩を竦めて見せた。


「ガロンから正式な手打ちがあったみたいだからな。領地拡大の宣言に来るんだろうよ」


 成る程。

 わたしは頷いて食事を再開した。

 戦争の形式と言うのはその時代によりけりだが、今は世界的に戦争が少ない時代である為、多少なり体裁やしきたりを気に掛け易い。戦争に勝利した国が、周囲の国々へ使者を出し、新たな領土を宣言するのもその一つ。

 雑な例え方をすれば、引っ越し先での隣人への挨拶回りと言ったところ。しかしながら、如何に勝利国とはいえ、戦後のくたびれた情勢から行われるこの宣言は、非常に高貴な行いだと言われている。この使者を受け入れながら、疲弊した国へ攻め入るという行いは、他国への印象が悪いという風潮さえあった。

 つまるところ、事実上一時的な停戦協定という訳である。

 それを更に言い換えれば、強国が次の戦争相手を値踏みする時間とも言えるだろう。中立を謳うこの国が、その筆頭候補に挙げられるのは言うまでもない。領土拡大の使者が来るとするなら、その者の判断が今後の二国の関係の命運を握っていると言っても過言ではないだろう。


「まあ、ファーファネロも領地や軍備の整理をやらなきゃならねえし、魔導士が二人も居る国を立て続けに攻めたりはしねえだろうよ」


 飄々とした様子で食事を続けるアレロさん。

 確かに、その通りだ。

 ファーファネロの軍事力は高く、魔導士も複数人抱えていると聞くが、ガロンとの戦争は決して楽なものではなかった様子だ。ガロンが宗教国であった事から、新たな領地の統治も簡単にはいかないものと予想出来る。

 ベルトルークは立地こそ良いが、領土的には狭く、名産品や独特の技術文化も無い。南方には高い山脈が連なる為、更に南方の国々への侵略拠点にも適さない。その癖、一騎当千の魔導士が二人も居る。

 ファーファネロからすれば、後顧の憂いにこそなれ、触らぬに越した事は無いとも言えるだろう。

 ガロンの降伏を素直に受け入れるあたり、ファーファネロの王は賢明だ。自国の兵に無理を強いてまで、ベルトルークに手を出しては来ないだろう。


「それより、問題はその使者をもてなすマナーだ。他に覚える事が山程あるっつうのに、勘弁して欲しいぜ。ったく」


 パンを齧りながら、忌々し気に零すアレロさん。

 だが、語る言葉と裏腹に、その仕草たるややはり酒場の背景が似合ってしまうのだから困りもの。

 わたしは深い溜め息を吐いた。


「使者をもてなすマナーの前に、一般的な礼儀を見直しましょうか」

「あん?」

「呑み込んでから喋って下さい。汚いので。あと、食べ物を持った手で差し指をするのも良くありません。肘をついて食べるのなんてもってのほかです」


 怒涛の指摘に、アレロさんの食事の手がぴたりと止まる。

 マナーとは普段の心掛けから養われるもの。いざという時だけ都合よく出来るものではない筈だ。

 わたしがそう補足すると、アレロさんは実に腹立たし気な顔をして、しかし黙ってもぐもぐと咀嚼を再開した。厳密にはその態度もよろしくないのだろうが、嫌な姑みたくネチネチ言うのも良くはないだろう。

 わたしはすまし顔で食事を再開した。


 青き星が天頂を差す頃合い。

 エンデンリアの鐘が澄んだ音を響かせる。

 すぐ近くで鳴った筈のそれは、しかし思ったより大きな音には感じない。それが一日に四八回鳴る内、一番大きな音であるとは思えない程だ。

 実際は鳴っている音の大きさ自体は変わらず、響く音量を魔法によって制御されているのだとか。一つ下の階層の執務室に居ても煩くない原理も、そういう魔法を掛けられているかららしい。

 聖・リリィ発祥の創世魔法は、あの国で過ごした三〇年あまりではとてもじゃないが学びきれるような量ではなかった。しかしながら、一〇〇〇年も生きて尚、新しい学びがあるとも思わなかった。

 それこそ聞く人によって不便の無いように鐘の音の音量を調節する魔法だなんて、ハイルミィト家以外の人間や人形が知っていただろうか? いや、そもそも魔法で制御されているものだとすら思っていなかった。


「それを一ヶ月も疑問に感じなかったあたり、貴女も年をとったのよ」

「それ、自分にも向いてる刃だって分かってる?」


 ふと疑問を抱いた事を聞いてみれば、嫌味な事を言われて、つい言い返してしまう。

 些細な質問に対しても事細やかに教えてくれるあたりは、昔から変わらず懇切丁寧だと感じるのだが……些か、昔より意地悪くなったように思える。

 出されたジュースに口を付けながら、わたしは唇を尖らせた。


「そうね。意地悪になった分、わたしは馬齢を重ねた訳じゃないって事だわ」

「自然な様子で心を読まないでちょうだい」


 流石に他人の心を読むような魔法は無かった筈……無かったわよね?

 秩序と学びの塔こと、エンデンリアの塔を管理していたハイルミィト家は、聖・リリィでも有数の知識量を誇っていた。わたしとアイリスは三歳しか変わらないが、こと魔法においては逆立ちしても勝てやしない。いや、ハイルミィト家に仕える前から、彼女は成績優秀の模範生だったが。

 アイリスに知識量で勝てる人形と言えば、三度の飯より読書が好きだったアクィリアぐらいだろうか。その知識量が災いして、わたしと同じ売れ残りの人形だったが。

 聖・リリィの人々は己より優れた者を誰より渇望し、誰より恐れていた。わたし達『銀の人形』や、現代にも形を変えて伝わる『創世魔法』は、正しくそのエゴの象徴とも言えるだろう。人形も魔法も、人より優れるように作られていたが、決して人に逆らう事が出来ない。人形と魔法が人を傷付けるようになったのは、あの国が滅びた後の事だ。

 そう思うと、あの国が上手く秩序を保てていたように思えるが……いいや、あの国は体裁だけを整えた張りぼてに過ぎない。わたしはそう知っている。

 ふと視界の端に留まる快晴の空。

 今朝の夢の終わりの真白は、丁度青き星レーンが照らしていたように感じたか。

 夢の中に現れたあの子は、上っ面だけ良い人ぶった終わらない仮面舞踏会の下、妬み嫉み、恨み辛みといったどす黒い感情を一身に受けて育った。本来なら彼女を憎んでいた筈のわたしでさえ、あまりに哀れで、庇ってしまう程に……。


「ユクシール? どうしたの、ぼーっとして」


 わたしの視界の端で、凭れ掛かっていた執務机から身を起こし、アイリスがこちらを振り向く。純白の絹のドレスが風に吹かれて裾を広げていた。それをゆっくりと御す姿は、実に気品高く映った。

 今朝のアレロさんとのやり取りではないが、彼女は彼女で随分高貴な存在になってしまったような気がした。

 わたしはゆっくりと首を横に振って返す。

 特別、反応を疎かにした覚えは無かったが、アイリスの目には呆けているように映ったのだろう。


「この塔の所為かしら。最近、よく聖・リリィの事を思い出すのよ」


 思い出す――と、一言告げただけで、それがネガティブな感情を孕んでいると伝わってしまう。この塔を造りあげた張本人のアイリスは、やや俯いてしまった。

 望郷の想いはある。

 仮にアイリスに墓参りに行こうと誘われたら、間違いなく着いて行くだろう。

 だが、それらは全て、痛みが風化した今だから出来る事。最も辛かった最愛の主の死でさえ、国柄と時代の悪戯だったのだと思うようになってしまったから、赦せる事なのだ。


「あの時、アイーシャを救えなかった事を、未だにわたしは後悔しているけれど……生きていても、あの子はガルイン家の家紋を背負う限り苦しんだ。無かった未来を何度も予想して、推測してみるのだけど、わたしはずっと、あの子を救えないのよ」


 悲観してる訳ではない。

 これはあくまでも冷静な分析だ。

 仮にあの戦争を乗り越えていたとしても、彼女はきっと、自分の領地の民の手にかかっていただろう。理由を挙げだしたらキリが無いが、如何に彼女が民の為に尽力しようと、難癖付けて失墜を狙うような、そんなくそったれな輩ばかりだったのだ。


「皮肉な事に、アイーシャを殺したのが外界の人間だったから、わたしは復讐が出来たのよね」

「そうね」


 銀の人形が聖・リリィの人々を傷付ける事は出来なかった。

 どんな理由があっても、わたし達はあの国の人々に危害を加える事が出来なかった。しかし、その逆は可能だった。銀の人形には教えられない方法を以って、処分する事は出来たのだ。


「わたしも、最高傑作と呼ばれるうちの一人でなければ、此処に居なかったかもしれないわね」


 自嘲気味に笑ってみれば、小さな溜め息が聞こえてくる。

 何時の間にか俯いてしまっていた視線をゆっくりと上げれば、アイリスが呆れたように額を押さえていた。


「ごめんなさい。気を悪くした?」


 アイリスの様子に度が過ぎたかと悟る。

 彼女はゆっくりと首を横に。その後、今一度深い溜め息を吐くと、こちらへ歩み寄ってきた。手が届きそうな距離になって、彼女は椅子に座っているわたしと視線を合わせるように、腰を下ろした。

 そして「あのね」との言葉と共に、両手を取られる。


「この塔を建てた理由は、貴女が此処に居る理由と同じよ」

「此処に居る……理由?」

「そうよ。どんな人形も、皆、この塔で育ったの」


 アイリスは真剣な顔で語る。

 がっしりと握られた手に籠る力強さが、彼女の想いの強さを表すようだった。

 言っている意味は分かる。

 エンデンリアの塔は、全ての人形が基礎的な学びを得る為の場所だった。あの国での思い出の多くを忘れていたわたしでさえ、あまりの懐かしさに涙しそうになる程、記憶の根っこにある存在だ。


「貴女は、良くこの塔の頂上から、わたしやメシュトゥラを突き落としたりしたわよね」


 柔らかな微笑みと共に語られる懐かしい思い出話。


「『蒼穹を統べる』を一早く使えたレヴは、わたし達の事を指差して間抜けだなんて言って見せたわ。それが悔しくって、練習がてら何度も飛んでみたけど……ああ、そういえば、落ちた時に下を歩いていたオフィーリアを下敷きにしてしまった事もあったわね。あれは今思い出しても可哀想だわ」


 こくりと頷く。

 彼女の語る思い出話は、言われてみればスッと出てくるような印象深い話ばかりだ。

 あまりに生意気だったから、怒ったわたしが塔から突き落としたメシーは、あれ以降高いところにトラウマを抱えるようになったっけ。レヴだって自慢出来たのはあの一回だけで、その後はアイリスに逆立ちしたって敵わなくって。オフィーにはあまりにあっさり赦されたものだから、罰が悪くて敵わない思いもしたか。

 やんちゃばかりをしていたが、あの日々の思い出はどれもが無垢で。頭でっかちに考えばかりを巡らせている自分が、臆病な愚か者のようにも感じてしまう。


「そんな思い出話を、また誰かと出来たら。その切っ掛けになるぐらい、この塔がベルトルークの不朽のシンボルとして、知れ渡ったら……なんてね」


 そこまで聞いて、アイリスの話が漸く分かった。

 わたしはこの国を訪れた時、アイリスの名を聞いて、彼女を訪ねた。それと同じように、この先、この塔がベルトルークの名と共に有名になれば、また別な知人が訪ねてくるかもしれない。

 まさかそれが至上の目的という訳ではないだろうが、先の見えぬ道を歩むアイリスの目標の一つにはなるだろう。

 しかし、それ即ち——


「それって、わたしが訪ねて来た時点で、殆んど達成してない?」

「あら。わたしはユクシール以外にも会いたい人形がいっぱいいるのよ? 貴女と違って社交的だったから」


 わたしが呆れたように指摘をすれば、アイリスはすまし顔で意地悪を言う。

 やっぱり、この姉は一〇〇〇年の間に随分と良い性格になっているようだ。

 くすりと笑って、片手を振り解くと、未だ握ったままのアイリスの手の甲の上へと重ねる。勢いがついてぺちんと音が鳴った。


「別に、悲観してる訳じゃないんだってば。でも、ありがと」


 過去の友人と会いたいと願うアイリス。

 わたしは社交的ではなかったので、仲の良い友人は限られていたから、渇望する程ではないが……しかし、確かに、そう思えるくらいの良い思い出もある。

 良いばかりではなかったのと同じように、悪いばかりでもなかった。いかんせん、そのどちらか一方を強く思い起こしてしまいがちだが……そんな時こそ、この塔を思い起こしてみれば良いのかもしれない。

 アイリスの話の本懐は、きっとそういう事なのだろう。こういうところばかりは、一〇〇〇年のブランクがあっても、ちゃんと伝わってくるものだ。

 わたしがくすりと微笑めば、アイリスは憑き物が落ちたように微笑んだ。


「全く、意地っ張りなんだから。偶には甘えても良いのよ? わたしの胸は随分と埋まり心地が良いらしいんだから」


 そう言って胸を張る姉、アイリス。

 確かに、実に豊満な胸をしている。

 しかし、それを誰かから聞いたかのように主張するという事は……。


「うわぁ……」

「ちょっと、引かないでよ!」


 折角励ましてくれた姉ではあるが、色情までは知りたくないわたしだった。

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