第3話
先導するウォーフが二度ノックをすると、短いソプラノが返ってきた。
どうぞ。という短い言葉には、何処か淡々とした事務的な声色を感じる。それが彼女らしくない声だったと思い至る頃には、扉が開かれていた。
赤い絨毯の敷かれた室内は、やはりと言うか懐かしさを感じる雰囲気があった。アンティーク調の家具で統一され、かと言って物が多くない景色は、あの国の美徳であった質素さと利便性を重視しているような気がした。
本棚一つ、執務用の机が一つ、応接用らしき机が一つと、ソファーが一対。
一つの領、或いは国の政治を統べる部屋だというのに、他国との同盟を示す国旗や、友好を記した絵画の一つも飾られていない様子は、今の群雄割拠の時代を思えばまるで稚拙なままごと。調度品すら飾られていないのは、それを受け取るに値しないようにさえ映る。
いいや――と思うのは、わたしがこの部屋の主を知るからか。
裏手の廊下にでも繋がっているのだろうか。対面にある大きな窓が開け放たれており、そちらから入った風がぶわりと音を立てて抜けていった。
バサバサと音を立てて飛び散る紙切れ。
その一枚、一枚が、とても大切な書類であるだろうに、机の向こうの女性は気にも留めず、優雅な動作で靡く白銀の髪を制していた。やがて彼女がゆっくりと立ち上がると、翼を得た筈の紙切れ達が空中でピタリと止まる。僅かに俯いたその顔がわたしの方へ向いた頃を見計らったように、薄っぺらい小鳥たちは音も立てずに机の上へと帰っていった。
無詠唱、無陣による魔法の行使。
それは叡智の粋の象徴であったハイルミィト家の特権。聖・リリィが滅びた今、彼女、アイリス・ハイルミィトにのみ許された唯一無二の技術だ。
「一〇〇〇と一二年ぶりかしら」
癖の無い白銀の髪は腰まである長さ。同じく銀色の瞳を宿す目は大きいものの、少しばかり落ち着きを思わせる垂れ具合だ。同じ色合いの睫毛も長く、眉も綺麗に整っている。スッと通った鼻筋と、唇が小振りなのもあって、目元と髪ばかりが印象的なのだが、その造形は細かな点を一つ一つ取り上げても完璧と言えよう。成長途中の少女を模したわたしと違い、二十代前半の容姿をした彼女は、胸も大きく、腰のくびれもしっかりしている。まるでそれらを強調するように、飾り気の少ない黒のワンピースを着ているのだから、誰がどう見ても絶世の美女だった。
彼女を七、八歳若返らせて、髪を肩のラインで切り落とし、少しばかり小生意気な顔付きにしたら、わたしの容姿になるそうだが……いやはや、それを隣に立つハゲに言っても信じて貰えるかは怪しい。尊大な態度が板についているわたしでさえふと息を呑む程、アイリスは銀の人形として極致に立っていた存在だ。醜い嫉妬をしていた者を除けば、彼女に高慢な態度を貫いていたのなんて、それこそわたしぐらいなもの。
聖・リリィの至高の人形。
片や最高の値で売られた姉と、片や捨て値で売られたわたし。
だけど、姉妹として育った過去は揺ぎ無い。
その大半を忘れてしまった今でも、幾つか思い出せる記憶の数々で、彼女は確かにわたしの姉だった。
周りから泣き虫アイリスと呼ばれてしまう程、わたしから質の悪い悪戯を仕掛けられても、必ず仕方ない子だと苦笑して赦してくれた。時に悪戯ばかりするわたしを不出来者だと馬鹿にする者がいれば、彼女はその優し気な顔を悪魔のように吊り上げて、取っ組み合いの喧嘩までしてくれた。やがて自分に買い手がつくと、値が下がっていくわたしを憂いて、行きたくないとまで駄々を捏ねてみせたか。
薄れていた筈の記憶が溢れ返ってくれば……ああ、こんなにも視界が滲む。
「あの悪戯っ子にこんな顔をさせるなんて。過ぎた時間の長さを改めて痛感する気分だわ」
「煩いわよ」
喉が震えて、言葉が揺れる。
悔し紛れの言葉は罵倒ではなく、負け惜しみのようだった。
だけど涙が止まらない。
何度手で拭っても次から次へと溢れ、零れていく。
生きている。
動いている。
ただそれだけで、こんなにも胸が熱い。
今まで銀の人形らしき者の噂を聞かなかった訳じゃない。だけどあの戦火が
なんて、そんな杞憂は何処へやら。
わたしはむせび泣くような醜態を晒してしまう。
勿論、聖・リリィの悲劇を全く思い起こさない訳ではない。
この塔をエンデンリアの塔だと察して先ず思い出したのは、聖・リリィにあったそれの最期の姿だ。芋づる式に思い起こされた記憶も、どれもが幸せな日々とは言えず、胸が痛むような心地だった。だけど……そう、『胸が痛むような心地』は、文字通りやけに他人事だったのだ。
失われゆく景色に握り拳を震わせた事も、アイーシャの亡骸を抱いて絶叫した事も、何千という軍勢を死に物狂いで殺し回った事も、そして失意と共に大好きな地を去った事も、もう全て過去。遠く悲しいだけの出来事になってしまったんだ。
そう自覚すれば、途方もない空虚感に襲われた。
だけどそれが事実で、それが生き物として正しい事だと分かってしまう程、わたしは長く生きてしまった。今流れ出ている涙さえ、この空虚感を含めた過去の様々なしがらみに対するものではなく、アイリスが生きている事に対する純粋な喜びの涙なのだろう。
むしろ未だに涙が流れる事が、我ながら一番の驚きだった。
「これじゃどっちが泣き虫か分からないわね」
やがてふわりとした温かみを感じたかと思えば、わたしの身体は柔肌に包まれていた。
ハッとして瞼を開けば、視界の片隅に白銀の髪。
鼻腔を懐かしい花の香りが擽った。
「ユクシール。わたしはてっきり、あの時心を失くしたものだとばかり……ごめんなさい。ごめんなさいね」
嗚咽で言葉を詰まらせるわたしを宥めるように、アイリスは一〇〇〇年前の出来事を語り始めた。
『あの日』、アイリスは、敗戦を悟った主人から成る丈多くの人形を連れ、聖・リリィを離れる事を命じられた。
エンデンリアの塔に居た幼い人形達を連れ出した後は、近くの領を訪れ、聖・リリィと共に心中しようとしていた人形を止めていたらしい。その道中でわたしが居るガルイン領にも訪れたのだが……ああ、勿論、あの時の事は強く覚えているとも。
最愛の主人であるアイーシャを喪ったわたしは、彼女を殺した
当時、わたしと似たような事をした人形は、何千という数に上るらしい。
主人を喪った悲しみは、外界の人間達への強い憎悪に。その衝動から思うがままに殺戮する行為は、そのまま主への弔いだったが……恨む先を全て殺した果ては、何も残らぬ虚無。そうして、多くの人形が心を失い、死んだ。
わたしが狂乱に落ちたと知ったアイリスは、已む無くガルイン領の人形達を諦め、聖・リリィを後にしたそうだ。
元より、全ては敵国からの停戦協定という甘言に、アイーシャを送り出してしまったわたしが悪い。だから、ガルイン領で犠牲になった者達には悪いが、その果ての殺戮について、わたしは一切後悔していない。それはきっと、わたしと同じことを他の領で行っていた者達も、同じだろう。だが、それを一〇〇〇年もの間、ずっと後悔していたらしい彼女には、返す言葉もなかった。
嗚咽混じりにそう言えば、わたしの肩でアイリスが二度頷いた。
「いいえ。生きているだけで、他は全て些事よ」
わたしを抱くアイリスの腕に、ぎゅっと力が籠った。
それはまるでわたしの存在を確かめるようだったが、一〇〇〇年という恐ろしく長い旅路を労ってくれているようにも感じられた。
程なくして解放されると、やはりと言うべきか、アイリスの頬にも雫の跡があった。
一〇〇〇年もあれば殆んどの景色は変わってしまうものだが、銀の人形ばかりは大した変化もないらしい。って、たった今数百年ぶりに涙を零したわたしが言うのも可笑しな話か……。
なんて思うと、何が起点か、変に笑えてくる。
くすりと噴き出せば、アイリスも困ったような顔で苦笑を浮かべた。
その表情の懐かしさと言ったら、堪らない。それこそわたしが悪戯を仕掛けた時、こんな風な顔付きで『仕方ない子』と言っていたものだ。
「ところで、そちらで待ち惚けにされているお方の紹介はして貰えないのかしら?」
そう指摘されて、思わずハッとする。
アイリスと抱き合ったまま素早く後ろを振り向けば、褐色の大男は腕を組んだままこちらをじっと見つめていた。その目付きは決して茶化すようではなかったが……いいや、状況が和みつつある事を察してか、はたまたわたしが垂泣していた事を今さら理解したのか、途端ににやけるような顔をして顔を逸らした。それと同時に手を口に当てて、「ぶふっ」と笑った。笑いやがった。
なんて意地の悪いハゲだろう。
「いや、悪い悪い。けどよ、あのユクシールが泣いて姉貴に縋ってるんだぜ? 笑うなって方が無理だろう?」
「じ、自分に聞かれましても……」
挙句、扉の前で大人しく待機していた騎士団長に同意を求める始末。
その笑顔の気持ち良い事。まるで仲間の婚儀を祝っているかのように、わたしを親指で指して、「あいつにも人の心があったんだな」って、あからさまにとても失礼な事を言っていやがるではないか。
なんて糞野郎だ。
もう一度言う。なんて糞野郎だ。
思わずわたしはアイリスの腕から抜け出して、彼へ向けて大股で距離を詰めていった。
「そんなだからモテないんですよ。このハゲ!」
「煩ぇ。俺のハゲはお前が心労かけやがるからだ。このじゃじゃ馬婆さんが」
「失礼な! もう一回とっちめて差し上げましょうか」
「おーおー、怖い怖い」
「そうやっていつもいつもぉ!」
「いつもいつも面倒事引っ掛けまわす短気な婆さんは誰だろうなぁー?」
わたしが凄んでみても、耳に小指を突っ込んでとぼけた顔をする褐色ハゲ。
いや、しかし、その言い分は中々痛いところを突いてきている。
この男は基本的に波風立てぬ奴で、売られた喧嘩も妙な豪快さで誤魔化してしまうような奴だ。先の名もない町での悶着のように、毎度あんな感じで血が流れないままうやむやになる。少なくとも彼の斧はこの三年間、殆んど血に濡れていない。
わたしが返す言葉に詰まり、獣のような唸り声をあげて威嚇してみれば、彼は見計らったように小さく溜め息。その後、わたしの頭に硬く大きな手を乗せて、ポンポンと優しく叩いてきた。
不躾な行いに更にムッとして手を払い除けて睨んでみれば、彼はやはりにやりと笑っている。だけどいつの間にか先程の邪気が抜けていて、わたしが姉と再会出来た事を祝福してくれているようにも見えた。
全くもう、調子が狂う……。
わたしが罵詈雑言を腹の底へ押し戻すと、彼はやおらアイリスへ振り向いた。
「アーレス・ルゥトリェン・アイルカルナだ。腐れ縁でユクシールと旅をしている」
そう言って片手を挙げて気さくな挨拶をする。
一国の主が相手とは思っていないのだろう。あくまでもわたしの連れとして、見た目相応の態度だった。
「アイリス・ハイルミィトです。このベルトルークを治めております」
対するアイリスはと言えば、何とも仰々しい挨拶をしていた。
代表者らしい立ち振る舞いと言えば良いだろうか。下手に頭を下げる事なく、腰を僅かに屈めてワンピースの端っこを手でつまんでいる。その仕草はやけに様になっていて、彼女が人の上に立つようになってからの年月の長さを窺わせた。
それそのものは特に思惑あっての事ではないだろう。各々の気質から来る所作の差といったところ。
だが、一通り名乗りを終えたアイリスは、何処か腑に落ちないと言うように、顎に手を当てて僅かに俯き、眉を寄せた。
「アイルカルナ……その名に、聞き覚えがあります」
と、再度口火を切るアイリス。
彼女の言葉で、わたしはその表情の意味を察した。
ちらりとアレロさんへ目を向ければ、彼の顔から先程までの柔和さが失せて消えていた。彼はわたしを一瞥した後、小さく溜め息。最近ではめっきり見せなくなった真面目な顔付きをほんの一瞬だけ見せたかと思えば、まるで『何だ。そんな事か』と言わんばかりにふっと笑った。
傍から見れば困ったようにも見えるその様子。だが、彼の性分だろうか……その心情はそっくりそのまま態度に表れている。
それこそ長い付き合いから分かるようなものだが、ピンと背筋を伸ばしているところなんてもう長く見ていないもの。彼の背丈までもがいつも以上に大きく映るのだから、近親者からすればこれ程分かりやすいものはない。
そういえば、この男は元々、威風堂々とした姿が評判で、新米の騎士達の憧れになるような猛者だった。酒場で裸の美女に鼻の下を伸ばしているような姿とは、似ても似つかない『聖騎士』だった。
やれやれと言ったような苦笑のまま、彼は小さく頷いた。
「ああ、お察しの通りだろう。俺は元々、アイルカルナ聖騎士団の出だ。そんでもって、アルカナ王国の落日……あれを引き起こしたのも、俺とユクシールだ」
「わたしの記憶が正しければ、わたしはアレロさんにそそのかされたんですけど……」
解釈の違いを口にする。
とすれば、アレロさんはハンと笑ってわたしを流し見にした。
「何だ。あのチビで下衆な性欲しか頭にねえような王の下にいたかったのか?」
大胆不敵な顔付きで嫌らしい事を言う。
そんな訳あるか。と、わたしは舌を出して応えた。
アレロさんの言う通り、あの王は正しくチビで下衆で性欲しか能が無い奴だった。昨今のアレロさんも似たような言葉で言い表せられる気がするが……いいや、彼とは違う。あの王は本物の悪党だ。人情味をこれっぽちも持ち合わせておらず、権力欲しさに実の父を手にかけるような奴だった。
「成る程。狂王と呼ばれたアルカナ三世の暴挙。それを止めたのは、アイルカルナ聖騎士団の団長……でしたね。まさかその名の象徴の人だとは思わなかったわ」
アイリスは少し驚いたような顔をしていた。
後ろで身動ぎした気配を感じ、振り返ってみれば、良い門番をしていた筈のこの街の騎士団長までもが、目を丸くして顎を震わせている。
まあ、それ程の人物なのだ。この男は。
アイルカルナ聖騎士団、第五代目の団長を務めた彼は、たった一つの功績しか挙げていない。世界の史実を纏めた本があったとしても、彼を記すにはおそらく一ページも要らないだろう。
だが、その功績があまりに大きいのだ。
今は亡き、アルカナ王国。
その国は昔からあった強国が一つに纏まり、建国された事で有名だ。
当然のように大陸の覇権を担う一角としても知られており、連合を一つに束ねた初代アルカナ王は勿論、その後を継いだアルカナ二世も戦の神に愛された賢王として語り継がれている。
また、王を支えたアイルカルナ聖騎士団も、大陸上比類無き程に巨大かつ、あまりに強かった。二四人の将が率いる軍勢は、魔導士を有さずとも大国を攻め落とし、逆に魔導士を相手取っても怯む事無く勇猛果敢に戦った。故にその領土は恐ろしい速さで拡大し、全盛期はこの広大な大陸の五分の一を制したと言う。
とある小国がこれに攻め入られては敵わないと、先以って降伏宣言をしに伺ったという話が、賢明を示す比喩表現として定着した程だった。
だが、その栄華もアルカナ二世が息子のアルカナ三世に暗殺されるまでの話。
それ以後、この国の戦争は、たった一人の魔導士が敵国を灰燼と化すというものへと変わる。アイルカルナ聖騎士団も同時に、歴史の闇へと消えていった。
なんて、気取った事は要らないだろうか。
その魔導士とは、つまるところわたしの事だ。
二四人の将達はアルカナ二世に忠義を誓ったが為に、アルカナ三世を逆賊として討つ事を掲げ、全滅した。わたしというたった一人の銀の人形の手によって。
残った雑兵達が新たなアイルカルナ聖騎士団を名乗るようになってからは、彼等の役目は戦争ではなく、殆んどわたしの世話係だった。その扱いは最早栄光の時代とはかけ離れ、自国の民からも邪知暴虐の王を容認する賊のようだと言われていた。
だが、それもまた、一時の事だった。
アルカナ三世が即位してから七年後。
ある一人の男が決起し、件の魔導士を討伐。抵抗を示した近衛隊を、賊と呼ばれるまで落ちぶれていた筈のアイルカルナ聖騎士団が撃破し、アルカナ三世を討ったのだ。
災厄とまで呼ばれた魔導士の撃破もさることながら、雑兵しか残っていなかった筈のアイルカルナ聖騎士団を密かに鍛え抜き、たった一晩で王城を攻め落とし、王を討つまでに成長させていた男。しかし彼は、全てが終わった後、民に向けて、長くアルカナ三世の凶行を止められなかった事を詫びると共に、王亡き国を継がず、解散する事を宣言したのだ。
それこそが、この男、アレロさんの唯一と言える功績。
まあ、その実態は、災厄の魔導士ことわたしと斬り結びこそしたが、わたしを討伐する事は敵わず、七年の付き合いからわたしがほんの気まぐれに事情を聞いて、籠絡された。そして、わたしが協力したからこそ、一晩で王城が落ちた……と言ったところなのだが、まあ何はともあれ、彼は救世の英雄となったのだ。
「それは……不出来な妹の行いを詫びた方が良いのかしら」
ざっくりとしたあらましを聞いて、アイリスは困ったような顔でわたしを一瞥した。
まあ、わたしも思うところが無い訳ではない。
アルカナ三世に仕えたのは、彼の父であるアルカナ二世が『聖・リリィ』の跡地を狙って領土を拡大しているという言葉に騙されたからなのだが……いや、己の行為を振り返える機会が多いから思うが、わたしは色々と騙されやすいな?
と、呑気な事を考えていれば、大きな溜め息が聞こえてきた。
ゆっくりと振り返ってみれば、元聖騎士団の団長が、荒くれに相応しい俗な顔付きに戻っていた。
「いらねーよ。
何とも彼らしい返答だった。
とはいえ、あれ以来、わたしは己の生き方をある程度反省している。
あの頃のわたしは、彼に『お前がやっている事は聖・リリィを攻めた外界の王と一緒だ』と指摘されて、真っ当な反論が出来なかった。アイーシャを喪ってから、知らず知らずのうちに心が荒んでしまっていたのだろう。論破されて初めて、己のやってきた事の罪深さを知った。
無論、それを踏まえても、わたしはあくまでも独善的な奴なので、他人の命を大事にしようなんて高尚な事は思いやしないが。ただまあ、わたしを諭したこの男は、確かに慈悲深く、わたしに殺された内に自らの父親が居たとしても、復讐心の欠片も見せない奴だった。
そう、まるで、それが当然の事だと言わんばかりに振る舞う物語の勇者のように。
だから、わたしはこの男の事を気に入ってしまったのだ。
と、わたしが感心したのも束の間。
アレロさんはわたしをちらりと見やって、小さく溜め息を吐いた。
「それより俺に付きまとって嫁探しを邪魔している事を咎めてくれ」
「あ、そういう事言います?」
「事実だろ」
「違います。アレロさんがアルカナ王国の解放宣言を出した時、わたしに好きにしていいって言ったじゃないですか。好きでアレロさんに付きまとってるんですから、貴方に拒否権はありません」
わたしが頬を膨らませてそう言えば、アレロさんは深く項垂れて、再度大きな溜め息を吐いた。
「ほら見ろこれだ」
と、愚痴る彼だが、そもそも可笑しな理屈なのだ。
わたしが勝手に付いて来ているだけで、どうして結婚出来ないのか。したければしたら良い。聖・リリィじゃ世話係の人形を持つ夫婦なんて大勢いた。自分で言うのも可笑しな話だが、下僕を雇っている家庭だって珍しくはない。
わたしは夫婦の営みを邪魔したりはしないし、彼の生活に協力的だ。家事は勿論、悪党に襲われたら守ってやっても良い。
ただただ彼の人となりを気に入っているから、飽きるもしくは、死ぬまで観察させてくれたら良いだけだ。
何が気に食わないんだか、わたしにはさっぱりだ。
わたしがそんな事を抗弁すると、見計らったようにアイリスが「うーん」と困ったような声を上げた。
「解決法が無くはないけど……」
「お!? あるのか?」
思わずといった様子で食いつくアレロさん。
対するわたしは、やけに含みのある言い方に小首を傾げて見せた。
わたしがどうするかはわたしの意思なので、解決もへったくれもないと思うのだが……と、考えるわたしをそっちのけにして、アイリスはやけに清々しい笑顔を見せた。
「ユクシールの主になって、自害を命じれば良いわ。まあ、折角再会出来た可愛い妹にそんな事をしようものなら、わたしは持ちうる全ての権力を行使して、貴方を死ぬより辛い目に合わせますが」
「解決してねえじゃねえか!」
姉の提案は思った以上に酷いものだった。
わたしが原因ではあるものの、苦笑を禁じ得ない。『解決法』だなんて言うものだから、もっと可笑しな事を言うものかと思った。それこそわたしとアレロさんが結こ……いいや、何でもない。この考えは無かった事にしよう。
自らの考えに首を横に振る。
とすれば、見計らったようにアイリスが「じゃあ」と言った。
「ユクシールと結婚するしかないんじゃない?」
その瞬間、場の空気がピシリと音を立てて凍り付いた。
相も変わらず穏やかな風が抜け、それに揺られたカーテンが小さな音を立てている。しかしそれらはまるで空虚な時を刻むように、何の感慨も無いものとして実際に経過している時間と共に過ぎ去っていった。
言葉を吐き出したアイリスはにこやかな顔のまま。
後ろに立つウォーフが虚無の時間を怪訝に思ったのか、こちらを窺うような音を鳴らす。
可笑しな静寂はその後更に続き、ついにアイリスが笑みを苦笑に歪めて小首を傾げてしまう。
「あの……冗談よ?」
そしてそう言った。
それがどういう切っ掛けになったかは兎も角、停止していたわたしの思考が、長い潜水から漸く水面を割ったかのように、息を吹き返した。
「じょ、冗談! そ、そうよね。冗談よね!」
アイリスの言葉に同調を示し、「冗談ですよ!」と、アレロさんを振り返る。
とすれば、彼はやけに神妙な面持ちで、明後日の方向を見やって考え込んでいるようだった。
やけに上気している身体の促すままに、衝動が口を突いて出る。
「もう、何を呆けてるんですか。まさか本気にしたんじゃないですよね?」
「馬鹿言え」
彼はそう短く言って、小さな溜め息を一つ。
ならば先程までの空虚な時間は一体何だったのか。
と、わたしが疑問を抱いたところで、彼はゆっくりとアイリスへ向き直った。
「聖・リリィじゃ、人形と人間の結婚なんて認められてたのか? 別に
アレロさんはそう言って、何処か居心地が悪そうに後頭部を掻いた。
彼の疑問は当然……なのだろうか?
言われてみればという点もあるが、それを態々確認するところに何やら思惑があると思ってしまうのは、彼がその実用意周到な人間だと知っているからだろうか。
まあ、隠すような事でもないだろう。
そう思った矢先、アイリスがこくりと頷いた。
「ええ。そうよ。認められていたと言っても、幾つかルールがあったけれど」
そう言って、アイリスは指折り説明していった。
人形は人間の価値観を尊重しなければいけない。
よって、夫婦関係になった人間が離別を希望した際、人形はこれを拒否出来ない。また、その際、人形は必ず処分されなければならない。一度離別を選択した人間は、新たな人形を持つ事を許されない。再婚も人間を相手にした場合に限る。
また、人形は子を成せない為、貴族階級以上の者の正妻にはなれない。つまり、子供無き貴族は人形と結婚してはならない。但し、子と正妻が死亡している場合は、後継者が決まっている場合のみ可。
「他にもルールはあったけれど、大体は人形蔑視だったわ。まあ、元々わたし達は人間をサポートする為に作られたものだから、当然ではあるけれど」
ざっくりと解説を聞いたアレロさんは、小さく肩を落としたように見えた。
「どだい信じらんねえ話だな」
どういう意味か。
彼は怪訝な顔をするわたしをちらりと見て、小さく溜め息をついた。
「人形は人に好かれる容姿に作られるんだろう? そんなルールが認められてたら、子供は増えない。人形ばかりが増えて、いずれ数が逆転する。となれば、何らかの特例を切っ掛けに人形が実権を握るようになるだろう。それとも人形に野心家はいなかったとでも言うのか?」
一〇〇〇年も前に滅びた国へケチをつけるのも可笑しな話だが、と彼は締めくくる。
まあ、言わんとする事は分かる。
聖・リリィが滅びてからこちら、外界の技術を多く目にしてきたが、どれもあの国には遠く及んでいない。だからこそ、彼は『聖・リリィが完璧な国だった』と思っているのかもしれない。
わたしは短く、「違います」と言った。
どう違うのかと問われて、首を横に。
「アレロさんの考えが……ですよ。実際に聖・リリィはその問題に直面していました。直面していたからこそ、外界の王の訪問を受け入れてしまったのです」
そう。
聖・リリィには人間が少なかった。
人形を教育する巨大な塔があっても、人間を教育する施設は小さな学び舎で済む程、その絶対数に差があった。だからこそ、至高の人形とまで言われたわたしでさえ、捨て値で売られるような状況があったのだ。
今でこそユートピアのように語られる聖・リリィだが、あの国では酒の肴にすらならないようなドロドロとした恋愛模様がそこいらじゅうにあった。先程言った法律さえ、その実単なる様式美の側面が強い。事実、男女問わずに不貞を働く主人が多く、裏切られた人形たちが自死を望み、しかしそれが叶わないと言った事案が絶えなかった。外界の王の来訪に、邪魔になった過去の人形の処分先が出来るかもしれないと考えた愚者は少なからずいただろう。
こう言っては清楚に生きたアイーシャが報われないが、聖・リリィの住人達は滅ぶべくして滅んだと言える。少なくとも、わたしはあの戦争の切っ掛けに、聖・リリィの住人の傲慢さが少なからずあると思っている。
わたしがそう言えば、アイリスはやや俯き加減で、同意を示した。
「御伽噺では外界の王が諸悪の根源として、その報いを受けた風に書かれがちだけれど、実際はもう少し拗れてた筈よ。まあ、当時の話なんて気分が悪いだけだから、誰かに共有する価値もないように思うけれど」
しかめっ面のようにも映るその表情は、当時の心境を言葉なくして雄弁に語るようだった。
確かに、折角一〇〇〇年ぶりに再会したのに、態々嫌な記憶ばかりを呼び覚ますのはあまり気持ち良いものではない。今の世の人々に銀の人形を作る技術が無い以上、アイリスの言う通り生産性の欠片もない話だ。
わたしもアレロさんに対して、聖・リリィの文化に忖度して欲しいとはこれっぽちも思っていない。
「そうか。そりゃすまない事を聞いたな」
「いいえ。知らない事を敬遠するのは、愚者のする事です。気にしないで下さい」
少しばかり罰が悪そうな顔をするアレロさんと、一転して微笑みながら返すアイリス。わたしにとって近しい筈の二人の表情は、しかし不揃いなばかりだった。
話題が尽きて、僅かな沈黙が流れる。
ぶわりと吹いた風が一同を撫でて過ぎ去っていけば、視線は自然とベルトルークの街並みへと移った。
先程じっくり観察した景色の筈だが、アイリスとの面会で知らずのうちに緊張していたのだろうか。真っ白だと思っていた街並みが、何故か色鮮やかにも見えた。とはいえ、建物の彩りは元の印象通りだ。街を行き交う人々を認識して、はじめて色付いたような、そんな感覚だった。
不思議と、胸が温かい。
「一〇〇年と少し前だったかしら」
アイリスの声に、視線が導かれる。
彼女もまた、ベルトルークの街並みを見つめていた。しかしその目は、何やら別の景色を眺めているように揺れていた。
「小屋ひとつしかなかったこの場所で、一人の人間と出会ったわ」
聖・リリィを出たアイリスは、長くこの大陸を旅して過ごしてきた。
その目的は、国を出た時に連れ出た幼い人形達の居場所を見つけること。それがハイルミィト家の主人から託された最後の命令だとして、忠実に、且つ真剣に、彼等の再出発を見送る事に尽力した。
そして、ついに最後の人形を見送り、役目を終えた。
「当時のわたし……まあ、今もかもしれないけれど。融通が利かないものだったから。これからの人生は自由という名前の無価値なものになるのだと思ったわ」
まるで恋焦がれて歌を詠む人を演ずるように、アイリスは虚空に微笑みかけていた。態とらしく見えないのは、彼女の言葉から誰かを想う温かみが感じられたからだろうか。
どうせ持て余した時間だ。
アイリスは知的探求心の促すままに、旅の途中で見かけた印象深い土地を巡る事にした。そうして本物の旅人になってみれば、旅先の感動を誰かに伝えたくなって、吟遊詩人の真似事なんかもしてみたりした。しかし、優れた容姿を持つアイリスはすぐに売れっ子になってしまうので、同じ土地に長く滞在する事は出来なかった。顔が広くなればなるほど、厄介事が多く降りかかってきたからだ。
そうして旅人から本物さながらの吟遊詩人になり、それも板についてきた頃。だだっ広い森だったこの場所で、野盗に追われる情けない騎士を助けたらしい。
「ベルトルーク。自分の命を狙う賊であっても、残される近親者の気持ちを考えたら剣を仕舞ってしまうような甘ったれた騎士だったわ」
そう言って零すアイリスの頬は僅かに色付いていた。
アイリスは元々、幼い人形たちを守る為、その模範である為、ハイルミィト家に仕えていた。だから、騎士の生業を放棄しているその人物に対して、厳しい言葉が口を突いて出た。
賊の家族を憂うくらいなら、この先その賊に殺されるであろう守るべきもの達を憂うべきだ。甘さは優しさではない。負うべき責務を放棄しているか、はたまた責任の重圧を恐れる臆病さだ。
気が付けば、傷の手当てをそこそこに、思い切り説教してしまっていた。
「本当に情けない人で。結局、終ぞ名を上げる事がないまま、死んでしまったわ」
アイリスはそう言って、哀愁の笑みを浮かべる。
だけど、と続く言葉は、予想が出来た。
「放っておけなくて一緒に過ごしていたつもりの二〇年。彼はゆっくりとだけど、本物の英雄になろうとしていた。もうあと一〇〇年あれば……歴史書に名を残すような偉人になっていたかもしれないわ」
クスクスと笑うアイリス。
彼女自身、言っている事が支離滅裂な事は分かっているのだろう。
どれだけ崇高な志を持っていたとしても、半ばで倒れた者は、『犠牲』でしかない。成し遂げてはじめて、そこに価値が生まれる。
アレロさんの他に、災厄の魔導士を籠絡しようとした者がいなかった訳じゃない。アルカナ三世へクーデターを企てた者も、一人や二人じゃなかった。そのうちの誰かが英雄たる志を持っていたとしても、結局、アーレスという男が成し遂げるまでは、ただの犠牲者でしかなかったのだ。成し遂げた者が出て、はじめて価値が生まれ、彼等を称える声が上がった。
英雄とは、成し遂げた者と、その道程を開拓した者たちを労う言葉なのだ。
「彼が死んだ時、わたしは漸く余生に意味を見付けたわ」
だから、そのベルトルークという騎士は、アイリスの手によって『英雄』になろうとしていると言える。
先駆者として志半ばで力尽きた彼の想いは、受け継がれて、今、此処に国として存在しているのだ。
「彼が望んだ世界。誰もが争わず、戦争と無縁な楽園。それを作ってみせよう……そう、思ったのよ」
何処にでもあるような恋物語を、稀代の英雄譚にする。
アイリスは暗にそう言っていた。
彼女がゆっくりとわたし達を振り向く。その顔は先程までの恋に恋する少女のようなそれではなく、英雄譚に相応しい威風堂々とした表情だった。
「ユクシール。そして、アーレス様」
改めた態度は、わたしの姉としての姿ではない。
ベルトルークという国の王が、先駆者が開拓した道を歩む英雄が、そこに居た。
「わたしは、貴方たちの力が欲しい」
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