第2話
※
名も無き北端の田舎町から南東に向かうこと、三日。
道中、屋根が恋しいと煩いアレロさんの為に、魔法で粗末な小屋を造ったりはしたけれど、他に特別なことは何も無く。ひたすら街道を歩き、幾つかの高原や山を越えれば、やがて街が見えた。
ベルトルーク。
円状に発展した街であり、その規模はそこそこという表現がよく似合う。一つの街としては人口三〇〇〇人を超すのは珍しいものの、これが首都であるとすると決して大きな都市とは言い難いだろう。まあ、そもそもこのベルトルークはどの国にも所属していない『中立国』であるので、それも無理からぬ話。聞くところによると近隣で戦争をしているガロン王国とファーファネロ王国に対して、どういう訳か対等の停戦協定を結んでいるそうだ。
中央に領主が住まう塔があり、街はこれを中心として平たく広がっている。
建築様式は世界的にあまり珍しくもないシンメトリー調が多く見られ、外壁の屋根の色合いも白が多い。奇抜な建物が少ないという事は、貧富の差による権力の誇示が少ないと見て良いだろう。ちらりと見た路地裏に死体が転がっている様子もないし、内政は比較的しっかりと行われているようだ。
気になる点とすれば、何処にも他国の旗が無い事。
中立と言えば聞こえは良いが、強国の庇護に入っているでもなければ、そんな存在は認められないのが世の常。あっという間に大国が押し寄せて、占領されてしまうものだ。特にこのベルトルークは周囲の見晴らしが良い高台に存在する街なので、立地的にも申し分なし。宗教国として有名なガロンならば攻めない理由があると思う事も出来るが、領土拡大に抜け目が無いファーファネロについては何故攻め落としていないのかがさっぱりだ。
まあ、流浪の身であるわたしやアレロさんには知ったこっちゃない事か。
ファーファネロとガロンの戦争に巻き込まれずに大陸の南へ行くのなら、このベルトルークを経由して大きく迂回する進路を取るのが最適。態々立ち寄る理由と言えば、少しばかりの骨休めと物資の補給だ。
「いらっしゃい」
宿の戸を開くと、老婆が慣れた様子で柔らかな笑みを向けてきた。
これまた中立国では珍しく、よそ者を嫌う様子が無い。道中で見た住人の様子も穏やかそのものだったので、やはりどういう訳か荒事とは縁遠い国なようだ。
「旅の道中だ。三日程泊まりたいんだが、幾らになる」
「お二人様ですね。ご一緒の部屋で構わないのでしたら、一泊二食付きで五〇〇〇クォーツでございます。金貨に直すと、三泊で小金貨二枚に少量のお釣りが出るといったところでしょうか」
老婆はそう言って手元に小さな案内板を用意した。
アレロさんの横から覗き見てみると、分かりやすく値段が書いてある。老婆が案内してくれている値段だと、二番目に良い部屋のようだ。旅行ではないので一番良い部屋を勧める理由はなく、かと言ってみすぼらしい恰好をしている訳でもないので、ゆっくりと休める部屋が妥当だと判断したのだろう。
ちらりとこちらを見やってくるアレロさんにこくりと頷き返す。
旅人の身からすれば、無下にされないだけ有難いというもの。夜中に闇討ちしてくるような物々しさも感じないし、他所の宿と比べて回る必要性は感じられなかった。
「じゃあそれで頼む。あとで手入れの為の武具店や美味い飯屋なんかも教えて貰えると助かるが、頼めないか?」
言い値通り小金貨二枚を置くアレロさん。
としたところで、僅かに無言の時間が流れる。
返事が無い事に違和感を覚えて老婆を振り向けば、何やらわたしを見て目をパチパチと瞬かせていた。まるでお化けでも見たようなその顔は、しかしわたしと目が合うとすぐにハッとして、「ああ、いえ。あまりにお美しい
アレロさんが改めて問いかけると、老婆は再度丁寧な対応に戻った。
「贔屓にしている案内人がおります。呼び出しておきましょう」
「助かる。釣りは手間賃として受け取ってくれ」
「では、有難く」
外観からは大きな宿のようには映らなかったものの、案内された部屋は二階の一室だというのに、十分過ぎる広さをしていた。
木目調の家具で統一されたリビングには大きなソファーと机があり、おまけのように小さな台所もある。寝室は別で、そちらには大きなダブルベッドに加え、クローゼットとドレッサーまで用意されていた。トイレや風呂も共同ではなく個別に用意されているので、設備の整い具合といえばかなり上質だと言えるだろう。
掃除も行き届いており、ベッドのシーツには皺や染み一つ無い。流石に家具は多少傷んでいる様子が見られたものの、すぐに壊れるようなボロという訳でもなかった。
これが三泊で小金貨二枚というのだから、中々安いのではないだろうか。とはいえ、相場から一割引きといったところなので、身の危険を感じる程でもないか。
案内人が来たら連絡を寄越すと言って老婆が去ると、アレロさんは荷物を適当に放り投げ、ソファーに倒れこんだ。
「中々良い部屋じゃねえか。なあ?」
「ですね。まあ、少し気になる反応がありましたけど……」
わたしも荷物を下ろし、一人掛けのソファーへと腰を下ろす。
横向きになってこちらを振り向くアレロさんは、片肘で頭を支えながら「ふわあ」と大きな欠伸を一つ。それが止んでから、気だるそうに頭を支える手でこめかみを掻いた。
「確かにお前の顔見て、何やら知った風な顔をしていたな」
「ええ。誤魔化した時に髪の事を言われたのも気になりますね」
「だな」
銀髪というのは決して珍しい髪色ではない。
だが、聖・リリィで造られた人形は全て鮮やかな銀色の髪と目を持つという特徴がある。魔法を使って誤魔化さない限りはその見た目がずっと変わらず、保全機能によって常に美しく保たれるというのも、これまた特徴の一つだ。
自他共に認める容姿なので人目を引く事自体は珍しくないが、誤魔化す際に髪を持ち出されたからだろうか。何処か引っ掛かってしまう。
勿論、あの老婆が以前に別の『銀の人形』と出会っている可能性は否めない。
ただ、髪や目の色を除けば、『銀の人形』の造形の幅は広く、作り手の美意識によって見た目は大きく異なってくる。身長や性別、肉付きやら骨格まで、それこそわたしとは似ても似つかない者もいた。難なら同じ作り手だとしても、わたしとわたしの弟にあたる人形は全く見た目が異なっていた。
その点を考慮すると、わたしの顔を見た時のあの反応と言えば、わたしかわたしと容姿が良く似た姉を見た事があるとしか……まあ、美人は印象に残りやすいものだろうし、無くはないか。排他的なわたしは兎も角、姉は困った人を放っておかない性格をしていたので、色んな人と関わり合いがあっても不思議ではない。とはいえ、この広大な大陸においては、まさかの域を抜け出ない話ではあるが。
「どうする? 早目に発つか?」
物思いに耽っていると、アレロさんがややうんざりしたような声を寄越す。
彼としては屋根のある落ち着いた場所は惜しいものの、面倒事はごめんだと言いたいのだろう。
わたしは首を横に振った。
「大丈夫でしょう。街の雰囲気を考慮すると、そんなに物々しい事にはならないと思います。仮になったとしても、寝込みを襲われるぐらいは慣れっこですし」
アレロさんの生活に合わせる意味で、わたしは日頃、睡眠や食事をとるものの、無限器官という魔力の源がある以上、それはそこまで重要な意味を持っていない。難なら寝ずのままでも一ヶ月はまともに動く事が出来る。それ以上となると精神的に参ってしまうものの、まあ三日やそこらならずっと起きたまま彼の睡眠時間を守ってやるのも
わたしがそう補足すると、アレロさんは「そうか」とだけ返してきて、そのまま瞼を閉じてしまった。
暫くして聞こえてくる小さな寝息。
どうやら案内人が来るまでの間、少し休むようだ。
腕の良い騎士は纏まった睡眠を取らず、休める時にこまめに休むもの。彼のそれは、その時代からの名残だろう。仰々しい紋章を外してから三年経ったとはいえ、命を懸けていた仕事でついた癖は早々抜けないものか。
わたしは外行きのローブを脱ぎつつ、足許のバッグを開く。中から本を一冊取り出した。
そのままローブをひざ掛けにすると、ゆっくりと一ページ目を開いた。
『コディーア大陸の真実』と銘打たれたその本は、とても年季がいった見た目をしていた。角は欠け、ところどころ字は霞み、紙は茶色に日焼けしている。都会にあるようなまともな書店ならば、売らずに捨ててしまうような状態だろう。
先日訪れた田舎町で手に入れた逸品なのだが、どうやらこの大陸の更に北にある未知の大陸で発掘された品物らしく、オークションで出されたところを中金貨二枚で競り落とした。この時代の人々が読めた文字ではないだろうに、大した値段だ。
なんて思うのもその筈。
わたしはこの本を読んだ事がある。
わたしがこの世にある全てのものを輝きと共に見た、聖・リリィにいた時代。あの頃に読んだ書物の中では、あまりに奇想天外、奇天烈なお話で、全然面白いとは思えなかったか。折角お館様が買ってきてくれたというのに、一読したあとは本棚の片隅に置きっぱなしだった筈だ。だが、何処かの誰かにとってはかけがえのない本だったのだろう。一〇〇〇年経っても読める状態で残っているのは、保護の魔法がかけられていたからだ。それでも流石に傷み切ってしまっているが……まあ、それ程に長い時間だったのだ。
当時はつまらないと吐いて捨てた本を、まさか一〇〇〇年経って大金をはたいて買う事になるとは。
わたしはくすりと笑って、一度開いた本を優しく閉じた。
両手を表紙の上にそっと重ねて、ゆっくりと目を瞑る。
安寧を約束する。
想い人と出会うその日まで。
悠久を渡る旅人たれ。
詠唱を口にした後、手の平に魔力を集中する。
ゆっくりと目を開けば、本が淡い真白の光に包まれていた。が、程なくしてその光は染みこむようにして消える。
効果を見て、わたしは良しと微笑む。
これであと五〇〇年はこの状態を維持出来るだろう。
難なら新品に復元しても良かったのだが、これはこれで味があって良い。中を開いた感じだと読めない程ではないし、紙が貼りついて離れない様子もなかった。古書には古書の良さがあるものだ。
因みに中身を読むつもりはない。
あくまでも感傷に浸る為に買ったものであって、一度つまらないと思った本を取り急ぎ読む理由も無い。いつか暇で暇で死にそうになった時や、どうしても故郷が恋しくなった時の為に取っておくつもりだ。
わたし達『銀の人形』というモノは、身体の仕組みこそ人間と大きく異なるものであれ、精神的な部分は人間と殆んど同じだと言える。大切な思い出であっても忘れていく事はあるし、悲しみに暮れて絶望する事もある。それこそホームシックにかかった事なんて、片手で足りる訳がない。心無い者から一〇〇〇年も生きている癖にと笑われた事もあるが、長命であるからこそ、家族や故郷という心の拠り所が人間以上に大切なのだ。
人間も人形も、一人では生きていかれない。
命ある限り、誰かと分かち合って生きている。
だけど、わたし達人形は、悠久の時を生きるよう造られた。
『銀の人形』が死ぬ理由は二つ。
主人が自死を命じるか、心を失くしてしまうかだ。
だからこそ、わたしは大切な主人や故郷を失って尚、生き続ける事を強いられている。時に、今、視界の外れで呑気な寝息を立てている男のように、稀有な感情を抱かせてくれる者を見付けても、わたしはやはり、見送る側なのだ。
『ユクシール。ごめんね。こんな時になっても、あたしは貴女に死ねと言えないの』
瞼を閉じれば、鮮明に蘇る光景。
大切な主人の声。
黒い髪が美しかった少女は、その髪を煤まみれにしながら、わたしに懺悔した。
それが最期の邂逅となって、彼女は戦火の果てに消えてしまったのだから、何と救いの無い話なのか。
一〇〇〇年経っても、忘れようが無い。
忘れたい事だけ、忘れられないでいる。
わたしは彼女を……アイーシャを、恨めば良いのか、赦せば良いのか。そればかりを考えて、考え続けて、結果が出ないまま、今に至っているのだ。彼女を深く理解し、愛していたからこそ、彼女の懺悔を理解出来るし、共に終わりを迎えたかったとも思う。
灰燼となった聖・リリィ。狂乱に落ちた人形達によって嬲り殺しにされた外界の王と、その軍勢。あの御伽噺のような結末が本当であれば、わたしは悩んだりしていないだろう。
希望も慈悲もない。
そんな世界だからこそ、わたしの自問自答の果てはいつも、『アイーシャを赦したい』なんだ。
だけど、心の底から赦せていないから、わたしは生きてきた。
迷子のまま、ずっと……。
「はあ……」
小さく溜め息をついて、未だ膝の上にある古書をそっと撫でる。
もう数えきれない程に繰り返して来たちょっとしたホームシック。もう流石に涙が出る程恋しくなったりはしないものの、やはりわたしの起源は失われた古代都市にあり、存在意義も一〇〇〇年前の故人に依存しているのだ。
そう客観視出来るだけ、わたしも年を取ってしまったのだろう。
考えとは裏腹に、身体の熱量さえ上がらない。
無頓着に物事を考察しているような感覚で、大切だった筈の出来事を思い返すのだ。
そう思うと己がド畜生のようにも感じるのだが……まあ、あながち間違ってはいないだろう。アイーシャに仕える前のわたしは、エンデンリアの塔の頂上から人形の友達を突き落としたり、姉のアイリスの胸を公衆の面前で揉みしだいたり、弟のズボンを浚って街中を走り回ったりと、大概な奴だった。
まあ、そんな残念な性格をしていたからこそ、聖・リリィの最高傑作の一体だと呼ばれた癖して、貧乏貴族のガルイン家が購入出来る金額で売られたのだが。
そんな事を考えていると、先程アレロさんと話していた際の考えがふと蘇ってくる。
小さな吐息と共に、何の変哲もない真白の屋根を見上げた。
「アイリス……か」
言葉にすれば、続いて『元気かしら?』という考えが浮かぶ。
ド畜生はド畜生なりに、いっぱい泣かせていっぱい泣かされた思い出深い姉を、一〇〇〇年経っても貴んでいるのだ。生きているなら逢いたいし、何か不慮の切っ掛けあって仮に死んでいるのなら、墓前に花でも送りたい。
それこそ姉に限っては、生きている希望の方が遥かにあるからか、何処か微笑ましい気持ちで思い起こせる。胸の奥にじんとした温かみがあるのは、わたしが彼女を失うと泣く事が出来るという表れだろうか。
なんて、哲学も過ぎる。
これでは本当に婆さんだ。
と、自らの思考を茶化したそんな折を見計らったように、部屋の扉がコンコンとノックされた。
ハッとして軽い返事をすると、扉の向こうから「案内人が来ましたよ」と、受付にいた老婆の声。そのやり取りが目覚ましになったのか、アレロさんがくぐもった声を上げた。
別段、寝起きが悪い人ではないので、アレロさんは放っておいても勝手に起きるだろう。
わたしは本をバッグに仕舞うと、ローブをソファーに残し、席を立った。
扉をゆっくりと開けると、やはり先程の老婆が立っている。
受付で見せた顔は何処へやら。にこやかな表情は良く出来た女将のそれ。
促されるような心地で、わたしも薄い笑みを持って応じれば、老婆はゆっくりと身体を逸らし、背後に立つ人影を紹介した。
「こちら、この街の自警団をやっているウォーフさんです。案内業も彼等が行っているので、どうぞなんなりと」
「どうも。旅のお方」
紹介された手に導かれて、背の低い老婆から、背の高い優男へと視線を上げる。
爽やかな笑みを浮かべる赤髪の青年だった。
自警団をやっていると言ったが、確かに身体付きは細い割りに軸がしっかりとしている印象だ。茶色いシャツに黒のハーフパンツという素朴な恰好をしているからこそ、言われてみればというものだったが、確かに剣なり槍なりが似合いそうな姿に見える。
小粋な挨拶に対し、わたしは薄く微笑んで、丁寧に返す。その流れのまま「相方が寝ているので」と言って、背後を振り返ったその時だった。
「いやあ、本当にアイリス様そっくりだ」
と、青年が老婆に零した。
その瞬間、わたしは五〇〇年ぶりぐらいに素っ頓狂な声を上げて驚いた。
※
金銀の意匠が凝った仰々しい台座の上、仄かな明かりを放つ巨大な水晶の周りを、小さな宝石達が踊るように回転する。時折宝石同士がぶつかって、カチャンと小さな音を立てていた。台座の中心部にはこれまた小さな宝石が四八個埋め込まれており、これの明暗で水晶の周りの宝石達が何度ぶつかったかが分かるようになっている。
一日を四八に分割し、昼の青いミリティアが頂点に至る二四時、この塔の頂上にある馬鹿でかい鐘が鳴る。
時計と言うものが存在しなかった聖・リリィにおいて、唯一正確な時を報せるその鐘の音の価値は高く、音色は一二の領の端から端まで変わらぬ音量で届くよう非常に高度な魔法が掛けられていた。鐘の音を阻む建造物を設計してはならないという法律さえあった程だ。
エンデンリアの塔。
青きミリティアの女神が統べる時の主の名を頂いた巨大な塔は、聖・リリィの技術と美学の粋。これを管理するハイルミィト家は、一二の領主より強大な権力者だった。
案内されて漸く思い出したが、ベルトルークの中心にあるそれは、エンデンリアの塔のレプリカだった。
大きさこそ比べ物にならず、細かな家具こそ今の世の機能美に合わせてあるものの、白が基調の吹き抜けのエントランスと、その中心にある巨大な水晶時計は、紛れもなくエンデンリアの塔のそれだ。壁に沿った二つの巨大な階段と、それが占めていない部分を埋める蔵書棚。幾つかの学習机と、スツール。
ああ、なんて懐かしい光景だろうか。
やんちゃ盛りだった頃のわたしは、学び舎でもあったこの塔の天辺から、人形の友達を突き落として遊んでいた。偶に自分も飛び降りていたが……流石に一二の領を一望する爽快感は、もう二度と味わえないだろう。
「こちらが蔵書室です。中央にある巨大な装置はアイリス様が造り出した水晶時計なるもので、我々、ベルトルークの人間にとっては、この街のシンボルと言えます。市場に行けばミニチュアが売っておりますが、時計の役割を果たしているのは残念ながら
案内人として紹介された青年、ウォーフは、程よく慣れた口調で紹介してくれた。
巨漢なアレロさんが縦に三人並んでも及ばない程、巨大な水晶時計。その圧倒的な存在感は、わたしという魔法文化の粋と長く触れ合っている筈の彼ですら、息を呑む程だったらしい。
物見遊山の気分ではなかったろうに、その目はまるで良い玩具を見付けた少年のように揺れていた。
「すげえな。こりゃあ」
素直な感想程、陳腐なものはない。
だが、わたしもまた、同じ気分だ。
ここまで再現するのに一体どれ程の年月を要しただろうか。という、他人行儀な感想が一つ。
もう一つは、これが一〇〇〇年も前に失われた景色であるという事。忘れていた筈のわたしでさえ、記憶の棚を引き摺りだすが如く思い出せるような再現度だ。実際にわたしもアイーシャと過ごした館を蘇らせようとした事があるからこそ分かるが、当時は気にも留めていなかった部分をきちんと再現出来るのは、彼女が如何に細かな時間まで大切にして生きてきたかを示すようだった。
見れば見る程、思い出す。
良い思い出も、悪い思い出も。
我が姉ながら、流石、聖・リリィで最も高い値のついた人形。
泣き虫アイリスなんて陰口を囁かれていた時分もあったが、これを見れば、如何に性根のひん曲がった奴だって、彼女を聖・リリィで最も稀有な人形と認めざるを得ないだろう。エンデンリアの塔が失われたのは、あの戦争で最も悲しい報せの一つだったのだから。
「左右の階段から軍部へ上がる事が出来ます。そこから更に階段を上り、客間、執務室へと続きます」
ウォーフに連れられて、わたしとアレロさんは巨大な階段を上る。
その最中、水晶時計がカチャンと鳴った。
当時と全く変わらない退屈な音色の懐かしさったら、本当に堪らないものだ。
この音が二度鳴るまでの間、退屈な読み書きを続け、その後一度鳴るまでの間は休憩だったか。当時は何でこんな役に立たなそうな知識を詰め込むのかと思ったものだが、本当にその後一〇〇〇年間役に立たない知識もあったと思う。それが何だったのか思い出せないのが、何とももどかしいものだ。
次第に眼下へ消える水晶時計を見送り、軍部へ至る。
と言っても、階段を上がってすぐは赤い絨毯を敷き詰めただけのなだらかな曲線を描く廊下だった。体感的に丁度一階の入り口の裏手に至って、そこで漸く女性騎士が書き物をしている姿を認める。どうやらその受付を通過し、一度外周沿いから内側へと入らなければならないらしい。
当然ながら、ここは本物のエンデンリアの塔には無かった施設だ。
本物は下から上まで学び舎だった。生まれて間もない人形と、ハイルミィト家の他は、特別な許可を得た教師ぐらいしか入れない場所だったか……。
まあ、懐古するのはこれぐらいにしようか。此処に来た理由は決して物見遊山ではないが、記憶というものはどうしても悪いものばかりを優先して引き出してしまう。
わたし達の足音に気が付いたのか、受付の内側で黙々と作業をしていた女性がやおら面を上げて、こちらを振り向いた。金色の髪が鮮やかに映る若い女性だった。この街における騎士の正装だろうか、濃い赤色の格式高そうなシャツを着ていた。
「あら、ウォーフ団長。おかえりなさい」
「ただいま。ミラニャ、作業中に済まないが、少し頼まれてくれないか」
ミラニャと呼ばれた女性が作業をしている机は、廊下と垂直になるよう置かれていた。彼女は受付ないし、見張りをしていたようで、わたし達が立つ廊下側から続く巨大な扉と、受付の内側に別な勝手口がある。
ウォーフはこの上の階を、客間と執務室と言ったか。
どうしてこの街の要所と客間が、軍部の上にあるのかとは少しばかり疑問だったが、成る程、怪しい客には此処で武装解除をしてもらうのだろう。
軍部が下の階にあれば、何かしらの被害が発覚した際、犯人を取り逃がし難いという利点がある。と言っても、それは執務室の主が人質に取られない事が絶対条件だが、話に聞く限り、そんな事はあり得ないとも言える。
まあ、今はわたしもアレロさんも普段着だ。此処に何を預ける必要も無いだろう。
ウォーフが短い話を終えると、ミラニャという女性は早々に席を立った。
丁寧な動作でこちらに頭を下げ、退出する様子は、かつて身を寄せた国で見られたそれよりは少しばかり礼節に欠けている。とはいえ、街の兵士のそれとすれば、良く教育されているようにも見えた。
「へえ。お前さん、その若さで団長か」
女性騎士が去った後、手持ち無沙汰になったアレロさんが感心した風に、青年を労った。
腕を組み、全くブレ無く立つ筋骨隆々とした褐色の大男。そんな奴と一緒に長く旅をしているからこそ、赤髪の青年から威圧感のようなものこそ感じないのだが、今しがた女性騎士に対して話しかけていた様子は随分小慣れていたようにも映る。
見た目二五程の青年が団長というのは少し意外か。いいや、そう断ずるには彼の人となりを知らなさすぎる。経験とは何に代えがたい強みではあるが、多くの才能と、若さからくる溢れんばかりの活力をもってすれば、老練の騎士を凌ぐことだって珍しくはないだろう。
アレロさんの言葉に、ウォーフは何処か照れ臭そうに笑った。
「平和な街ですから。剣の腕も大した事無いくせに、纏め役をやらせて貰ってます」
言葉をそのまま額面通りに受け取れば、田舎街の自警団を纏めているような雰囲気を感じる。
先程の女性騎士を見る限り、規律こそしっかりとしているようではあるが、軍部の団長自ら街の案内人をやっているのだから程度は分からなくもない。人徳を加味すれば、この人懐っこそうな青年が団長に選ばれた理由は、それだけでも十分に感じた。
しかしながら、この何とも腑に落ちないという違和感は、決してわたしの買い被りではないだろう。一〇〇〇年も生きていれば、気に留めた相手が取るに足らない者かどうかは、何となくで分かるものだ。
わたしがそんな感想を抱いたところで、アレロさんが遠慮無い様子でにやりと笑ってみせた。
「良く言う。痩せてるから鍛え方が甘いように見えるだけで、二〇年は修練を積んでるだろう。見たところ無駄な肉の無い良い戦士の身体付きだ」
案の定というか、彼も同じ感覚を覚えていたらしい。
アレロさんの指摘に、ウォーフの笑顔がゆっくりと形を変えた。
上がった口角は徐々に下向きに引き締まり、先程までの柔和さが失せて消える。まるで睨むかのような厳格な面持ちへと変わったかと思えば、その顔は毅然とした表情でアレロさんを下からジッと見上げた。
一見すると敵意があるようにも見えるその顔付きは、しかしその気配を感じない。
「見抜かれたのは初めてです。薄々名のある方かと感じておりましたが……事を荒げぬ主の意向の手前、ご容赦願いたい。ベルトルーク騎士団、団長を務めております。ウォーフ・モシナーと申します」
腹の下で手を組み、背を正して名乗るウォーフ。
きっとこのベルトルークにおける最敬礼なのだろう。
改まった彼の姿は、普段着姿であるにも拘わらず、騎士然としていた。
騎士の経験が無いわたしには分かりかねるが、アレロさんからすると思うところがあるだろうか。そう思って彼をちらりと見てみれば、やはりと言うか、掘りの深い精悍な顔立ちに優し気な笑みを浮かべていた。
「アーレスだ。すまないが畏まった挨拶は無しだ」
「お気になさらず」
ウォーフはそう言って、先程と変わらぬ柔和な笑みを見せた。
わたし達が彼の本性を察したのと同じように、彼のアレロさんへの印象も正しい。
今でこそ旅人の風貌がすっかり定着し、髭を剃り残そうものなら山賊のようにも見えてしまうものだが、仮にこの男が今ある大国の重鎮達に会いに行こうものなら、袋に大量の金貨を入れて寄越すだろう。かつての彼が積み上げた功績は、それ程のものだ。
助平で小言が多いところが玉に瑕だが……まあ、これは旅を始めてからの話か。今の無精癖からすると、とてもそうは見えないが、堅苦しい肩書きをつけていた頃の彼は、実に真面目な好青年だった。その時は髪も生えていた気がする。
それから暫く、アレロさんとウォーフが騎士らしい会話をしていた。
元々武具店を案内して欲しいと言っていた事もあり、ウォーフ自身が贔屓にしている腕の良い鍛冶師を紹介してくれるそうだ。アレロさんは彼の目利きを素直に期待しているように見えた。
やがてミラニャが戻ってくれば、彼女の丁寧な挨拶と共に、軍部の扉が開かれた。
「説明が遅れましたが、執務室へは軍部の中を通って上層階へ向かいます。どうぞ」
先程とは違い、案内人と言うよりは騎士っぽい口調で先導するウォーフ。
わたしとアレロさんはゆっくりと彼の後に続いた。
軍部の中は、透き通った真白のガラスで仕切られている。
片側では数十人の甲冑姿の騎士が剣を打ち合っており、もう片側では軍服姿の者が書き物をしたり、まったりと談笑している姿が映る。一様にウォーフの姿を認めると、片手を挙げて気さくな挨拶をしており、彼もにこやかな様子でそれに応えていた。
平時はやはり自警団のような印象のままで良いらしい。まあ、団長の彼がしっかりしているのであれば、その機能に何ら問題は無いだろう。片肘ばかりを張っている騎士団より、余程良い雰囲気にも思えた。
いや、この感想はウォーフのそればかりではないか。
甲冑姿の者は流石に分からないが、軍服姿の騎士達は、どうも男所帯ではないように見えた。受付に居たミラニャも女性だったが、彼女が特別珍しい訳ではないらしい。流石に比率こそ男過多ではあるが、三割程が女性のようだった。
「女騎士が多いな。別に男尊女卑を語るつもりはないんだが、人手不足って訳じゃあ無いんだろう?」
「ええ。女性の騎士達は主に指示系統の役割を負っていますが、勿論剣の修練も積んでいます。客人が来ればその給仕を兼ねていますので、見張り役も兼ねています」
成る程。
先程考えた事ではあるが、やはりその点も考慮した上での設計らしい。
その腹をわたし達に明かすのはどうかと思うが、まあそれはわたしが気にする事ではないか。
暫く歩き続けて突き当りに着くと、そこからは外周に沿った一本の階段だった。給仕室と客間は扉越しに簡単な説明があったが、中を見る事なく過ぎて行く。
ランタンが照らすだけの変わり映えしない景色が続く。
小言癖のあるアレロさんが、ついに長い階段だとぼやいた頃になって、漸く終わりが見えた。
スッと光が射し込み、久々に清涼感のある風を嗅ぐ。
此処まで外壁は全て真白の石造りで統一されていたが、最上階の廊下は、一転して外の風景が一望出来るようになっていた。階段の終わりから外周沿いに廊下があるので、丁度街全体を一望出来るようになっている。その終わりは今しがた上がってきた所の裏側に当たるのだが、そこから更に上へ続くというように、階段の裏部分が見える。此処がエンデンリアの塔であれば、本当の最上階には巨大な鐘がある筈だ。
肩の高さまである石垣の外は、何とも爽快な景色。
円状に広がるベルトルーク。
白が基調だと思った街の風景は、遥か上空から見下ろしても同じ感想を抱かせる。
流石に一二の領を見渡す事が出来たあの時の景色とは程遠いが、『蒼穹を統べる』で飛び立つ事が出来たなら、実に気持ち良いだろう。
難なら、この視界の広さはそっくりそのままこの街の防衛能力と言えよう。周囲は山と距離のある高原であり、その中でも高台にある為、外敵の襲来にはいち早く気付く事が出来る。全方位を見渡せるのだから、対処も簡単だ。
尤も、それは魔導士に限った話だが。
「お待たせしました。アイリス様は、こちらの部屋におられます」
丁度ウォーフが、その魔導士の名を呼んだ。
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