〇

 地上は荒れ果てている。

 栄華を極めた輝かしい時代は過ぎ去り、善き人も善き行いもここにはない。

 毒の支配は隅々まで及び、富める人は貧しく、貧しき人はより貧しく搾取されていく。

 悪徳、頽廃、腐敗があり、美徳、努力、誠実がここにない。

 私は尋ねた。

「正しい者はおりますか」

「正しい者はおります」

 皆、そう答える。

 ここに正しい者はいない。誰ひとり、正しい者はいない。

 私は手に炎を持っている。

 生きて動いているものはすべて、正しくない。

 正しくない者は燃やさなくてはいけない。

「お待ちください」

 手に亡骸を抱える男が私に言った。

「正しい者はいるはず。百、いえ、五十、いえ、十はいるはず」

 男の腕に抱かれる亡骸は、白く穢れのない女だった。

――回向、永眠、保温

 私は繰り返す。

「ここに正しい者はいない」

 なおも足に縋りつく男の背後に、民衆が見える。

 彼らは槍と、酒と、羊を持っていた。

 殺せ、犯せ、と彼らは言う。

 男は彼らに亡骸を差し出した。

 彼らは哄笑する。笑いながら、女の血を食い尽くした。血を食べてはいけない。

 血を食い尽くしたあと、私に手を伸ばし、荒々しく衣服を剥ぎ取った。

 男は泣き崩れる。

――回向、永眠、保温

「ここに正しい者はいない」

 もし、よしんばいるのならば。私は振り返り、建物の中に入ろうとする。

「まだそのときではない」

 私は頷く。

 まだそのときではない。

 〇

 ***

 妙な夢を見て飛び起きるのは笑美の日課になっていた。

 内容は、相変わらず意味不明だ。夢の中の笑美は、確かに自我がある。自分で考え、思った通りに行動している。しかし、起きているときの笑美とは全く異なる存在のように思われた。

「おはようございます」

 起きるとすぐそばにヤンが控えているのも、また日常になりつつあった。

「おはよう、ヤン」

 笑美はヤンの手を握りながら言った。西日の射す清潔で開放的な部屋に、大人三人が余裕で寝られそうな広いベッド。もう、二か月以上安アパートには帰っていない。

ヤンは時折、「お話をする」と言って一人で出かけていく。例の「兄弟たち」と話して、「指導」しているのだという。それ以外のときは、ずっと笑美と一緒にいる。

結局ヤンの役職も、年齢も、フルネームさえ笑美は知らないままだ。希望した商品開発の仕事も、勿論していない。

しかし、そんなことは今の笑美にとってどうでもいいことだった。

 ヤンは跪いて、笑美の指先から脳天に向かって順番に、何度もキスをした。

 笑美は満たされた気持ちで微笑んだ。

 一緒に暮らすようになってから、ヤンは毎朝こうやって笑美を起こした。

「今日の予定は?」

 笑美が尋ねると、ヤンは変わらぬ微笑をたたえて言った。

「今日は収穫です」

 ああ、たしかにそんなことを言っていた、と笑美は思い出す。少し前に、ヤンの兄弟たちが植えた作物を、収穫するのが今日なのだという。

「いつもの部屋から見るだけなので、今回も二人ですよ」

「そう」

 笑美はなるべく感情がこもらないように言った。

 二人、というのは二人きり、という意味だ。勿論、嬉しくないはずがない。

 しかし、「やった」「嬉しいです」などと言ってはいけない。ヤンは、自分の言動で笑美が一喜一憂するのを嫌った。いや、嫌っているというより、そうすると、また笑美は微塵も望んでいないのに、自分を罰してしまう。

 なるべく鷹揚に、しかし、尊大に。

 笑美はヤンの望むよう振舞っているだけだった。

「ところで、今日は入れましたか?」

 笑美の夢の中に出てくる建物のことだ。ヤンはいつも、それを気にしている。

「まだそのときではない、と言われました」

 笑美はヤンの言うことや行いに疑問を持たないようにしている。最初は「なんで私が夢を見ていることを知っているのか」など質問したくてたまらなかったが、どうせはぐらかされるのだから、聞いても無意味だと悟った。

 ヤンは全てが正しい。疑問を持つことが間違っている。

「なるほど……」

 ヤンは難しい顔をして黙り込んでしまった。

 笑美は内心、焦っていた。ヤンの表情からして、笑美の答えに満足が行っていないことは明白だった。このままではがっかりされてしまう。このままでは、嫌われてしまう。愛されなくなってしまう。このままでは。

 なんとか言葉を紡ごうとして、

「でも今日は自分の意志で話していた」

 笑美がそう言うと、ヤンは柔らかい表情に戻る。

「自分の意志で……? それはどういうことですか」

 笑美は安堵からにやけそうになるが、それを押し殺して続けた。

「いつもは……夢の中だと、映画を見ているというか……視点は勿論私なんだけれど、口も体も勝手に動いてしまう。でも今回は、自分の意志で発言しました。ここに正しい者はいないと、自分で判断した」

「素晴らしい!」

 間髪入れずにヤンが称賛した。何度も何度も素晴らしい、と繰り返す。

「もう、大丈夫そうですね」

「大丈夫って……?」

「次に進む準備ができたということですよ」

 相変わらず笑美には、ヤンの言っていることは分からなかった。しかし、せっかく笑顔に戻ったのに水を差すようなことをしたくない。

「ええ……」

 曖昧に肯定してから、思い直す。いまこのときだけ取り繕えても、後でがっかりされたら堪らない。

「でも、『まだそのときではない』と言われたの」

 幸いにもヤンの笑顔は崩れることなく、彼は微笑んだまま首を横に振った。

「それとは違うことです。ゴールではなく、スタートですね」

 それでは用意をお願いします、と言って、ヤンは笑美に服を渡した。今日はこれに着替えろということなのだろう。

 笑美はやはり何も尋ねることなく、黙って白いワンピースを着た。

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