青山が驚いたのは、彼がそこに「いた」ことだった。

 青山は、るみが気まぐれな猫のように、あちらこちらふらふらと寄り道をしながら歩くのになんとかついていった。るみは何の説明もしない。どうやって解決するつもりなのか。解決を依頼する相手は誰なのか。しかし、ついて行くしかない。青山一人ではどうしたって何もできないのだから。

彼女がファミリーレストランに入ったのは、色々なところを歩き回ったから休息をとりたいのだろうと思っていた。

 るみが、ナポリタン大盛りと、メキシカンピラフと、ビーフカレーと、和風ハンバーグ御膳と、コーンとベーコンのピザと、季節のパフェを頼み、「そんなに食べて大丈夫ですか」「大丈夫ですよ」といういつものやり取りをしたときだった、と思う。

 彼が「いた」のだ。

 森林のような香りがする。

 老人が、青山の隣に、笑顔で座っている。

「うわっ」

 遅れて、大声が出た。

「そんな大声出さなくてもいいだに」

 作務衣を着た老人は、笑顔のままそう言った。

 正面のるみの顔を見ると、彼女は特に驚く様子もなく、お腹が空きました、などと言っている。

 もしかして、自分だけに見えているのではないか。

 青山は、自分で考えたことに身震いする。

「人間ですよお」

 老人は体を倒して、無理矢理青山と目線を合わせた。

 思わずのけぞると、老人は声を上げて笑った。日焼けした肌に、いくつも笑い皺が刻まれてしわくちゃになる。

「かわいいですねえ」

「あまりからかわないであげてくださいな」

 るみはストローをくわえたまま割って入った。

「せ、先輩、この人……」

「ええ、この方がそうですよ」

 老人は相変わらず微笑みをたたえて、るみと青山の顔を交互に眺める。るみは、老人とは一切目を合わせたくない、とでも言うように、青山の肩辺りから一切目を離さなかった。

「紹介もしてくれないんですかあ」

「勝手に名乗ったらいいでしょう」

 るみは冷たく言った。

 青山は不思議に思った。

 るみは、態度も言葉遣いもエキセントリックではあるが、無礼な人間ではない。以前来た、非常に高圧的な男性に、報酬を払うのをごねられたときも、一定の礼節を持って接していた。

 それなのに、多少不気味ではあるが……なぜ、この人当たりのよさそうな老人にはこれほど冷たく当たるのか。話の流れからして、この老人こそが、これから解決を依頼する専門家であるはずなのに。

「私はね、こういうもんです」

 老人は机の上に紙を置いた。名刺、のつもりなのだろうが、ノートの端を千切ったような粗末なものだ。

『ご相談

   お気軽に

        石神百行』

 手書きの字でそれだけ書いてある。

「石神……ええと」

「ひゃっこう、と読みます。石神さんでも、百行さんでも、おっさんでもいいですよお」

 石神は青山の手から名刺モドキを奪い返して、着用している甚兵衛の袖口にしまい込んでしまった。

「ええと、石神さんは霊能者さん、なんですよね?」

 口に出してから、場を繋ぐにしても馬鹿馬鹿しい質問だ、と青山は後悔した。霊能者に決まっているというのに。

「どうなんかなあ」

 石神は遠くを見つめて呟いた。

「確かに私は人より気付いたりするほうですけど……蛇様のお力であって私の力ではないですねえ」

 青山の表情を見ずに続ける。

「小さい、小さい頃にねえ、私の母親は頭があまり良くなくて、妻子のある男に捨てられて、一人で私を育てていたんですけど、にっちもさっちもいかなくなってしまったみたいでしてねえ。私を捨てたんですよ。山の中に。私を保護してくれたのは山の管理人だったんですが……白い蛇に誘われてついて行ったらその先に私がいたんですって。面白いですよねえ」

「それは……大変な目に遭われたんですね」

 どう言葉をかけていいものか、迷いながら青山は言った。

 しかし石神は、大口を開けて笑った。

「いいえ、大変なんて、とてもとても!」

 指をこめかみに一本当てながら、

「私、山の中で二週間生きていたんですね。四歳の子供が、一人で、二週間です! すごいでしょう? すごいのは、私ではなくて、蛇様なんですけど」

「は、はあ……」

 青山はなるべく感情を表に出さないように努力したが、それでも声に動揺が出てしまう。

 石神の話は、民話などでよくある形態の話だ。本当にそんなことが実際に起こったのだろうか?信憑性が低いように感じられた。しかし、それを語る彼の目は、きらきらと輝いている。

 青山はこういう瞳をした人間を何人か知っている。宗教にハマった人間の目だ。

 青山はプロテスタント教会の牧師の家に生まれた。恐らく分類としては「敬虔な信者」になると思う。どの宗教でも、青山は信仰心を否定しているわけではない。むしろ、人間には、それがキリスト教でなくても、心の拠り所としての宗教が必要だと思っている。

 しかし、「信仰する」と「ハマる」は大きく違う。宗教にハマった人間は辛いとき、苦しいとき、あるいは良いことがあった時に神に祈るのではなく、生活の全てにおいて神に依存してしまう。

 教会にも、今まで何人もそういう人が訪れた。中でも強烈だったのが、専業主婦の桜井さんという女性だった。彼女は浮気性のひどい夫に悩まされていて、実家にも頼れず、祖父のカウンセリングを心の支えにしていた。そこからキリスト教の教えそのものに興味を持った彼女は、熱心に教会に通い、青山の父が毎週開いている子供向けの教室で、聖書の勉強をするようになった。熱心な彼女は教室が終わった後も父に積極的に質問をし、徐々に週一では飽き足らず、ほぼ毎日顔を出すようになった。バザーやチャリティイベントの手伝いもしてくれた。「あんたも見習ったら?」と姉が青山に言ったほどだった。

 そんなある日、朝の清掃をしようと礼拝堂に立ち寄ると、ガラスが割られ、中が荒らされている。泥棒でも入ったのかと思ったが、すぐにそうではないと分かった。桜井さんが鉄パイプのようなものを振り回し、暴れているのだ。

「どうしたんですか、やめてください!」

 そう言うと桜井さんは、振り向いた。何か言っているようだが、奇声に近く、何も聞き取ることができない。かけつけた父と共にどうにか宥めて話を聞くと、

「どんなに熱心に祈っても神様は夫の不倫を止めてくれない。神様にどうしても気付いてほしかった」

 とのことだった。

 しかし、聖書には「結婚相手の不倫をやめさせる方法」は載っていないし、祖父も父もそのような説法をしたことはない。

 教会にできるのは、心を穏やかに保つ手助けだけだ。本来、宗教とはそういうものだ。

 桜井さんはその後、「何も聞いてくれない神様に用はない」と言って教会に通うのをやめた。近所に住んでいるため動向は筒抜けで、その後高額なお布施を請求してくる新興宗教に入信し、またすぐにやめ、今では行動心理学なるものを学ぶセミナーに入会している。青山を勧誘してきたときは驚いた。彼女の目は、やはりきらきらと輝いていた。

 宗教がセミナーになろうと、役割はきっと同じだ。心の拠り所だ。しかし、あくまで拠り所であって、全てを預けてはいけない。普通の人はそれが分かっているが、ハマっている人は違う。信じているものが、そのままその人のアイデンティティになってしまっている。

 青山は石神にその雰囲気を感じ、少し嫌な気分になった。

 しかし、青山の表情の変化など全く気にせず石神は滔々と語った。

「その時にねえ、蛇様と色んなお話をしました。だから、私の頭はねえ、蛇様とつながっているんですよお。蛇様がなんでも教えてくれるんです」

「与太話はそこまでにしましょう」

 るみがふたたび冷たく言った。

「期限は一か月。報酬は百万円。五十万先にお渡しします。期限内に終了できなければ交通費含め諸々の経費以外はお返しいただくので領収証を取っておいてください……もし終了できなくても、東京都の最低賃金十四万三千円は経費と一緒にお支払いいたします。それでいいですね?」

 るみは一気にまくしたてる。彼女の好きなオカルトの話をしているときの早口とも違う、「さっさとこの話を切り上げたい」という気持ちだけが伝わってくる刺々しい口調だった。

「るみちゃん、何度も言いますけど、私、お金なんていらんのよお」

 石神はるみの態度を気にも留めずゆっくりと話す。そのことが逆に、空気をぴりつかせている。

「私は私にできることをやっているだけなんですからあ」

 るみは短く舌打ちをした。相当苛ついているようで、貧乏ゆすりまでしている。こんなるみは初めて見る。

 空気が悪すぎる。

 青山は何とか空気を和ませようと、

「あの、先輩。先輩は、『だいたいの原因は特定できたからふさわしい専門家にお願いする』と言いましたよね?」

「ええ、言いましたが、何か」

 るみは青山に対してこのようなきつい言い方をしたことがなかった。内心落ち込みながら青山は続ける。

「原因も、どうして石神さんがふさわしい専門家なのかも、僕には分からないので……説明してほしいかなって……」

「ナポリタン大盛りのお客様~」

 絶妙なタイミングで店員が料理を運んでくる。るみは次々に運ばれてくる料理を見て、いささか機嫌が直ったようだった。

 いつもの口調で青山に言う。

「そうですね。説明がまだでしたね。今回の案件は、おそらく『諏訪大社』を信仰軸にしたなにか、というところでしょう。新興宗教と断定するのはまだ早いかもしれませんが、島本君の話を聞いても分かる通り、その可能性は非常に高い」

 るみは話しながらも次々と料理を口に運んでいく。見ていて気持ちが良いくらいだ。

「儀式の全貌が分かったわけではないですし、あくまで伝聞ですからはっきりとは言えないのですが……「鹿」「兎」「鳥」「蛙」「魚」これらはすべて諏訪大社の祭りの時生贄に捧げられる動物ですし……最も分かりやすいのが大量の蛙、ですね」

「蛙……?」

「蛙は蛇様の好物よお」

 石神が割って入ってきた。せっかく元に戻りかけていた空気がふたたび緊張する。

蛙狩かわずがり神事って言うんですけどお……蛙を篠竹の弓で射殺いころしてな、神様に捧げるんですよお……諏訪大社の神様はね、蛇様ですからあ」

「まあ、そういうわけです。私は諏訪大社の信仰対象が蛇だとは断言できませんが、とにかくそのような説もある。ですから、蛇神信仰を持つ石神さんなら、何かできるかもしれない」

 るみは、口調だけは丁寧だったが、口を挟まれたことであからさまに不愉快そうだった。目線は分厚い眼鏡で隠されていて良く分からない。それでも、石神を睨んでいることだけははっきりと分かった。

 青山はスマホに「諏訪大社 祭り」と入力し、検索する。トップページに出てきたのは「御頭祭」だった。名前だけは聞いたことがある。どうやら、一般的には奇祭として有名で、図解を見ると本当に五種類の動物が串刺しにされて生贄になっている。

 続いて「蛙狩神事」について検索する前に、石神が、

「蛇様ですよお。私の神様のことですから、はっきり分かりますよお、るみちゃんだって、私に依頼してくれたんですから、ちょっとは信頼してくださいな」

 るみがまた、舌打ちをした。

「私はねえ、人よりちょっと気付くもんで……もう準備もしてあるんですよお」

「なに……?」

 るみの顔色が変わった。

「るみちゃんたちのお客さんの……妹さんかな? ちょっと前に会いましたよ。本当にたまたま。蛇様が悪い空気に気付いて下さったので、同じ電車に乗りました。スーツ着て……全体的に張りつめてるって言うのかなあ、可哀想なくらいでしたけど……とにかく、そのときに。今回は、その子がらみでしょう? ふふ、やっぱりい」

「本当に、仕事が早い」

 るみは乾いた声で言った。

「褒めてくれるなんて嬉しいですねえ。とにかく、種は撒きましたから、それなりに効果は出ているはずなんですけどねえ」

「あの、種とかって、どういう意味ですか?」

 青山は置いて行かれないよう必死に口を挟んだ。

「分かりやすく言えばお守りですかねえ、悪いものが近付いたら報せてくれる効果をつけました……本当は止めたかったんですけど」

「でも、こうして私のところに相談が来てしまいましたから、結局のところ機能していないということでしょう」

 石神は少し顔を曇らせて、

「それなんですよねえ……私、こう見えて失敗したことはないんですけどお……よほど向こうさんに強いのがいるか、あるいは……あの子自身が望んでいるのか」

「憶測は無駄です」

 るみはきっぱりと言い切った。

「ふふふ、すいませんねえ、人の心が気になってしまうのは、私のくせみたいなもんでして。とにかく、蛇様のお力をお借りして、やってみますからねえ」

 ここまで突き放したような物言いにも、石神は笑顔を崩すことはなかった。

「……先ほどの内容で契約書を作りますから、お願いしますよ」

 なおも「お金なんていらない」と繰り返す石神を完全に無視して、るみは席を立ち、そのままレジへ歩いていく。机の上にあれだけ載っていた食事たちは、すべて食い尽くされていた。ふと横を見ると、石神もいない。現れたときと同様、気配もなく消えていた。

 しばらく呆然としていた青山は、るみに声をかけられて慌てて後についていく。

 るみは体型に比して、異様に足が速かった。青山は必死に走ってなんとか追いつく。

「あのっ……あの!」

 息を切らせて話す青山を見て、ほんの少しだけるみの頬が緩んだ。

「なんですか、青山君」

「結局、あの人が、なんだったのか、分かんなかったんですけどっ、それよりっ」

 るみはリュックサックの中からペットボトルのお茶を取り出して青山に手渡した。青山はそれをごくごくと飲み、深呼吸をした。先程までの態度が嘘のように、るみは優しい。でも、だからこそ。

「さっきの態度は、なんですか? ちょっとひどいと思うんですけど……石神さんの何が気に入らなかったんですか?」

「善意だからです。すべて、善意だから」

 理解できず黙っている青山を見て、るみは微笑んだ。

「青山君は良い人です、本当に優しい人……私はそういう人、大好きですよ。それとは別の問題なのですよ、善意のみで動く人と言うのは」

 るみはしばらく黙って、青山の歩調に合わせて歩く。

 一方の青山は、話の流れとは言え、突然「大好き」と言われ、顔面を紅潮させて下を向いていた。るみがいつになく真剣な様子で話しているのもあって、なおさら彼女の顔が見られない。しばらくまごついていると、

「さて、石神のおっさんが誰か、ですが」

 いつもの、早口に戻っていた。こちらの方がずっと落ち着く。

「彼はミシャグジ信仰を持つ、霊能者ですよ。彼は否定していましたし、きっと青山君も怪しいと思ったんじゃないですか? けど、力は本物です」

 ミシャグジ信仰は知っていますよね、と聞かれ、青山は必死に記憶の戸棚を漁って、学生時代の朧気な記憶を探り当てた。そう、それこそ斎藤教授が教えてくれた。

「縄文時代には既に存在していたという精霊信仰……それに、諏訪の土着信仰である白蛇、ソソウ神が混交してできた神様ですよね、たしか……」

「ふふ、よく覚えていますね、興味もなかったでしょうに」

 たしかに青山は斎藤教授の話を真剣に、興味を持って聞いていたとは言えない。必死にそんなことないですよ、と言う前にるみは続けた。

「さっきも言いましたが、今回島本君の妹さんがハマっているというか……取り込まれている団体。そこの儀式は、諏訪大社系の信仰体系がベースになっていたと思います。情報が、島本君からの伝聞しかないので憶測ですが」

「さっき、先輩は『断言はできない』と言っていましたけど……やっぱり、蛇神なんじゃないですか」

「いいえ、青山君。あなたもいま自分の口で言ったでしょう。『混交』です。ミシャグジはご神体も蛇を模したものですし、諏訪の周辺には龍や蛇の逸話が多い。蛇だという説が濃厚です。だからと言って決めつけてはいけない」

 るみはパーカーの紐をくるくるともてあそんだ。

「確かに原因を探って、相応しい方法で解決する、それは大事なことですし、私の目指すものではあります。今回だってそうしました。しかし、決めつけてはいけません。いざとなったらあらゆる方法を試してみるべきなのですよ……とはいえ、基本的には、悪霊なら坊主、荒神なら神主、悪魔なら聖職者、ルールに則らないと効果がない。これは、常識」

 そこまで言ってるみは言葉を切った。余計なことを言ってしまいましたね、忘れていいです、と言いながら、また早足に戻ってしまう。

「あのおっさんはあれでいて本当にすごい人なんですよ。ずっと蛇様蛇様言うのは鬱陶しいけど、あの与太話だって本当のことかも。だから、我々はもう、忘れていい。それより青山君、せっかく大金が手に入ったのですから、焼肉に行きましょう」

「まだ食べるんですか?」

 青山の問いに答えることなく、るみは駅に向かって走っていく。

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