第39話 寒い夜と朝に
暑い時期ならいざ知らず、身を切るような空風が吹いて、冬の足音が聞こえる季節とあっては、夜間に出歩く人影などそうそうあるはずもない。
いつもどおり人っ子一人見かけぬ巡回を終えて、詰所への道を歩いていたときだった。
遠くから走りこむような足音が聞こえてきて、振り返ると、細い人影が瞬く間に近づいてきた。
「寒い寒い寒い」
白い息を吐き出しながら、ジュリアのすぐそばまで距離を詰めてくる。
止まるのかと思ったら、額がごん、ジュリアの胸にぶつかった。
「えーと」
「寒い!」
戸惑いの声はより大きな声にかき消され、ジュリアは腕の中にその人を閉じ込めるように抱きしめる。
容易く抱き潰せそうな骨の感触と儚い柔らかさ。
痛かったかな、と薄く動揺して抱く腕の力を弱めたら、見透かしていたかのようにぎゅっと厚手のコートの脇腹あたりを掴んで引っ張られた。もっと、という無言の抗議を感じて、もう一度強く抱きしめる。
「お師匠様、なんでそんなに薄着なんですか。緊急の用事でも?」
「別に。ちょっとあの二人を、二人きりにしてあげようかと。あの、怒らないでね。ロザリアに、本来の年齢の姿になってもらったから」
歯の根が合わさっていないらしく、ガチガチと歯を鳴らしながら、ラナンが早口で言い募る。
「怒らないでね、というのは」
ジュリアは、寒がっているラナンをより強く抱きしめた。
少しだけ言いづらそうに、ラナンは声をひそめて言った。
「ヴァレリーさ……、結構手が早いんだよね」
「どういう意味ですか?」
硬質な声音で問い返し、わざわざ身体を傾けながら顔をのぞきこむと、ラナンは困ったように目を瞬かせた。
「そのままの意味。倫理的な問題等がない状況下で合意があれば、女性に手を出すのは躊躇わない男なんだ」
「お師匠様も手を出されたんですか?」
当然の確認をしたのに、心外そうに目を見開かれて真っすぐ見つめられた。
「なんで僕? ヴァレリーは僕には手を出さないよ。恩人の子とか、兄弟みたいなものだとか、二重三重にロックがかかっているし。そもそも僕がヴァレリーの恋愛対象だったことはない」
「根拠は? 誰がどう見ても仲が良いですよ」
「仲は良いよ……。だけどお互いにそういう対象としては」
困り切った調子で言葉を探すラナンの唇が目の前にあったので、ジュリアはひとまず自分の唇を押し当てた。
くぐもった声を吸い取って黙らせてから、唇を離す。
「それで、俺に何か用ですか」
「用っていうか。開いているお店がなくて歩いてるうちに、この辺まで来ちゃっただけ」
(一直線に走ってきたように見えましたけど)
あまり追い詰めてもいけない、と思い直して心の中だけでつっこんでおき、落ち着かない様子で顔を逸らしたラナンの横顔を見つめる。つんと尖った鼻が冷たそうだなと思って、指無しの手袋から出た指先で軽く摘まんでみた。
んっ、と焦ったような声が上がる。
あまりにも冷たい感触で、そのまま指先で温めようかと思ったものの、暴れ出したら面倒なのですぐに放す。そのまま軽く髪をかき分けて耳朶を摘んでみた。
どこもかしこも冷え切っている。
「俺はこの後詰所で仮眠をとって、朝方また見回りに出ますが……。どうします? お師匠様、俺と一緒に寝て朝帰りします?」
「ええっ」
「そこ驚くところじゃないですよね。あの二人がどうにかなっているところに戻りたいんですか。出てきてしまった以上、変なタイミングで戻らない方がいいでしょう」
言いながら、摘んだままの耳朶をごく弱い力でひく。
ラナンは掴まれてる耳の方の左肩を軽くすくめながら、呆れたように言った。
「割り切り早いね……」
「遅かれ早かれとは思っていました。あの二人日中いつも一緒だし。祭りのときの様子を見て、間違いないかなと」
「何が?」
「状況が整えばやっちゃうかなぁ、と」
そのジュリアの一言を最後に、二人はしばし沈黙をしてしまった。
無言のまま、ジュリアは再び両腕でラナンを抱きしめた。
「……ジュリアはさ。ロザリアのことどう思っていたの? 女の子の姿も知っていたわけでしょ?」
「知ってはいましたけど。人型をとれる魔族の特徴らしいですよ、人間基準でいえばものすごく整った容姿をしているのは」
う~ん、とラナンが低く呻いた。
何を言いたいかは、さすがにわかる。ジュリアがヴァレリーとの関係を気にしたように、ラナンもまた気になっているのだろう。異性としてどうなのか、と。
「聞きたいなら聞いてもいいですよ。綺麗な少女であるロザリアと、男の俺が一緒に手に手を取り合っての逃避行。おまけに命がけの護衛。特別な感情があるんじゃないの? って。そういうことですよね」
「そう……いうことになるかな」
躊躇いがちに呟くも、俯いてしまって顔を上げない。
そのラナンを見下ろしながら、ジュリアは厳粛に告げた。
「それを聞かれたら、俺も聞きますけどね。『聞いてどうするんですか』って。ただこれだけだとフェアではないので、先に言っておきます。俺がお師匠様とヴァレリーの関係を気にするのは完全にただの嫉妬です。お師匠様、ヴァレリーに距離を詰められてもあまり気にしないし、簡単に触れるし。そういうのは見るだけで嫌です」
心の狭いことを、言ってしまった。
言ってしまったことはひっこめられないので、聞いてます? と首を傾けて顔をのぞきこむ。
ラナンは弱り切ったように眉を寄せて、溜息をついた。
「もうしません。たぶん今後は、ロザリアに怒られると思う。ヴァレリーに甘えるなって言われたし。……膝枕をさせたなんて言ったら命とられそう」
「膝枕? してもらったんですか? ヴァレリーに? どうしてお師匠様はそうなんですか? 俺だってそれ普通に怒りますけど。怒られたくて言ってるんですよね?」
噛んで含めるように言い聞かせてから、さらさらの髪を指で梳く。
ついには瞑目したラナンが、ジュリアの胸に頬を押し付けてくぐもった声で言った。
「本読んでいたらそういう場面があって……。でも膝枕って膝じゃないよなって思ったら試したくなってさ。別にそんなにいいものじゃなかったよ」
「いいか悪いか判定できる程度に長いこと枕させたわけですか。へ~。それ自慢ですか? それとも俺にはその倍の時間、膝枕をさせてくれるんですか?」
「してくれるひとの問題じゃなくて。膝枕そのものが、それほどいいものじゃないんだ」
ジュリアの苛立ちをよく理解しないまま、ラナンが律儀に説明する。
興味のない無表情で聞き流してから、ジュリアは軽く身をかがめて、指で髪をかきわけて露出させたラナンの耳に唇を寄せた。
「それなら俺は抱き枕がいいです。詰所のベッドは清潔ですよ。ただ、人を連れ込んでいるのがバレたらさすがにまずいので。おとなしく俺に抱かれていてくださいね。今日のところは何もしませんから」
「僕が枕になるってこと?」
「俺の身体で隠さないといけませんからね。どこか違う場所でだったら、逆でもいいですよ。好きなだけ抱いてください」
耳に唇を押し当ててから、顔を離す。
視線が追いかけてきて、真っ向からぶつかりあって絡み合ってしまった。
「ジュリア、さっきからすごく簡単に僕にキスしてるけど気付いている? してるよ? 妄想でも未遂でもなくて、完全にしてるよ?」
「する前にもっと明確な宣言した方がいいという意味ですか? わかりました。今から唇にキスをします」
何かとても言いたそうなラナンをじっと見つめていると、やがて眉をしかめてから目を閉ざした。
「合意の上ということでよろしいですか」
「……はい」
言質を取ったので、遠慮することもなく唇を重ねた。
冷え切った身体を抱きしめて、思う存分深く口づけてから、解放する。
「続きはベッドで」
「何もしないんだよね?」
戸惑った調子で言うラナンに笑いかけて、手を軽く繋いで歩き出す。
先輩が色々教えてくれるんです、いざという時に目立たないように人を連れ込む方法も任せてくださいとジュリアはしれっと言い放ち、ラナンを大いに困惑させた。
成人するまでは、保護者として……とぶつぶついいながらも手を引かれてついてくるラナンに、ジュリアは声もなく笑みをこぼす。
白い息が夜気に紛れて消えていった。
* * *
ジュリアが家を出ると言い出したのは、その翌朝帰宅後のことだった。
連れ立って朝帰りをしたラナンとジュリアに対し、ヴァレリーもロザリアも何も言わなかった。
久しぶりに四人で朝ご飯でも、とそろってテーブルを囲んだところで、ジュリアがその話を切り出した。
「隊の方から推薦が出ていて、王都の近衛隊で修業をすることを推奨されています。受けたらすぐにでも出立ですね。冗談か本当かはわからないんですけど、俺の容姿と経歴なら、女性が主力になっている女性要人警護がメインの隊にも適性があるんじゃないかと」
さらりと言い放って、大きく切り分けられた雑穀パンにかぶりつく。
「なにそれ、女装して女性だらけの職場で働けっていうこと……?」
胡乱げにラナンが言うと「その場合、周囲に女性で通すのか男性だと明らかにするかはまだわかりませんけど」とジュリアがそっけなく答える。
それから、隣り合って座っていたロザリアに対し、視線を流した。
「俺いなくなるから。部屋、今度から一人で使わせてもらいなよ。だけど隣がお師匠様だから、声とか音には気を付けてね。物音敏感だし」
何気ない調子で言ったジュリアに「そうねー」とロザリアが笑顔で応える。
ラナンはスープをすくいかけていたスプーンを皿に沈めて、ちらりとヴァレリーを見た。その視線を避けるようにヴァレリーが顔をそむける。
「なんだったら、僕がいまヴァレリーが使っている部屋に移動してもいいんだけど。あそこはあそこで狭くて落ち着きそうだし。ヴァレリーが使えてるんだから僕用の寝台に変えたらもう少し広く使えると思うし。二階は二人で使えば? あ、というか僕この家を出た方が」
「早まるな」
ややうんざりした調子でヴァレリーがラナンの早口を遮った。
「そこまで気を遣わせる状態にはしない。というかお前ら勝手に話を進めすぎだろ……」
「だけど、ヴァレリーはロザリアの護衛についているから、どっちみち別に暮らすっていう選択肢自体がないんだよね。だとしたら僕が出て行くしかないんじゃないかな」
わずかに喧嘩腰が見え隠れしているようなラナンに対し、ヴァレリーが溜息をついて言った。
「それはまずジュリアと話し合え。朝帰りなんかして、お前らこそ覚悟はできてるんだろうな」
む、と閉口したラナンを差し置いて、ジュリアが「もちろん」とすかさず答える。
スプーンを置いて、ヴァレリーを正面から見た。
「わりと信用してないので、その人のこと。俺が成人するまで見張っていて頂けますか。必ず迎えに来ますから」
「僕……!?」
色めき立ったラナンにちらりと目を向けてから、ヴァレリーは深く頷いた。
「のらりくらりとしているのは確かだな」
さらにロザリアも深く深く頷いた。
「自覚らしいものは何もないわね」
「なんで僕はそこまで言われるのかな」
低く呻いたラナンを、無表情で見つめていたジュリアが冷ややかな声で言った。
「気持ちの方は全然疑ってませんよ。成人するまでに落とすつもりだったけど、もう完全に俺に落ちていますよね。だけどそうすると、俺としても何もしないでそばにいるのはきついんです。昨日みたいなのはもう絶対に無理」
うっすら怒気すら漂っている声に、ラナンが慌てたように立ち上がるが、口がわなわな震えるだけで何も言えていない。
ヴァレリーもロザリアも、聞こえなかったふりをすることにしたらしく、下を向いてスープをすすったりパンをちぎって口に放り込んだりした。
無理があった。
先にヴァレリーがぶはっと笑いを堪えきれずにスープを軽く噴き出し、ロザリアもパンを喉につまらせたらしく胸をとんとんと叩き始めた。
「ヴァレリー汚い! ロザリアはお茶でも飲んだら!?」
立ったままのラナンが八つ当たりのように声を上げるが、なんとかパンを飲み下したロザリアが「いま何か飲んだら、わ、わたしも、ふいちゃう」と息も絶え絶えに言った。
この事態を引き起こしたジュリアをラナンは精一杯睨みつけたが、まっすぐに見つめ返されただけだった。
「お師匠様は昨日、俺の抱き枕になってくれたんですよ。狭いベッドで、気持ちよさそうに俺の腕の中で寝ていましたけど、俺は一睡もしていませんからね。寝られるわけがない。仮眠をなんだと思っているんです? 俺はこの後、寝ます」
「うん。邪魔しないからゆっくり寝てね」
ロザリアが、にこにこと請け合う。
無言で食事を再開したジュリアに、ラナンは「そこまで怒らなくても」と呟き、睨まれて口を閉ざした。
久しぶりに賑やかな朝の食事風景を前に、ヴァレリーは目元をほころばせていたが。
ロザリアからの視線に気づくと、穏やかに微笑み返した。
(了)
こじらせ師弟の恋愛事情 有沢真尋 @mahiroA
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