第32話 手をつないで

 行くぞとばかりに差し出された手を、取ってよいものだろうかと悩んだのはほんのわずかな時間。


「難しい顔すんな。人が多いから、すぐはぐれるぞ」

 笑いながら、ヴァレリーにさっさと手を掴まれてしまった。

 見上げると、高いところに髭の散った横顔がある。

「身長差があるから、腕が疲れない?」

 ヴァレリーは振り返って軽い動作で店舗のドアを閉め、戸口を空いた右手の指先で軽くなぞった。ふわっと淡い光がもれてすぐに消える。


「疲れたら休めばいい。どこかで晩飯も食うだろうし」

 歩き出してから、ヴァレリーがのんびりと言った。

(「疲れない」って言われたら「嘘だなぁ」って思うんだけど。いつもこういう、とっさに言い返しづらいこと言うのよね)

 ロザリア自身、自分は結構面倒くさい、噛みつきがちな性格との自覚はある。だけど、ヴァレリーにはとっかかりがない。

 噛みつこうと思ってみても、どこに噛みつけばいいのかわからない。

 これがジュリアだったら、隙だらけで噛みつきたい放題なのに。

(切ない。大人の男だよ……、ジュリア)

 勝ち目が、と頭に浮かんだ言葉は慌てて振り払っておく。



 通りはすでに人々の喧噪にまみれていた。

 空気は冷たいはずなのに、魔石灯と灯火がふんだんに焚かれて昼間のように照らし出されているせいか、あまり寒さを感じない。

 笑い声、かまびすしい話し声。石畳を靴底で踏み鳴らす軽快な音に、笛や太鼓、アコーディオンにトランペットの奏でる調べ。乱れたメロディーと、割れた音。奏者が上手いのか下手なのか皆目わからない。

(楽しそうではあるけれど)


 歩き出せば、チラチラと人の目が注がれて、すぐに流れていく。

 自分が目立つ外見なのは知っている。だけど、今日のように着飾ったひとがいる場にあっては、いつもほどに見られないに違いない。

 隣にヴァレリーがいるのも大きい。こんな浮かれた空気にさらされても、からかってくる者すらいない。


「屋台がいいか? それとも、どこか店に入るか?」

「ヴァレリーは何か食べたいものある?」

「俺か……」

「飲みたいなら、飲んでもいいし。お祭りなんだし」

 言ってから、そっと見上げるとちょうど見下ろしてきた目と目が合った。

 微かに、目元が笑っていた。

 笑っているのに、どこか寂し気だった。


「なに……?」

「いや……。なんだろうな。少し酔いたい気分と、仕事中にまずいだろって思いがあってな」

「仕事中? やだ、ジュリアに頼み込まれたの? そこまで律儀に守らなくても」

 言いながら前を向く。

 明るい道に、思い思いの晴れ着をまとって笑いさざめく人々。


 不意に、ぐいっとヴァレリーに手を引かれた。

 何をと思う間もなく、建物と建物の間、細い路地に入り込む。

 光がほとんど届かず、急に暗く寒々しくなった。


「どうしたのっ?」

 数歩奥まで進んでから、手を離されたと思ったら身体の横に両手をつかれて壁に押し付けられた。

 ヴァレリーは、ロザリアと視線が合うところまで身体を折って、間近な位置から目を覗き込んでくる。

「魔物の気配がする」


 通り一本隔てただけなのに、風が冷たく祭りのきらめきはすべて遠かった。

「まも……の」

 呟いたところで、骨ばった手におとがいをつかまれて顔を上向けさせられた。

「俺の目の前にいるような気がするんだが」

 壁の硬く冷たい感触に、背筋がぞくりとする。

 怖いくらいに真剣なヴァレリーの目を、ロザリアは声もなく見つめた。


「何か言うことはあるか?」

 仕事中。

 さきほど妙に引っかかった言葉が思い出されて、そんなつもりもなかったのに目に涙がにじんでくるのを感じた。


「あなたが『追手』だったの?」

 涙声にならないように気を付けながら、問いかける。

 肯定も否定もせぬまま、ヴァレリーは低い声で答えた。


「神聖教団が奇妙な存在を追いかけていると聞いた。『人型の魔物』あるいは『魔族と人間の血を引くこども』とか。噂によれば不老長寿らしい。ロザリアがあまり外に出たがらない理由はそれじゃないのか? 一所ひとところに留まって生活していると、不審がられるから、特に最近は出たがらない……」

 言いながら、頤からすべり落ちた手が、ロザリアの左胸の上、ぎりぎり触れない位置で止められる。


「ここに魔力をこめれば、殺すことも可能だろう。俺はこの時代の人間にしては珍しく、魔族との交戦経験がある方だ。殺し方くらい知っている。脅しじゃないのはわかるな?」

 話し声も。話し方すらも。普段のヴァレリーそのままだった。

 そのままで、ロザリアを冷静に殺そうとしていた。

 今にも声をあげて泣いてしまいそうだったが、ロザリアは小さくしゃくりあげただけで涙の気配を無理やり押しこめた。


「……殺しても構わないけど。ジュリアとお師匠様には、それらしい嘘をついてよね」

 ヴァレリーは強いのだとさんざん聞いていたし、疑ってもいない。

(ジュリアがいないときで良かった)


 おそらく、勝ち目がないとわかっていても、ジュリアはヴァレリーに立ち向かうだろう。

 それは。それだけは。

 最終的にジュリアが負けて、自分が殺されたときに、傷を負うのは別の人だ。

 ヴァレリーだってわかっているはずだし、望まないはずだ。


「祭りではぐれたとか……。教団から迎えがきたとか」

「それを言ったら、ジュリアは追いかけるだろう。ラナンを置いて」

 ヴァレリーの気配が恐ろし過ぎて、指の一本も動かせないロザリアであったが、表情のすべてを絶望に染めて、そっと横を向いた。


「じゃあ、探さないでって家出したことに……。だめ、思いつかない。思いつかないけど、あとはヴァレリーが考えて。うまくやってよね」

 この期に及んで見逃してもらえるとも思えず、ロザリアは覚悟を決めてそれだけを言った。


 ヴァレリーは、一度手をひくと、背筋を伸ばす。ロザリアに大きく暗い影を落として、小さく頷いてみせた。


「わかった。任せろ」

 そして、ロザリアの細い首に手をかける。


 ぱさり、と。

 暗い路地裏に白い帽子が落ちた。


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