第9話 ハチミツとラベンダー

「さて、と。お茶でもいれようか」


 穏やかな声で言ったラナンに対し、ジュリアは手にしていたブラシを放り投げて「私が」と申し出た。

 がさつな仕草にラナンはくすりと笑みをもらして「いいよ」と言う。


「綺麗な髪なんだから、ちゃんと手入れして」

「それは、私が綺麗な方が、お師匠様も嬉しいという意味ですか?」

「うん? 別に含むところは何もないけど」


 意気込んで身を乗り出したジュリアに対し、意図を汲めなかったようにラナンは首を傾げて答えた。そのままキッチンに立つ。


(ふ……含んでください。俺にあんなに近づかれて触られても、少しも意識してないって、ありなんですか)


 むしろ昨日の今日だしそこは多少の不健全さドキドキを求めたいところだというのに、どこまでもいっても保護者の顔をしているラナンが憎らしい。


 さっさと魔法で火をおこし、お湯を沸かして茶器を並べている。

 見慣れた小さな後ろ姿。

 見つめているうちに、腕の中に閉じ込めて抱きしめた感触を思い出して、ぞくりと悪寒のようなものが抜けていく。

 かねて想像していた通りの頼りない華奢さと、儚い柔らかさ。危うく押し倒すところだった。

 今にもそのときの興奮が甦りそうで、慌ててブラシを拾い上げ、ガシガシと髪を梳かし始めた。


(長くて。ときどき邪魔なんだけど。綺麗って言われたら切りづらい)


 やがて、小さな木盆にお茶を載せてラナンが戻って来る。

 甘くやわらかな花のような香りがふわりと漂った。


「少しだけ焼菓子もあるけど、どうする?」

「お師匠様は?」


 聞き返すと、ラナンは悪戯っぽく目をしばたかせた。


「僕は食べようかな。大丈夫、ロザリアの分は残しておく」

「それなら、ご一緒します」

「よし」


 立ち上がったラナンは、キッチンで「そういえば」と声を上げた。すぐにチェック柄の布包みとガラスの小瓶を持って引き返してきた。


「ジンジャーのパウンドケーキにしようかと思っていたけど、これもあった。今日ジルからもらったんだよね。家が半壊したお見舞いだって」

「すみません」


 暴漢を打ち倒すときに、自分が半壊させた自覚はあったので、ジュリアは神妙に謝る。ラナンは笑って「謝らないで」と明るく言い、テーブルの上で布を広げた。

 中から出て来たのは、六枚のクランペット。

 ラナンはフォークで一枚突き刺し、手をかざす。


「美味しくなーれ、美味しくなーれ」


 ごく適当な呪文を紡ぎながら、掌から火を出して軽く炙ってジュリアに差し出してきた。立ち上がって皿を用意してきたジュリアは、フォークに手を伸ばしかけてから、綺麗な指に見とれてしまい、慌てて皿を差し出して受け取った。

 咳払いをして、テーブルに置かれた小瓶に目を向ける。


「そちらの瓶は?」

「シロップじゃないかな。開けてごらん」


 言われてジュリアは蓋を開け、皿の上のクランペットに回しかけた。何か思いがけない香りが立ち上った。ジュリアはぐっと眉をしかめて、皿に顔を近づける。


「どうかしたの?」


 お茶の香りに混ざりこんだ微かなシロップの匂いを確かめて、ジュリアは呻くように言った。


「ハチミツとラベンダーのシロップ……!」

「へえ。美味しそう」


 手を伸ばしてきたラナンの指先から、さっと瓶を取り上げた。


「……なんで?」

「お師匠様、魔導士なのに! 鈍すぎですよ!! こんなの、有名な媚薬じゃないですか!!」

「そうなの?」


 きょとんとしている顔をにらみつけて、ジュリアは瓶にぎゅっと蓋をした。


「ジルですか? へえ。強盗に押し入られて傷心のお師匠様と美人姉妹の家に、媚薬を差し入れするとはいい度胸ですね。これどういう意味ですかね」

「深読みしすぎじゃない?」


 だん、とジュリアは片手でテーブルを叩いた。多少力は加減したつもりだったが、ぐらぐらと茶の水面が波立った。


「わかってない、お師匠様。こういう危険なものは絶対に口にしないでください。絶対にです」


 言い終えてから、念のため自分で確認をしようと、フォークを手にして蜜まみれのクランペットを口にした。舌で味わい、微かなレモンの爽やかさも感じてこれは間違いないと結論づける。


「媚薬です」


 ぼさっと見ていたラナンが呟いた。


「食べちゃったね。平気?」

「…………え?」

「ジュリアが変な気を起こさないならいいんだけど。その……、過剰摂取には気を付けてね?」


 ラナンは困ったような上目遣いでちらっと見てから、慌ててカップを手にして唇を寄せる。目を伏せていかにも味わっている風にお茶を飲み始めた。


 平気?


 女性にしてはハスキーで、男性にしてはやや繊細な印象の涼やかな声がやけに耳に残った。


(うわ。勢いで食べてしまった……媚薬を。この二人きりの状況で)


 意識すると急に落ち着かなくなってくる。

 心なしか血流が早い。平気なんだろうか。


「……解毒剤をください……」

「ええっ。そんなのあるかな……。媚薬を落ち着かせるのってなんだろう。鎮静作用のあるもの? とりあえずお茶飲みなよ」

「はい。いただきます」


 今にも震え出しそうな手を気合でおさえつけながら、ジュリアは瓶を置くと、慎重にカップを手にしてお茶を口にした。 

 魔導士の沈着冷静さで見守っていたラナンが、穏やかな声で尋ねる。


「……どう?」

「だめかもしれません」


 ジュリアはカップをテーブルに戻すと、肘をつき、指の長い大きな掌で顔を覆って呻いた。


「なんで? そんなに!? ちょっと待って、僕もそれ確認するから」


 言うなり、ラナンは瓶に手を伸ばして掴み取る。

 ジュリアが止める間もなく蓋を開けて指先につけると、ぺろりと舐めとった。

 そのまま口をむぐむぐと動かして舌の上で味わっている。


「お師匠様……どうして……、何かあったらどうするんですか」

「何かあってからじゃ遅いからさっさと効果を確認しているんだよ。僕よりジュリアの方がたくさん摂取しちゃったでしょ」


(そんな思いやりと責任感で、媚薬を!?)


 潤みかけた目元を指でおさえながら、ジュリアは掠れた声で尋ねた。


「何か変化は……?」

「今のところ特に。普通に食品だと思う……けど。ジュリアは?」

「……だめっぽいです。さっきから動悸が。どうすればいいんですか。助けてくださいお師匠様」

「助けるって……医術の心得はないんだけど。困ったな、アレルギー反応かな」


 言いながら立ち上がったラナンの手を、ジュリアは素早くつかんだ。


「ん?」

「行かないでください。お師匠様……」


 今日はいつにも増してラナンが可愛く見える。これは媚薬のせいに違いない。


「ジュリア?」


 きょとんとしたラナンを逃がすまいとさらに手に力を込めた瞬間。


「兄さま」


 冴え冴えと冷え切った声が響き渡った。

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