君がいる。明日へ進む。

さとね

700日前の君へ

 珍しく、スマホで写真を撮った。

 明日が来てほしくなくて、どうしても今日を手の中に留めておきたくなったのだ。


 輪郭のおぼろげな夕陽を。

 春風と踊る木々を。

 ぽつぽつと明かりが点き始めた家々を。

 車の音に怯えてギュッと力を入れた野良猫を。

 懐に、しまいたくなった。


 立っているのは、橋の上。

 川の流れる音はしなかった。

 と、いうより。


「……あれ?」


 全ての音がなかった。

 見れば、風で動いていた木々が止まっている。

 ふと振り返ると、世界が白く染まっていた。

 慌てて周囲を見渡す。

 正面には先ほどの景色。しかし橋をまたいだ反対側は、完全なる無だった。

 橋から見下ろすと、川の流れが止まっている。

 野良猫はギュッと力を入れたままだし、おぼろげだった夕陽の輪郭ははっきりと固定されていた。


「時間が止まってる」

「違うよ。切り取ったんだよ」


 隣から、鈴のような声が響いた。


「うわぁ!」


 世界が完全に止まっていると思っていたのに、隣に立つ女の子はいたずらな笑みを浮かべて僕を覗き込む。

 深く黒い瞳に、目を丸くして情けない顔をした僕がいた。

 思わず、尻もちをつく。


「あはは! ごめんね、びっくりさせて」


 女の子が差し出してくれた手を取って、僕は立ち上がる。

 橋の上。左は停止した世界。右は真っ白な世界。

 さらには左右ともに音の消えた、異常な世界。

 そんな中で、この子の声だけが響く。


「ここを、知ってるの」

「うん。知ってるよ。来たのはこれが初めてだけど」


 女の子は言いながら歩き始めたので、僕もついて行く。

 すらっとした後ろ姿だが、制服は僕の高校と同じ。

 雰囲気がかなり大人っぽいので、三年生だろうか。


「あなたは……」

「春香。春の香りって書いて春香」

「は、春香さんは……」

「むう。硬い。どしどし来い。私は結構ずうずうしいくらいの男の子が好きだぞ!」


 春香は僕の背中をどんと叩いてきた。

 あなたの方がずうずうしいよ、なんて言えないけど。

 とりあえず、敬語とかはいらないらしい。


「……ここは、なに?」

「さっきも言ったでしょ。君が切り取った世界だよ。そのスマホで」


 僕が握りしめていたスマホに視線が移る。

 そこには、目の前の景色と全く同じものが映っていた。


「じゃあここは、写真の中……?」

「そこらへんは私もよく分からない。なにせ、そういう世界があるって聞いただけだし」

「誰から?」

「秘密。まあ、そのうち分かるよ」


 春香は踊るようなステップを踏みながら言った。

 世界の全てが止まっているから、春香の動きにやたら躍動感を感じる。


「は、春香は、どうしてここにいるの」

「お、いい質問!」


 くるりとその場で回った春香は、いつの間にか右手にスマホを持っていた。

 その画面に映っていたのは、僕の撮ったものと同じ景色。


「私も同じ景色を撮ったからだよ。同じ景色を切り取れば、同じ場所に来れるから」


 そんな偶然が――


「気になるなら、見てみる?」


 僕は春香のスマホを覗き込む。

 それは僕が撮った写真と『ほとんど』同じだった。


「これ、絵?」


 離れてみると写真そのものだが、近づけば絵の具の色づかいなどが見て取れた。

 これは全く同じ構図で、全く同じものを描いた絵だ。


「ふふん。いい出来でしょ?」

「春香が描いたの?」

「うーん。全部じゃないけど、共同制作?」


 曖昧な返事だった。

 だが、その詳細よりも気になるのはその絵の完成度だ。

 どこから見ても目の前にある景色そのものだし、目を凝らして絵だと分かるレベル。


「凄い、上手いね」

「えっへん。それほどでも」


 とても上機嫌だった。

 春香は豊満とは言えない胸をグッと張って口角を上げる。


「羨ましいな」


 そんな言葉が、ふとこぼれた。

 なんで、という顔を春香がするので、僕は言う。


「僕はこの景色を、良いと思えないから」

「それなのに、写真を撮ったの?」

「うん。明日が来てほしくないんだ。僕には居場所がないから」


 思えば、止まった世界に来たのは、僕が明日を拒絶したからかもしれない。

 今日のままでいてくれれば、明日なんて来ないから。


「ただ時が流れるのが嫌で、写真を撮ったんだ」

「じゃあ、今は嫌い?」

「好きではない、かな」

「だったら、好きになろっか」


 春香は僕の手を引っ張って歩き始めた。

 橋を下り、止まった世界をかき分けていく。

 河川敷を滑るように進む春香は、草花たちを見降ろして、


「絵を描くって言うのはね、世界の明度を上げることなんだよ」


 足を止めたのは、ギュッとなっている猫の前。

 栗色のサバ柄がこじんまりと停止していた。


「例えばこの猫ちゃん。絵を描くときはね、ただ猫がいるんだ、じゃあ終わらないの」


 春香は猫の尻尾を指差した。


「例えばこの猫ちゃんは他よりも尻尾が太くて丸いとか。指先の毛が長くてもっさりしてるとか、右目だけやたら力が入ってるから左右非対称だとか」


 よく見てみれば、その通りだった。

 他にも春香はいろいろなことを教えてくれた。

 あそこの家は他よりも明かりが点くのが早いとか。

 木々の中でも二本だけ禿げちゃってるとか。

 この橋から見ると邪魔なものがないから最後まで夕陽を見てられるとか。

 僕がなんとなく見ていた世界が、あっという間に彩られていく感覚があった。

 ――ああ、こんな風に世界を見れたら。


「君が切り取った『今日』も、案外悪くないでしょ?」


 僕が眺めていた世界の真ん中に、春香がグイッと入ってきた。

 また情けない顔がまんまるの瞳に映っていた。


「ま、まあ……そう、かな」

「うむうむ。それならよし!」


 春香は僕に背を向けてわずかに振り返る。


「今日が好きになれたなら、明日のことも好きになれる」


 言って、春香は河川敷に腰かけた。

 僕はその場に立ったまま、ぽつりと呟く。


「そう、なのかな」


 明日になったら、こんなに良いと思えた今日もなくなってしまうのではないか。

 家でも学校でも、どこにいても浮かんでいるような感覚だった。

 いつの間にか、僕は春香に全てを話していた。

 その全てを、春香は静かに聞いてくれた。

 一通り話し終わっても、それでも春香は笑顔で、


「私はね、今日にお別れするためにここに来たの」


 動かない夕陽を、春香は優しく見つめていた。


「明日が待ち遠しいけど、だからってこの瞬間をないがしろにできないから」


 僕は明日が嫌で写真を撮った。

 春香は明日が楽しみで絵を描いた。

 きっとこの子は、僕みたいな人間よりも輝いた人生を送るのだろう。


「なんでそんな、難しく考えるんだろうね。人間って」


 穏やかな声だった。


「いいんだよ。特別じゃなくて。今日もいい日だったって眠れれば、立派な人生だよ」


 普通でいい。

 ありきたりでいい。

 そんな『今日』が色づけば、きっと明日も素敵になる。


「それでも、居場所が欲しい?」


 声を発することも、頷くこともしなかった。

 それでも、僕が居場所を欲していることを、春香は分かっていた。

 春香は右手でぽんぽんと、隣の地面を叩いた。


「だったら、ここでいいじゃん」

「……え」

「ほら、おいで」


 言われるまま、僕が春香の左側に座ろうとすると、彼女はぷくっと頬を膨らませた。


「むっ。そっちはダメ」

「な、なんで」

「私、左利きだから」

「……ご飯でも食べるの?」

「ちがわい、ばか」

「えっ、なに。痛い」


 なぜか肩パンされた。

 僕はそそくさと右側に回って座る。

 春香の横顔も、滑らかな黒髪も、この世界の何より綺麗に見えた。

 かくんと首を曲げて僕を見つめる春香の髪が、艶やかに垂れる。


「私の隣は、居心地が悪いかい?」

「いや、そんなことはないけど……」

「むふふん! であろうであろう!」


 やたらと誇らしげだった。

 と、春香は思い出したように立ち上がった。


「それじゃあ、そろそろ時間だから私は行くね」


 まだ座ったままの僕を、春香は引っ張り上げる。

 名残惜しそうな顔を、してしまっていたのだろうか。


「胸張って歩こうよ。一歩踏み出してみるだけで、世界は変わるよ」


 最後まで、春香は笑顔だった。


「大丈夫。行ってこい」


 振り返ろうとした僕の背中を、春香はどんと叩いて。


「君が踏み出した明日で待ってる」


 そんな言葉が聞こえたときには、世界は動き出していて。

 後ろを振り返っても、そこには春香はいなかった。





 重い足取り。

 それでも止まらず、僕は学校へ来た。

 明日に進む出す勇気を、僕はもらったから。


 しかし、今日も昨日と変わらなかった。

 孤独に浮かんで、降りる場所なんてない。

 床を見つめて歩いていたら、突然つまづいてしまった。

 まるで、誰かに背中を押されたように。


「……美術室」


 見上げたら、その文字が見えた。

 人の気配を感じた。

 思わずドアに手をかけて、しかし体が固まる。

 不安が、僕の心身をがんじがらめにする。

 でも。

 ふと、声が聞こえた。


 ――今日が好きになれたなら、明日のことも好きになれる。


 彼女の言葉たちが。


 ――君が踏み出した明日で待ってる。


 本当の意味でもう一度、僕の背中を押してくれた。


「……春香」


 美術室の真ん中で、たった一人で絵を描く女の子。

 見覚えのある横顔と黒髪。

 名前を呼ばれて、春香はビクンと背筋を伸ばした。


「は、はい」


 戸惑いを浮かべて、春香は僕を見つめる。


「あの、どなた……でしょうか」

「え、いや……」


 寒気を感じて、僕は思わず後ろへ下がろうとする。

 しかし、昨日見た春香よりも目の前の彼女が幼く見えて、僕は足を止めた。


「君は……」

「一年の、佐山春香ですけど……」


 ああ、そうか。

 あの世界は、『昨日』じゃない。

 僕がスマホで切り取った、この世界とは隔離された『今日』だ。


「だから、君はあの絵の写真を撮ったんだ」


 今日と明日が繋がっているように。

 未来と今も確かに繋がっている。

 故に、僕はためらわない。

 君の好みは知っているから。


「隣、いいかな」

「え? は、はい」


 僕は春香の右隣にずうずうしく腰かける。

 彼女の左手には、筆が握られていたから。


「君と一緒に、描きたい絵があるんだ」


 僕はそう言って、スマホで撮った一枚の写真を取り出した。

 またいつか、未来の君が昨日の僕の背中を押してくれるように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君がいる。明日へ進む。 さとね @satone

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ