第2話 幸せな死

 最近、脳内をちらつく言葉がある。


(もう消えて無くなりたい)


 就職難につき転職は難しく、仕事を続けるには精神が持たない。両親を頼るような気合いは無く、頼れる友人もいない。同期に相談したとて返ってくるのは『俺もだよ』という生産性の無い同情ばかり。

 通り過ぎる車を見て、ふと我に返るのは何度目か。踏切を前に後一歩を思い留めたのは何回目か。日に日に増していく焦燥感と喪失感に抗う気力はもう無い。


「楽になりたい」


 不意に、閑静な住宅街に電子音が短く響いた。電話ではない事にほっとしながら、諸川はスマホを開く。新着メッセージが一件、ショートメッセージに格納された中身を開けば、そこには『楽になりたい?』の一言。送り主は見知らぬ電話番号だった。

 周囲を見渡すが人の気配は無い。家々から聞こえてくる楽し気な声が、状況の不気味さを一層深めていく。

じんわりと、スマホを握った掌が汗ばんだ。


『楽なりたいなら、その次の角を左に曲がって』


 ポーンと鳴ったかと思うと、画面には次の内容が表示されていた。

 不思議と恐怖が薄れて行く。一刻も早く家に帰って休みたいという思いとは裏腹に、足は誘われる様に画面の指示へ従っていた。

 曲がった先には先程と変わらず住宅街が広がっていた。次の指示は無く、首を傾げながらも何となくそのまま進んでみる。


(こっちからも自宅には帰れるし、まあいいか)


 タイミング良く迷惑メッセージが届いただけだろう、そう結論付けて歩を進めていき、自宅へと続く右に折れる角が見えてきた頃、頬を温かい風が撫ぜた。進めていた足が緩やかに止まる。


「あれ」


 ふと、前を見ると数名の人影が目に付いた。


(さっきまで居たっけ?)


 首を傾げていると追い越すように左から人が抜けて行く。


(俺の後ろ、人なんて居たか)


 考えている内にもどんどん追い越されていく。皆一様に草臥れた表情を浮かべており、亡霊のように歩く様がどこか悲しみを感じさせる。

 進むか曲がるか思案していると、再びポーンと電子音が鳴り響いた。画面には『次の角を右へ』との指示が。

 どこかほっとしたような気持ちで再び歩き出すと、諸川は自宅へと続く道を折れた。


 普段通らないからだろうか。両脇に木が生い茂っているその道は昼間こそ日が差して心地よいが、夜に通るには幾分勇気が必要な位、暗く湿った空気を漂わせていた。

 木々のざわめきが不安を煽り、温かな風が恐怖を芽吹かせる。


(さっさと帰ろう)


 楽にはなりたいが恐怖を味わいたい訳では無い。彼は小走りで細い通路を走り抜けていく。風が吹き、ざわめきが次第に大きくなるにつれ、生垣の向こうから話声の様な幻聴が聞こえ出す。


 ポーン。


 電子音に反応するように、自然と足が止まる。

 そこで漸く、幻聴が幻聴では無い事に気付いた。

 先程と同じ風体の人間が、前屈みに木々の合間を抜けていく。彼らは口々に何かを呟くと、己の部位を落として行く。耳が落ち、目が落ち、手が落ち、頭が落ち…だが痛みに叫ぶ声も倒れる者も居らず歩き続けている。


(何なんだ…)


 最早人で無い事は明らかだった。体が欠損して尚、真面に歩き続けられる人間はいないし、何よりこの闇の中で生垣を挟んだ先の姿など捉えれる筈がない。

 そうして考えていると、鼓膜を貫く電子音が彼の意識を引き戻した。


『次の角を左へ』

『大丈夫、安心して進んで下さい。幸せはもう直ぐそこです』


(悪戯じゃない)


 現状を的確に射たメッセージに心臓を氷塊が滑り落ちる。だが、脳がその言葉の意味を理解するなり、彼の心臓は逆に高鳴り始めた。

 ちらりと垣根を見れば、変わらず亡者達は行進を続けている。諸川は暫し逡巡したものの、その場を立ち去った。

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