駆ける夜

鞠吏 茶々丸

第1話 パワーハラスメント


 鳴り響くコール音に心臓が不整脈を起こす。思考回路は薄れ遠のき、全身からじんわりと汗が滲みだす。

 確認せずとも解る、これは会社からの電話だ。

 諸川知彰もろかわちあきは恐る恐る受話ボタンを押す。途端に鼓膜を震わせる怒声が周囲に撒き散らされた。通話音量は最低だというのに、電話口の声は耳から話していてもよく聞こえる。


「それはその、いつ頃起きたのでしょうか」


恐怖か義務感か。上司からの『印刷機が動かない。何をしたんだ!』という意味不明な問いに状況を確認すべく諸川は律義に質問を繰り返す。だが返される言葉はどれも『知らん』『解らん』『阿保か』のどれかで、二進も三進も行きはしない。挙句の果てに言われたのは『戻って来い』の一言で一方的に通話は切れた。


入社二年目、ようやく仕事が板につき始めた矢先の部署異動。新設部門に移動したかと思えば、そこはどう考えても掃き溜めの集まりで、部署異動を懇願してみれば返されたのは『あいつが定年退職するまで待ってくれ。お前だけが頼りなんだ』という嬉しくも無い激励だった。


 時刻は午後八時。既に自宅近辺だというのにまた戻らなければならないのかと、鬱々とした気持ちで踵を返した。

 結局、印刷機が動かなかった原因はただの紙詰まりで、一分と掛からず通常運転を再開した。上司はと言えば『これだから最近の若者は! この程度で仕事が出来ると思うなよ!』と喚き散らした後、諸川を置いてさっさと帰った。


「…もう嫌だ」


時計は既に二十一時を指しており、今から最速で帰宅したとしても二十二時は超えるだろう。疲れを引き摺りながら、彼は二度目の退社を行った。

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