運のいい男
「お? それ、ひいてんちゃいます?」
小宮さんが私の手元を指さしていう。
私はハッとして竿先に目をやった。緩やかにカーブした竿先が小刻みに震えている。
ぼんやりと考え込んでいて、気づきもしなかった。というか、指摘されなければわからないほどの小さなアタリだ。
勢いをつけて竿を立てると、確かにブルブルと指先に震える感触が伝わってくる。
手ごたえを感じながらリールを巻きとると、海面に銀色に輝く魚が姿を現したので、竿のしなりを使って釣り上げる。勢いよく空を舞った魚は、私の足元に落ちてピチピチと小さく跳ねた。
「初めてにしては上出来ですやん。まあ、サイズはアレですけど」
褒められているのか
「釣りなんてもんは、一日中粘ってボウズっちゅうことはしょっちゅうでっせ」
「こんな小さな魚、釣れたうちにはいらないでしょう?」
「コマい魚が釣れるちゅうことは、それを狙って大物が回ってくる可能性もありますさかい。人生いろいろ、魚かていろいろですわ。プランクトンやら海藻ばっかり食うのもおれば、餌の魚を追いかけまわして延々泳ぎ続けとる魚もおる。こういうマメアジみたいなんを
「へえ。それで、こいつは食べられるんですか?」
私の足元で飛び跳ねているマメアジとかいう魚を指さしてたずねると、小宮さんは「ははっ」と乾いた笑い声をあげた。
「まあ、食えんことはあらへんけど、腹の足しにもならんでしょ? ホンマやったらこういうサイズはキャッチアンドリリースいうて、海に逃がすもんやねんけど……」
小魚をひょいと拾い上げると、小宮さんは「貸してみ?」と私から竿を取り上げる。どうするのかと思って見ていると、彼は釣糸を手繰り寄せ、マメアジの背中を貫くようにプスリと釣針を通した。そして、今度は竿を振りかぶって、マメアジのついた仕掛けをびゅーんと沖の方へ投げる。勢いよく飛んでいったマメアジは、二、三十メートルほどむこうで、トプンと海に落ちた。
「あのマメアジを食おうとして、大型の魚がパクっといったら儲けモンや。まあ、もうしばらく待ってみましょうや」
私に竿を手渡して「どっこいしょ」と小宮さんは岩場に腰を掛ける。私も竿を握ったままま、少し離れた場所に腰を下ろした。
波打ち際は岩場になっていて、ザブンと波が砕けるたびに、小さな波しぶきが舞った。
小宮さんとは古い付き合いではない。つい先ほど出会い、「釣りでもどうでっか?」と誘われるまま、この場所までやってきたのだ。
だから、彼とここでどんな話をすればいいのか、よくわからなかった。
家族のことを聞くのもなんだか変だし、最近どうですか? みたいな曖昧な話題が続く気もしない。
それに、彼の風貌から察するに、普通の人、という感じではない。髪はぼさぼさだし、ひげだって伸び放題で、どうにも不健康そうだ。クリエイター系の仕事をしている高校時代の友人が、ちょうどこんな雰囲気だったな、と思い出す。
こうなると、仕事の話でも共通の話題があるかどうかも怪しい。なにせ、こっちは毎日、書類と格闘しているようなタイプの普通の会社員なのだ。
結局、あれこれと考えては、結局もとの場所に思考が戻ってきてしまって、さっきまでと同様、無言のままぼんやりと海を眺めていることしかできなかった。
「腹、減りましたやろ? これ、食います?」
物思いにふけっていると、またも突然、小宮さんに声をかけられてドキンとする。
少し離れた場所に座る彼が、サバの水煮缶を差し出していた。
「随分と用意がいいんですね」
「サバ缶と小麦粉とニンニクで練り餌を作るんですわ。匂いにつられて、結構ええ型の魚がかかるんでっせ? 腹が減ったら、ヒト様の飯にもなりますさかいな。サバ缶様様ですわ」
私は釣竿を置くと缶詰を受け取った。プルタブの蓋をパカンと開け、輪切りになった切り身を口に運ぶ。安物なのだろうか、ぱさぱさとした触感で、おまけに独特の魚臭さがあって、大して美味くもない。考えてもみれば、釣りをするのも、サバ缶を食べるのも初めてだ。
「大物でも釣れたら、ちょっとは楽しくなるんでしょうけどなぁ」
小宮さんは海の方を向きながら腕組みをして、ほんの少しだけ困ったようにいった。私もつられるように、遥か水平線のむこうへと視線をやる。沖に白波が立っている。その波の向こうに何かが見えた気がして、私はやおら立ち上がった。
「どないしはったんや? 急に立ち上がって」
「いま、船が見えたんだ」
「船って」小宮さんが小馬鹿にしたように笑う。「そんな急に現れたりしまへんて。なんか大きな魚が跳ねたんちゃいます?」
「なにを呑気なこといってるんですか!」
私はつい、感情的な声をあげた。小宮さんはびっくりしたみたいに、目を丸くして私を見上げている。彼に悪気がないことくらい理解している。けれど、彼の飄々とした余裕がかえって、私を苛立たせた。
「本当なら、私はのんびりとした船旅を楽しんで、夜が明けたら東京に着いているはずだったんだ……なのに、船が沈没してみんな海に投げ出されてしまった。気付いたらこんな無人島に流れ着いてあんたと二人きりだ」
絶望に押しつぶされそうになり、私は頭を抱えてうずくまる。小宮さんがフラフラと近づいてきて「大丈夫や、しっかりしい」と肩に手をかける。
「そう悲観しなさんな。わてとこの島に流れ着いたってだけでも、あんさんは運がええってもんや」
「こんな絶望的な状況、どこがどうなれば、運がいいなんていえるんだ!」
声を荒げ苛立ちをぶつける私に向かって、小宮さんは目を細めて笑いながら答えた。
「わて、無人島に漂着するの、今回で二回目やからな」
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