イルミネーション・イミテーション

 雪乃は店の奥にある小さな更衣室で着替えを終えると、タイムカードを切って足早に店を出た。センサーで人間の接近を検知したドアが自動的に開くと、一筋の冷たい風が彼女の髪をふわりと撫でる。彼女は前の開いていたテーラードジャケットをぎゅっと胸の辺りに寄せながら、ボアのアウターを選べばよかったかなと少し後悔した。

 出勤時とは対照的に、外の世界は既に文明の光で満ち溢れていた。何層にも重なるオフィスから漏れ出す蛍光灯の白い光、幹線道路を絶えず往来する車のヘッドライト、信号待ちをする人間の顔は現代人の必需品と呼べる存在であるスマートフォンのせいでほんのりと明るい。空を見上げれば、星の光とは似ても似つかぬ航空障害灯の赤い光がぽつりと浮いている。

 時刻は九時を少し回った頃だった。雪乃はポーチにしまっていたスマートフォンを取り出すと、ロック画面に表示されているメッセージの通知に気がついた。そこにあったのは、彼女の職場の先輩の名前だった。

夜野やの晴哉 二分前」という文字を見て、心臓がとくりと小さく跳ねた気がする。彼女がアルバイトを始めて半年ほどが経つが、いつしか指先は自然とその名前に吸い寄せられるようになっていた。乾いた空気の中で、淡い赤色のネイルが画面に当たって軽い音を立てる。

『そろそろ終わったころかな? おつかれさま〜』

 予想以上の気温の低さでこわばっていた雪乃の口元がふっと緩んだ。ボアが着たくなるような寒さや、アルバイトを終えたばかりの疲労感が優しく溶け出すようだった。

『夜野くんも別のバイトだったんですよね、おつかれさまです。ちょうど今終わったとこです』

 普段の雪乃であればあと十分くらいは、なんと返信するのが一番よいのか、ということを議題に脳内会議を開いていたはずだ。しかし今日の彼女はさっとメッセージを打ち込むと、議長が席についてしまう前にえいっと送信ボタンを押した。彼女はなぜか、嫌いな上司に反抗した時のような達成感を覚えた気がして「や、やってやったぜ」と内心で呟いてみた。

 既読は十秒も経たないうちにつく。その瞬間、彼女はほんの少しだけ身構えた。「あ、今読まれたんだ」という感覚は、どうしてか分からないがやけに緊張する。自分が変なメッセージを送っていないか、相手からちゃんと返信が貰えるか、「既読」という文字が見えた瞬間から気になって仕方がない――もちろん、夜野からのメッセージに限った話ではあるが。

『じゃあ約束通り、駅前のスタバね! ゆっくりでいいから気をつけて来てね』

 今日の雪乃が一味違うのには当然のことながら理由があった。というのも、夜野から「ちょっとしたお礼」としてお茶に誘われているのだ。一週間ほど前、彼が急用で突然シフトに入れなくなったことがあり、その時に彼の代わりに入ったのが雪乃だった。

 別にお礼をされるようなことをしたわけではないのだが、夜野からの誘いを雪乃がわざわざ断るはずもない。夜野とは月に三回程度しかシフトが被ることがないため、こうした機会に会えるのはとても嬉しかった。

 雪乃は「おっけーです」とだけ返信すると、スマホを握りしめたまま歩き出す。その足取りはまるで羽が生えたかのような軽さだった。


 十分ほど歩いたところで雪乃は、セイレーンの描かれた有名なロゴの下で手を振っている夜野の姿を見つけた。てっきり店内で待っているものかと思っていた彼女はびっくりして、小走りで彼のところに向かう。

「もしかしてずっと外で待っていてくれたんですか? 寒いのにすみません」

「んーん、俺もいま来たとこだから全然待ってないよ。ほらっ、早く行こー」

 夜野はそう言って小さく微笑むと、雪乃に先を促した。

 落ち着いた雰囲気の店内に入ると、暖かい空気が二人の冷えた身体を包み込む。席は半分ほどしか埋まっていなかったので、先に席を確保しておく必要はなさそうだった。そのため二人は、注文するのを待っている二組の客の後ろにそのまま並んだ。

「あ、そうだ、この前は代わってくれてありがと。めっちゃ助かった」

「いえいえ全然! その日は何も予定入ってなかったので、むしろすることができてよかったくらいです……? それなのに今日は誘って貰えて……その、ありがとうございます」

「あはは、なにそれ。なんか、雪乃ちゃんってそういうとこよく気にするよね。今日はお礼なんだから、何も気にせず好きなの頼んでよ。……俺は何にしよっかな〜」

「ありがとうございます。うーん、そうですね、私は……あのクリスマスのラテがいいです。見た目がめちゃくちゃ美味しそうじゃないですか?」

 雪乃はレジ奥の壁に掛けられたメニューを指差した。クリスマスに相応しい、真っ赤に映えるストロベリーソースが彼女の舌先を誘惑する。飲むまでもなく美味しいことが分かってしまうのだ。

「あー、確かにあれ美味しそう。てか、まだ一ヶ月以上も先なのに、もうクリスマスメニューなんだよねえ。ほんと一年って早い」

「そうですよね。私もついこの前まで大学に入学したばかりな気がしていたのに、気がつけばもうすぐ二年生が終わりそうです。時間が経つのが早すぎて、ちょっと恐くなりますよね」

「俺なんてあと一年ちょっと社会人だよ、やばいよね。なんかもう、無駄に日常を過ごせないなって思うもん。まあ思うだけなんだけどさ……。あ、俺まだ決まってないからさき注文して」

 他愛もない話をしているうちに前の二組は注文を終え、雪乃たちに順番が回ってきた。薄いラベンダーの髪色の女性店員がにこやかな笑顔で対応してくれる。彼女はうわついた声で先ほどのラテをホットで注文した。夜野はしばらく悩む素振りを見せてから、結局「それを二つで」と言った。


 * *


「営業時間は十時半までとなっておりますので、ご協力お願いします」

 それは夜野との別れの時間が間近に迫っていることを告げられたのと同義だった。時間が経つのは本当に早いと思う。どうしてこの幸せな時間は永遠と続いてくれないのだろうか。せめてあと一時間くらい一緒に話していたいと思うのは欲張りだろうか。

 もっと一緒にいたい、とできることなら言いたかった。しかし、内気で奥手な雪乃がそれを伝えられるはずもない。臆病な自分を叱責したくなるが、一時間でも夜野と二人きりの時間を過ごせたことは最高の幸せに変わりない。彼女はそう思うことでしぶしぶと溜飲を下げた。とことんまで自分に甘いなと思う。

 店員に声を掛けられた客がぞろぞろと店をあとにする。夜野も雪乃も、退店する準備は既に整っていた。それでもまだ二人が店内にいるのは、彼女にとって椅子から立ち上がるその一歩がとてつもなく重いからだろう。しかし、時間は待ってくれない。頭では分かっていてもなかなか踏み出せない一歩だったが、彼女は意を決して立ち上がった。


 外の世界はやはり寒い。彼女は当然、ここで別れを惜しむことになるのだろうと思っていた。シンデレラの鐘は鳴り、魔法は解け、カボチャの馬車はただのカボチャに戻るものだと思い込んでいた。現実とはそうあるのが普通で、それが私のよく知っている世界だ。

 だから店を出たあとに、夜野の口からそんなロマンチックな誘いが飛び出すとは夢にも思っていなかったのだ。

「……そういえばさ、モールの広場で毎年イルミネーションやってるじゃん。雪乃ちゃんってもう行ってみたりした?」

「……あ、え、まだ行ってないです。というか、行ったことないかもです」

 そもそもイルミネーションをやっていることすら知らなかった。雪乃が職場のあるこの街を頻繁に訪れるようになったのは、アルバイトを始めてからのことだ。電車通学の通り道にあるという理由で選んだアルバイトで、学校がない日に家から通うにしては少し遠い。

 いろいろなショップが立ち並ぶ大きな街なので、バイトを始める前にも、買い物に来ることはたまにあった。しかし、遅い時間までいることはあまりなかったように思う。そのせいか、イルミネーションを見る機会というのは今までに一度もなかった。

「じゃあさ、今から一緒に行ってみない? 二十四時までやってるらしいからさ」

「ほ、ほんとですか!? 行きたいです!」

 かなり食い気味で雪乃は返事をする。口をついて言葉が出るなど、彼女にとってはなかなかに珍しい。その勢いについ笑ってしまう夜野を見て、彼女は急に恥ずかしくなる。しかし、あんなことを言われてしまえば、どうしたって感情を抑えることは難しいだろう。顔がほんのりと赤いのは、さっき飲んだ真っ赤なストロベリーソースのせいにでもしておこう。

「あはは、じゃあ行こっか」

 雪乃は夜野の隣で近すぎない間隔を保ちながら、想像のはるか上にあるロマンチックな世界を目指すことになった。


 * *


 暗黒くらきに煌めく光の運河が流れ、氷の華が咲く露草色一面のその世界はとても現実のものとは思えなかった。数えきれないほどの光の粒が、なんでもないはずの見慣れた光景を非日常の世界へと昇華している。俯瞰して見れば、ここは幾多の星が瞬く銀河の中なのではないかと錯覚を起こしてしまいそうだ。

 この場では、他人のことなどまるで気にならなかった。そもそも、自分が本当にここに存在するのかということすら確かめる術がないように思えた。壮大な世界を目の当たりにし、自分など取るに足らないちっぽけな存在なのだと、気がつけば雪乃はひしひしと感じていた。彼女は、いや、恐らくその場にいる多くの人間がその世界に圧倒されていた。

 さらに歩みを進めれば、今度は月明かりのような優しい光の果実をらす不思議の森に足を踏み入れることになる。先ほどの世界が心躍る煌びやかな美しさだとするならば、こちらは心静まる落ち着いた美しさとでも言えよう。そこには色とりどりの花が咲き誇り、人々はその甘い香りに鼻腔をくすぐられる。

 この世に魔法が存在していることを、どうやら雪乃は二十歳になってようやく認めないといけなくなってしまったらしい。光景の単なる美しさに限らない、なんとも不思議な光の魅力は彼女の持ち得る力を全て出し切ってさえ、もはや形容のしようがなかった。まるで純情無垢な幼い子供のように、なんの曇りもない心でその全てを受け止めようとすることしかできないのだ。彼女は自分の心が動かされている様子をただ茫然と眺めているようだった。

「なんか、綺麗すぎてずるいなあ……」

 恐らく夜野も同じような感情だったのだろう。雪乃に話しかけるわけでなく、それはただ、心の声が抑えきれずに漏れた感嘆の呟きだった。

「……ほんとですよね、ずるいです。綺麗すぎて、ずるい」

 夜野につられて、雪乃も積み重なった感情をそのまま空気の振動として出力する。なんの淀みもない真っ直ぐな光にずっと囲まれていたからだろうか。感情は余計な思考に邪魔されることはなく、驚くほどすっと言葉に変わった。

「人の心をこんなにも簡単に動かさないで欲しいですよね。こんなことされちゃったら、怯えている私がバカみたいじゃないですか」

「怯えている?」

 夜野に指摘されて、雪乃は自分の内言と外言の区別が曖昧になっていたことに気づく。本当はそんなことまで言うつもりではなかった。しかし、一度溢れ出してしまった言葉に今更ブレーキをかけることなど、彼女には到底できそうもなかった。

「……そうです。私は今までずっと、自分の気持ちを伝えるのが怖かったんです。拒絶されたらどうしようとか、私なんかじゃ絶対ダメだとか、そういうことを思っちゃって。今の関係からなにかが良くない方向に変わるのが怖かったんです。そうやって現状維持に逃げてきて。……でも、今ならちゃんと言える気がします」

 夜野は茫然としていた。これから雪乃が言うことは、彼にとっては唐突すぎるかも知れない。だが、彼女にとってはそうではない。その言葉は彼女が長い時間をかけて育み、その存在を常に確かめてきた気持ちの集大成なのだ。だからもう、雪乃は止まらない。

「私は、夜野くんが好きです。一緒に働いているうちに、いつからかそう思うようになってました。夜野くんの気持ちは分からないけど、私はこうして二人でいられることが嬉しくて、とても幸せです」

 きっとこれもイルミネーションの魔法なのだろう。あの真っ直ぐな美しい光のように、自分の気持に素直になれる魔法だ。緊張や不安、照れや打算などの余計な思考が剥がれ落ちた、心の原石が今この瞬間に光り輝いている。

 雪乃の告白に対し、夜野がすぐに言葉を発することはなかった。彼は驚いた表情でその場に佇んでいるだけだ。それでも、二人の視線は一瞬たりとも離れない。見つめ合った状態で、彼は雪乃の言葉のをゆっくりと咀嚼しているようだった。

 立ち止まる二人のとなりを、何人もの人々が通り過ぎていく。きっと十五秒にも満たなかったと思う。だが、このときばかりは時間の経過が異様なほどに長く感じられた。雪乃はそれがじれったくて仕方がなかった。夜野の言葉を、その返答がどういうものであれ、早く聞きたかった。

 夜野は見つめ合っていた視線を一度、夜空へと向けた。

 雪乃ははっと息を呑む。その瞬間、雑音が世界から消え、彼女の心音と彼の息づかいだけが鼓膜に響いているようだった。そして夜野は再び彼女の瞳を覗き込んだ。

「……本当はさ、俺が今日それを言うつもりでここに誘ったんだ。場とか、雰囲気の力を借りてやろうって思ってさ。俺って実は大事なところでヘタレなんだよ。これを見に行こうって誘ったのだって、もっと早く言うつもりだった。だけど、なかなか言い出せなくてさ、結局言ったのは店を出てからだったし。……危うくそのまま帰るところだったよね。でも、それでもちゃんと言えてよかったよ。つまり……うん、そう」

 雪乃はその言葉の続きを穏やかな表情で待つ。自分の心にじわじわと嬉しさが込み上げてくる様子が手にとるように分かった。十度前後の気温のなかで、心と身体がほんのりと熱を帯び始める。

 そして、はにかんだ表情の夜野が声のトーンを一つ落としてはっきりと言った。

「俺も雪乃ちゃんが好きです」

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プラトニック 谷内直希 @naoki_clear

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