きっと偉そうなやつのせいなんだ

 反対側のホームに設置されたベンチに、腕をさすりながら腰掛ける一人の青年を少女はひっそりと盗み見る。黒のデニムに白のロングTシャツ一枚という、いかにも大学生らしいシンプルでカジュアルな服装は、どう見ても耐寒性に乏しそうだった。冬本番のような本格的な寒さではないものの、風が吹けば身を縮こまらせてしまいそうにはなる。

 一週間ほど前までは半袖でもなんら問題なく過ごせていたはずなのに、一昨日あたりから一気に気温が落ちた。きっと空の上でふんぞり返っている偉そうなやつが、的はずれな経費削減政策を言い出したりでもしたのだろう。首元できつく締まったネクタイを少し緩めて、軽い咳払いをしたあとにしゃがれた声で、「今年の冬から気温調節にかかる費用の削減のために、段階式を取りやめて簡易的なスイッチ式に変更します」だとかなんとか。

 少女のいるホームに電車はまだやって来ない。

 西に広がる茜色の空と、夜を迎えた藍色の空の隙間は白っぽくも見えるし、虹色のようにも見えた。澄んだ空には明るい光を放つ星が無作為に散らばっている。

 青年のいる側のホームの電光掲示板の表示が切り替わり、聞き慣れたアナウンスが流れる。やがて電車が轟音を立ててホームに入ってくると、彼の姿は車体に隠れて見えなくなった。空気の抜ける音がして、電車のドアが開く。少女の口からも、はあ、と空気の漏れる音がした。

 少女は彼に恋をしていた。

 同じ学部に属する彼とはたびたび学舎内ですれ違う。そのたびに少女は小さな幸せを感じていた。彼とはいくつか同じ講義を取っている。その時間、少女はなかなか勉強に集中できなかった。それなのに、少女が彼と話したことはほとんどなかった。いつも遠くから眺めているだけで、話しかける勇気はなかった。だからせめて彼のことを長く見ていたいと少女は思っていた。ストーカーじみているとも思うかも知れないが、実際はちらちらと見るばかりで彼に気づかれることはない。もし少女がじっと熱い視線を送り続けることができるのなら、彼に話しかけることくらいきっと容易かった。

 今日のように、彼と帰りの時間が被ったときは嬉しく思っていた。電車がやってくるまでの限られた時間に幸せを感じていた。何かの不具合があって電車が来なければ、もっと彼を見ていられるのに、などということを思ったりもした。だから電車が行ってしまうと少女はよくため息をついた。彼のいなくなったホームを見て、こんな風に見ているだけじゃダメだ、と何度も自分に言い聞かせていた。

 しかし、不思議なことに最近の彼は電車が来てもすぐには乗ろうとはしない。スマホをいじりながら顔を少し上げるだけで、立ち上がろうとはしないのだ。そしてこれも同じくらい不思議なことに、最近の少女は彼に早く電車に乗って欲しいと思っていた。早く電車が来て、少女が見ているうちに出発して欲しいと思った。

 しかし今日も、電車が過ぎ去ると、人気ひとけのなくなったホームには先ほどと変わらない様子でベンチに座っている彼の姿があった。

 それを見た少女はわっと泣きたくなってしまう。パソコンとノート数冊しか入っていないトートバッグが急に重くなった気がした。今なら誰かに少し触れられただけで、簡単に崩れ落ちてしまいそうだった。

 今度は少女のいるホームでアナウンスが流れた。高速で入ってきた電車の巻き起こす風に、少女はぐらりと揺れるが、足を踏ん張って辛うじて倒れそうになるのを防ぐ。目の前で開いた扉からは誰も降りて来なかった。少女はホームと電車の隙間に気をつけながら車内に乗り込む。そして空いていたシートを見つけると、身体の力が全て抜け落ちてしまったかのように深く座り込んだ。

 少女は目線だけを動かして車窓から彼の姿をそっと窺う。彼はやはりベンチに座ったままだった。名残惜しさの漏れ出すその眼差しが彼に気づかれることはない。

 やがて重い音を立てながら電車はゆっくりと動き出した。

 偶然、彼がそれと同時に立ち上がった。少女は息を呑む。目を背けたくなる気持ちとは裏腹に、少女は彼の行動に釘付けだった。

 彼はスマホをポケットにしまい、誰かに向かって小さく手を振りながら歩き出していた。少女は既に走り出した電車の中で彼の視線の先を見やる。そして少女はやはり見つけてしまうのだ。正直に言えば、見つけたくなかった。気のせいと言い訳できていたものが、確信に変わるのが怖かった。しかし、それは少女の視界にはっきりとした輪郭を持って映しだされる。

 反対側のホームでは、同じようにして手を振る女性が小走りで彼のもとへ駆け寄っていた。

 ああ寒いな、と少女は心のなかで呟いた。今年の冬はやはり例年とは違う寒さになりそうだった。ああそうだ、これもきっと空の上でふんぞり返っている偉そうなやつのせいなのだ。

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