第45話 リョウゼン和尚2 -魔球-

 リョウゼン和尚は、ボールを右手でつかみ、胸の前でグローブに収めると、まるで仏様に向かい合掌している姿のように見えた。そしてアンダースローに近いフォームで、ボールを投げた。


 そのボールは、いつも見る美しいフォームから投げられるボールよりも力はなかった。ちゃんと野球を練習したことのない学生が、遊びで投げるようなボールだった。


ボールは石垣に当たったが、そこは平らな面ではなかったので、少し右側に弾み、リョウゼン和尚は、慌てて走って何とかゴロをグローブに収めた。


 遊びのキャッチボールを見るようなボールだったが、サトシは途中で、一瞬、動画がバグったのと同じように見えた感覚があった。


もしかして、自分はまばたいたり、ちょっと目を動かしてしまったのかもしれないと思った。


 リョウゼン和尚は振り返ると、にやりとサトシに少し意地悪そうに笑った。サトシは、笑いに何の意味があるのかよくわからなかった。


「すいません、もう一回お願いします」

 サトシは、もう一球投げてもらうことにした。 


 リョウゼン和尚は、また同じように胸の前でボールをセットし、腰の高い、不格好なアンダースローで投げた。同じように力のない球が、さっきよりも高い位置にボールはぶつかった。


 サトシは不思議に思った。さっきと同じように、突然ボールがおかしな動きをしたように感じた。またしても、二つの動画をつなぎ合わせたような、不自然な動きに見えた。


「す、すいません。もう一球」

 リョウゼン和尚は、にっこり笑って、もう一度投げた。今度は普通のスローボールが壁にぶつかった。


「ああ、すいません」

 リョウゼン和尚は、振り返って舌をぺろりと出した。次の一球も、同じように何も変化しない普通のスローボールだった。今度は何も言わず、またアンダースローからの五球目を投げた。


 今度はボールは確かに、途中で奇妙な動きをした。間違いなく一瞬軌道を変えたのだ。ありえない変化だが、瞬間的にわずかに浮き上がったように見えた。


「成功は五つに三つですか。まだまだですね」

 リョウゼン和尚は、にこやかに話した。


サトシは、その軌道に驚いていた。ボールが浮き上がるなんて信じられない。


それは、カーブやスライダーのように回転の方向に曲がっていく変化ではなく、フォークボールのように急激に落ちていく軌道でもない。かと言って、ナックルボールのように、不規則に揺れながら変化するボールでもない。


スローボールが確かにある一点で、急に浮き上がる。その一点の変化以外は、また普通の軌道に戻る。


「それ、教えてください。お願いします」

 サトシは、リョウゼン和尚に頭を下げた。




 サトシとリョウゼン和尚は、本堂にいた。もうすぐチームの練習への出発時間になりそうだったが、サトシはどうしても話が聞きたかった。


「さっきの、ボールは何なんですか。空中で何かにぶつかったみたいに、ボールが急に上にはねたみたいに見えました。ただそのあとは何の変化もない。あの一点でだけボールが浮き上がった」


 リョウゼン和尚は、正座したまま答えた。

「そうですね、あなたがそう見えたのなら、そうなっていたのかも」

「いやあ、絶対浮き上がってますよ」

 リョウゼン和尚は、また笑った。


 サトシは、リョウゼン和尚に何度も頭を下げて頼んだ。

「あのボールの投げ方教えてくれませんか」

 リョウゼン和尚は、少し困った顔をした。

「まだ誰かに教えるようなものでもないのですが…」

 

 次の日も、サトシは、またお寺に出向いたが、リョウゼン和尚はいなかった。どこかでおつとめがあったのかもしれないと思い、その日は帰った。


 その次の日も、サトシはしつこくお寺を訪ねた。翌日からは遠征があるので、もし、この日に会えなければ、一週間チャンスはない。サトシは、何としてでも、あの浮きあがる魔球の秘密を知りたかった。


境内でリョウゼン和尚は、また、投げていた。

「やあ、今日も来ているということは、もしかして、昨日も来ていたということですかな?」

「もっちろんです」

リョウゼン和尚は、しばらく考えた。

「道を究めたいと思うのも煩悩なら、あながち煩悩の全てが悪いというわけではないかもしれませんしね」

 リョウゼン和尚は、またサトシをお堂へと通した。和尚の手には、野球のボールがあった。




 サトシを座らせると、リョウゼン和尚はボールを見せながら話し始めた。


「ご存じのように、変化球というのは、ボール自体の回転や、縫い目の形により、空気の流れに歪みを生じさせてボールの進行方向を曲げるものです。おやおやプロの選手ずいぶんとえらそうなことを言ってしまいましたね。失礼しました」

「和尚さん、こっちは弟子ですから何でも聞きます」

「私も一人石垣に向かって、投げている中で、いろんな種類のボールを投げてみました。確かにボールの回転でいろんな種類な変化が生まれます。私は生意気にも、反射神経の及ばない絶対に打たれないボールを見つけようとしました。つまり、バットがぶつかる直前に突然に曲がるボールです。そんなボールがあるわけない?でも無理かと思っても、正解に偶然に巡り合うことはあるんです。それは縁でしょうか」


 リョウゼン和尚は、ボールを右手でつかんだ。

「変化のない引力に従うだけのボールが、ベースに近づくある一点で、突然わずかに浮き上がる。そう、サトシさんが見た通りです。その一瞬の変化にバットがぶつかる瞬間まで気が付かないボール」

 リョウゼン和尚は、サトシの目の前で、ボールを横にまっすぐ動かし、急に持ち上げると、また線を引くように横に線を引いた。

 

「あの突然変化する動きは、ナックルボールの揺れる動きにも少し似ている。もしかしたら、回転をかけないボールなのでしょうか?」

「確かに強い回転で、ボールの前に気圧の差を与えて、大きく曲げる変化球ではないです。かといって、ナックルボールのように、回転を止めて、不規則な空気のポケットに変化をゆだねるというわけでもないのです」

「はあ」

「つまりは、スピードと回転と空気の動きがある点で完全に一致した時のみ、この変化が起きるのです」


 サトシは、まだ、よく理解できなかった。

「私は魔球を探し、いろんな投げ方や回転を試して、七年目にこの球を見つけました。ただ、その同じ球をもう一度投げるのに三年かかりました。三回に一回は成功できるようになるのに、それから六年かかりました。十回に六回成功できるまでに、また四年かかりました」


 リョウゼン和尚が魔球を身に付けるために費やした時間を考えると、サトシはただただ尊敬するしかなかった。


「こんなすごいボールが七割の確率で投げられるのは、プロテストでも受けたらどうですか?」


 この不思議な変化球を投げ続ければ、たとえプロでも打てないと思った。


「いえ、残念ながら、私の体力では、ボールがベースに届くずいぶんと手前で、変化してしまいます。ベースに届く時には、ただのスローボールになってしまうのです。バッターから見れば、たとえ途中で浮き上がったとしても、打つ時はただの遅いボールです。このボールでバッターを打ち取るには、変化の始まりをベースの三十センチ手前くらいまで、先にしなければなりません。最後に打つ瞬間に3センチ浮き上がる。そうすれば打球は高く真上に上がるはずです」


 ボールを打つ瞬間に3センチ浮き上がるそうすれば、ボールはどれだけ強く打っても、真上に上がっていくだけ。どのバッターもジャストミートできないに決まっている。


 サトシは、いろんなスラッガーを思い浮かべた。どんな強打者もフライの山を築く。そう、あのあこがれの世界一の天才少女も。


「和尚さん、そのボール、僕に教えてくれませんか」

 リョウゼン和尚は腕を組んで、難しい顔をした。


「確かに、『はい』というのは簡単です。しかし、実際はなかなか簡単ではないですよ。変化をバットと当たるぎりぎりまで抑えるには、相当のスピードが必要です。もちろんプロ選手のあなたは、スピードの壁はクリアできるかもしれない。今度は浮き上がらせるための微妙な回転を見つけなければなりません。自分もプロの速いボールにどんなボールの回転がマッチした時、あの浮き上がる変化が起きるのか、想像できません。それは、ルーレットの数字に狙って入れるよりも、数段難しい作業になると思います」


 サトシは、覚悟を決めた。自分がチルチルにたどり着くには、このボールしかない。

「お願いします」

 サトシは、リョウゼン和尚に深く頭を下げた。


 次の日から、早朝にサトシは魔球の練習に寺まで通った。サトシはリョウゼン和尚が寺にいようがいまいが、かまわず練習に行った。


 リョウゼン和尚は時にはアドバイスを与え、時には黙って見続けた。ある時はサトシが投げ続ける中、掃き掃除を続け、サトシの練習を見ることもなかった。サトシはそれでもいいと思った。


 スピードと回転が一点で噛み合った時に起こる奇跡の変化。その奇跡のボールをいつでも投げられるように、サトシは練習し続けた。


 遠征で、寺に行けない時は、誰もいない練習場や、時には球場の壁を目掛けてこっそりと練習した。いつ手に入れられるか判らない変化を求めて、無心にひたすら投げ続けた。


どうしても勝ちたい相手がいるのだ。



 


 





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