第44話 リョウゼン和尚 -投げるお坊さん-
サトシは、チルチルがずっと敬遠され続けるのを新聞で見て、自分のことのようにイライラした。逃げる投手たちに、それでも本当にプロ野球の選手なのかと言いたかった。
しかし、もし、自分がマウンドに立ち、チルチルと対戦する時、果たして、監督の指示を無視して、チルチルと真っ向勝負する勇気があるだろうか。世界最高レベルの日本の一流投手たちが、全く歯が立たないのである。自分が勝てる可能性は限りなく0%に近い。
そんな自分が勝負するとか言うのは、おこがましいにもほどがあるのかもしれない。自分に彼らを責める資格などないのではないか。いろんなことを考えると、益々いらいらした。
時々、「チルチル不要論」的な解説を、スポーツ新聞やネット動画で見ることが多くなった。それに追随した、ファンたちによる汚い言葉のコメントも目にするようになった。チルチルの目に入ったらどうしよう思うと、サトシは心が痛んだ。
このまま、一軍のマウンドで、チルチルと勝負することなく、チルチルが南の島に帰ってしまうのだとしたら、それはとてもやりきれない悲しいことだ。
サトシは、寮の裏山をジョギングしていた。試合や移動のない日は、調整と気分転換を兼ねて走る。小高い丘は緑も多く、東京にしては珍しく自然の森が残っていた。
なぜそんな緑が残っているかというと、その山は実は昔からあるお寺の敷地だったらしく、その土地に手をつけると祟りがあると昔から言い伝えがあり、誰もその土地を買おうとせず、森のまま残っていると、寮長が言っていた。 その話が本当かどうかはわからない。何度もジョギングや散歩をしたが、そもそも寺を見たことがなかった。
その日も、サトシは残暑の中、少しでも気が晴れるようにジョギングをしていた。それでも、チルチルが活躍の場を失い、この日本を去ることが不安で、気分は晴れなかった。知らず知らずのうちいつもより遠くまで走っていた。
丘の頂上を越えると、森が広がっていた。サトシも、蝉の声が響く、のどかな風景に驚いた。もう少し森の中を進んでみようと思う。すると森の中から、時々、「コーン。コーン」という音が、同じ感覚で聞こえてきた。
サトシは、足を止めて、その音に聞き入った。この音はどこかで聞いたことのある音だと思った。そう、子供のころに何千回となく聞いた音。これは、野球のボールの音だ。
サトシは、子供のころ、野球の練習が終わった後も、近所を走る鉄道の高架のコンクリートの壁に向かって、一人ボールを投げた。まだ、低学年でレギュラーになれない頃、いつかエースになることを目指し、日が暮れるまで、壁に向かって投げた。今聞こえるのはその時と、同じ音だ。
その音は森の向こう側から聞こえて来る。サトシは森の中に入っていった。その音の正体に興味がわいた。中へ進んでいると、木が伐採され、小道が続いていた。さらに進むと石段があり、その先にお堂が見えた。
サトシも、本当に、森の中にお寺があるとは思っていなかった。意外にも大きなお堂があり、境内はちゃんと草刈りがされ、落ち葉もなく、丁寧に掃除されていた。サトシは寮長の話通りにお寺があったので、ちょっとびっくりした。
更に近づくと、音は更にくっきりとボールの音に違いないと思えた。大きな本堂の裏側へ歩いていく。そこには、大きな石が積まれた石垣があった。そして、そこにはお坊さんがいた。
頭は剃りあげられており、背は高くはなかったが、背筋は伸び、贅肉も少なく、日頃から摂生しているのが想像できた。驚いたことにお坊さんは、グローブをはめていた。
お坊さんは、石垣に向かってボールを投げていた。勿論、プロ野球の選手から見れば普通の大人の投げるボールだったが、力はななくても、体に柔軟性もあり、美しい投球フォームだった。サトシは、ついついその後ろ姿に見とれた。
驚いたことに、お坊さんが投げるボールは、全て狂いもなく、石垣の中にある一つの石の同じ一点にぶつかった。それは何球投げても、同じスピードで同じ場所に当たり、同じように跳ね返り、同じように足元に跳ね返った。
まるで、一つの動画を続けて再生しているいるようだった。同じボールが際限なくコピーされる。
サトシは思わず拍手をした。その音に気が付いてお坊さんは振り返った。
「おやおや、これは驚いた」
お坊さんは、顔付きから六十歳くらいに見えた。この年齢で、あの美しいフォームで、投げ続けられるのは、鍛錬をかかさないからだろう。
「すいません。邪魔しちゃったかも」
「いえいえ、恥ずかしながら、プロ野球の選手にお見せできるようなものでは、ありません」
「えっ、俺のこと知ってるんですか?」
サトシはとても驚いた。
「私は野球が大好きなのです。この山の下にドルフィンズさんの寮があるのも知っていますよ。でも、ごめんなさい。私は特にひいきのチームはなく、ドルフィンズファンというわけではないのです。勘弁くださいね、サトミサトシさん」
サトシは更に驚いた。自分のように、最近になってようやく一軍に入り、それもリードされている時や大差で勝っている時に投げるピッチャーの顔を知っているなんて、相当の野球好きとしか考えられない。
「ありがとうございます」
サトシは思わずお礼を言ってしまった。
「でも、すごい綺麗なフォームですね。手投げでなくて、全身で投げてる」
「そんなそんな。プロの選手にほめてもらえるなんて恥ずかしい限りですよ」
「そんで、コントロールが素晴らしすぎる。同じ点にしか当たってないですよ」
「ああ、この石垣の平らな部分は、そこだけなので、他に当たると、ボールが他のところにはずんでいってしまうんですよ」
「狙ったところ、必ずそこに投げられるなんて、すごいっす」
「ははは、同じボールを何十年も投げ続けているだけですから。他にとりえもないので」
「何十年?」
サトシは訳がわからなくなった。
サトシはこの不思議な僧侶である投手を、もっと見たくなった。
「まだ続けるんですか?」
「そうですね、せっかくなので」
「すいません、その間見ててもいいすか?」
「どうぞどうぞ」
お坊さんは優しい笑顔で答えた。
お坊さんは、更に三十球ほど投げると、お堂に通してくれた。
「大きなお寺ですね。こんな近くに立派なお寺があるなんて、全然知らなかった」
縁側に腰かけ、サトシはお坊さんに出してもらった和菓子をほおばりながら、話を聞いた。
「実は、このお寺はある財閥の創業者の菩提寺なんですよ。ですから、私のようなぐーたら坊主でも、何とか切りもりやっていけるわけなんです」
お坊さんは、リョウゼンという名前で、この寺の住職だった。高校時代はピッチャーで、大学で野球を続けるか、僧侶としての修行に入るか、とても悩んだらしい。
僧侶になり、家に帰って、住職になっても、野球のことは忘れられなかった。野球好きの僧侶が集まったチームに入ったりもした。
遊びでも野球を続けている中で、試合の勝ち負けではなく、もっといいボールが投げられるのではないか。もっといいフォームで投げられるのではないかと、理想を追い求め始めた。寺には石垣があり、その前にちょうどいい空間があった。一人でも投球に磨きをかけることはできる。
「実は、毎日投げ続けていると、気が付いたんです。延々と続く反復練習は、私どもの修行に似ているのではないかと。ただただボールを投げ続け、そのうち勝ちたいとか煩悩がなくなり、肉体的苦痛も感じなくなったところに、無我の片りんを感じることができる」
「はあ、なんか難しい話ですね」
「理想の形を求めていくうちに、敵はどこにもいなくなる。ただ、最高の境地を目指して、ボールに心をこめる」
野球好きのお坊さん。サトシにとっては、不思議な体験だった。そして、このお坊さんの投球をもっと見たい、言葉をもっと聞きたいと思った。
「すいません、明日も来ていいですか」
次の朝、合同練習の時間前に、サトシは再び山の中に入り、森の奥の寺までいった。そこにはまた例のお坊さんが、ボールを投げ続けていた。
「おはようございます」
「来るかどうか、半々だと思ってました。すいません、疑った私を許してください。まだまだ修行が足りませんな」
お坊さんは、笑ってサトシを見た。
相変わらず、お坊さんは、一点にボールを投げ続けた。それは機械のようであり、流れ続ける川のようだった。同じ光景が反復し続けるので、サトシはなぜか気持ちよくなった。
「すいません、これでは、退屈ですね」
「いえいえ、そんなことないっす」
「では、ちょっとかわったボールを試してみます。まだまだお見せできるほどのものではないですが。プロの選手にちょっとは自慢したいという煩悩があるということで、勘弁してください」
そう言うと、お坊さんは、少し笑ってから、また石垣に向かった。
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