第40話 ナツカワ3 -瞬間芸大作戦-

 ナツカワはスランプからようやく立ち直り始めていた。不調の原因は、勿論チルチルにあった。ホームランを打たれて、球場で失神するような失態を、日本中にさらしてしまった。


 それからというもの、マウンドに上がっても誰かが、自分に後ろ指を差し、笑っているような気がして、フォームも集中力もぐだぐだになった。


 おかげで二軍にも落ちた。入団以来初めての挫折だった。この失態を取り返すには、やはりチルチルにリベンジする以外にはない。ナツカワは、それが自分の本来の力を取り戻す唯一の方法だと、確信していた。


 しかし、相手はモンスターである。しかも、ある程度のレベルに達すれば退治できるゲームのラスボスと違い、絶対に過ちをおかさない神様で底が知れない。既に今シーズンのホームランの数は百に近付いており、全ての勝負した投手が、例外なく打たれている。人間が投げる速球や変化球は、通用しないのはすでに結果が証明している。


 ナツカワは真剣に考えた。どうすれば、奴の超高速の反射神経を封じ込めることができるのか。


 150キロのストレートは0.41秒でホームベースに到着する。チルチルの反応が野生動物なみにすぐれていたとしても、0.3秒の集中力を殺してしまえば、まともにボールを打つのは不可能だ。


 では、どうやって、チルチルの0.3秒を奪うのか。キャッチャーに頼んで、目つぶしの砂をかけてもらうか。そもそも、チルチルはベースの反対方向を向いているので、物理的に不可能だ。何より、キャッチャーが、永久追放になるような頼みを聞くわけがない。或いはスコアラーに頼んで、レーザー光を浴びせるとか。自分がその手配をしていると知れたら、こっちが永久追放されてしまう。


 ナツカワが何とか思い付くのは、全て卑怯な手段で、それも現実にはあり得ない手ばかりだった。なんとかならないもんかと、ナツカワは溜め息を吐いた。


 日本のエースとしての名誉を取り返さなければならない。10億円も欲しい。俺が10億円を取ることが、当然あるべき姿だ。それからチルチルをモノにできるというあの話はまだ生きているのだろうか。ナツカワはチルチルのユニフォームのヒップの形と、ユニフォームの中の姿を想像して、少しムラムラした。とにかくどんな手を使ってでもチルチルを打ち取らなければ。


 ナツカワは二日後の先発に備え、練習場のブルペンで調整を終え、シャワーを浴び、ロッカールームに戻ろうとしていた。室内のジムで、トレーナーに付き添われ新人がバランスボードに乗り、体幹と平衡感覚を鍛えるトレーニングを行っていた。これは、ナツカワ自身が、以前にトレーナーと相談し導入した器具だった。



 若い奴も俺を習って、この練習に取り組んでいるのがいるのだと、関心して見ていた。


 たまたまそこにバッテリーコーチが、通りかかり、「おお、頑張ってるな」と声をかけた。突然の声に、新人は驚き、大きくバランスを崩した。そして伸ばした手の先にバッテリーコーチの頭があった。


 コーチがヅラなのは、チームでは公然の秘密だった。たまたま手の先にあった髪の毛の感触に、新人は反射的につかんでしまった。一秒後で転倒した新人の右手にはふさふさとした髪の毛のかたまりがあった。新人は事の重大さに固まったが、トレーナーは慌てて新人の右手からカツラを取り上げ、バッテリーコーチの頭にかぶせたが、その向きは不自然だった。


 新人は、立ち上がり、すいませんすいませんと平謝りに謝った。バッテリーコーチはカツラの向きを変えると、何事もなかったように、黙って去っていった。


 ナツカワはその場から走り去って、外へ出ると、一人で一分間笑い転げた。きっと、これからもあの奇跡の事故シーンを思い浮かべる度に、大笑いしてしまうだろう。


 勘弁してくれ。もし、試合中に思い出してしまったらどうしよう。野球どころではなくなってしまうではないか。そう考えたところで、ナツカワは急にひらめいた。「そうだ、この手があった」




 早速家に帰ると、ナツカワは鏡の前に立って、ほっぺと目尻をつまんで、舌を出して見た。初めてのやってみる変顔にナツカワは笑った。


 鼻を持ち上げたり、下唇を突き出したりして、その度に、自分の変な顔に、声を上げて笑った。


 ついには、妻を鏡の前に呼んで、変顔の数々を披露した。

「あんた、頭おかしくなったの?忙しんだから勘弁してよ」

 妻は相手にもせず台所に帰った。まだまだ改良の余地があると、ナツカワは思った。


 ナツカワは、久し振りのドルフィンズ戦のマウンドに先発することになった。今年はドルフィンズ戦で、いい思い出が何もない。全てはチルチルのせいだ。監督からは、大差で勝ってない限りは敬遠しろという指示が出ている。もう俺に恥をかかさないようにと、一応気をつかってくれているのだろうと、善意の解釈をする。


 しかし、俺はこの日のために秘密の特訓をこなしてきたのだ。


 一回表、最初のバッターを三振に取るが、二番バッターに力んでデッドボールを出してしまう。監督とピッチングコーチがベンチで動揺するのが見て取れた。


 そんなに慌てるなよ。こっちには作戦があるんだから。


 チルチルが、バッターボックスに向かうとブーイングや、歓声が入り混じって、スタジアムに響く。


 五分後には、球場の声は、俺への大歓声に変わるだろう。プライドを捨てて、俺は今から化け物退治を行うのだ。


 ナツカワはマウンドにキャッチャーを呼び寄せた。キャッチャーは、もう敬遠と決まっているのに、何事かと不思議に思う。


「いいか、お前は何があっても動揺するなよ。気を抜かずにちゃんと捕れ」

「あのお、敬遠じゃないんですか」

「馬鹿、俺が敬遠したら、誰があいつをやっつけるんだ」

「ええっ!マジすか。怒られますよ」

「いいから、座れ。お前にも幾らかわけてやるから」


 キャッチャーは、ナツカワの意味不明の強い覚悟を感じて、「これは俺のせいじゃない」と思いながら、仕方なくマウンドを離れた。


 敵味方、両方の大声援の中、チルチルはバッターボックスに入る。ナツカワはいきなり帽子を反対にかぶると、指で口を広げ、目尻を下げて垂れ目にして、舌を出した。その顔が球場のスクリーンに映し出されると、場内はどよめきと笑いで大騒ぎになった。


 ジャガーズベンチだけは、大混乱を引き起こし、監督は凍りついていた。


 チルチルの集中力と異常な反射神経を封じる必殺技。それは笑いだ。笑った瞬間に、人間は闘争心や集中力を消失する。チルチルだって人間だ。笑い転げた瞬間に、ホームラン製造マシンが、ただの女の子に変身する。


 自分はピエロに見えるが、本当は最高に危険な暗殺者だ。これぞ名付けて、ジョーカー大作戦。ナツカワは自分のアイディアに、酔いしれていた。


 次にナツカワは、チルチルにお尻を向け、相撲の四股を踏み始めた。そして振り返ると、ロージンバッグの粉を自分の頬に塗り、白塗りの顔を作った。その顔がスクリーンに映ると、場内は再び爆笑に包まれた。


「よし、つかみは完璧だ」

 そして、お尻を突き出しぺんぺんと叩いて見せると、更に笑いは高まった。両軍のベンチも笑っている。ただ監督とキャッチャーだけが引きつっていた。


 ナツカワは、自分の思い通りに笑いが取れ、とても気持ちが良かった。

「ここからが仕上げだ」


 ナツカワは、セットアップから、タコ踊りのようなくねくねとした動きで、ゆっくりと足を上げ、右手を引いた。顔はひょっとこのように、唇を突き出していた。

「ほいしゃあ」

 奇声を上げてナツカワは投げた。勝ったとナツカワは確信していた。

 

キーン。


 いつもの快音が聞こえ、打球はレフトスタンドを越えた。チルチルは笑わなかった。


 チルチルがダイヤモンドを一周している間も、笑いとヤジが球場に渦巻く。ナツカワは、これまでに感じたことのない羞恥心の底に叩き落された。顔が火照り、めまいがした。あまりの恥ずかしさに、気が付くと失禁してた。


 濡れたユニフォームを見て、恥ずかしさは倍増し、またしてもナツカワはマウンドで失神した。


 何人かのチームメートは、ナツカワが死んでしまったのかと思った。血の気の失せたジャガーズの監督は、もはやマウンドに駆け寄る元気は残っていなかった。

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